西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(39)
西暦2015年6月7日:日曜日

【『A・Course・in・Miracles』身体は幻想】

①【A・Course・in・Miracles】の内容:あなた自身の外を探してはいけない。それでは失敗するし、あなたは偶像が堕ちる度に泣くことになるだろう
②他者はエゴが定めた設定で動くロボットのようであり、中身がない―この視点の中では、特別性は一切生じない。みな同じ、エゴが作った作り物だ
③重要なのは、身体という手段でエゴが何を目的として動かしているかで、そのエゴの目的を崩そうとすることだけだ


【①【A・Course・in・Miracles】の内容:あなた自身の外を探してはいけない。それでは失敗するし、あなたは偶像が堕ちる度に泣くことになるだろう】

今回は、【A・Course・in・Miracles】の「身体・偶像」に関する引用を【A・Course・in・Miracles】原書と関連本ゲイリー・R・レナードの日本語訳本『神の使者』を用いて提示していく。

「身体は幻想」だという内容だ。

西暦2015年段階では本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】自体を歪みだと見ている。故に『神の使者』も同様だし、日本語訳で更に歪んでいる。
それを踏まえた上で引用するのは、知る過程では欠かせないからだ。

『神の使者』引用中「コース」とは【A・Course・in・Miracles】を指している。「J」とはJesus Christ(イエス・キリスト)を意味する。
引用中、見過ごせない日本語訳の違いの指摘や注意書きの為に、本物:佐藤篤代が「(※注意)」として挿入した。

『神の使者』の引用中のアーテンとパーサはアサンディッドマスターらしいが、アサンディッドマスターと神の教師はエゴ概念だと考えている。


▽以下引用


ゲイリー:よし。ぼくの好きな言葉の一つはこれだ。

―わたしは身体ではない。わたしは自由だ。なぜなら、わたしはいまも神が創られたままのわたしだから。

パーサ:いい言葉。「ワークブック(※注意:【A・Course・in・Miracles】)」のなかにあるのね。そこにはこういう言葉もあるわね。

―エゴは必死に身体にしがみつく。なぜならそこに住まい、それがつくっている家と結びついて生きているから。それは、それ自身が幻想であると明らかにならないように守っている幻想の一部だ。

さて、「コース」を学ぶ前のあなたが自分は身体だと考えていたのなら、ほかの人たちが自分は身体だと固く信じている、ってことはわかるわね。
(P299)

(※注意:だからこそ、他者に「身体は幻想だ」と言ったり教えても仕方がない。物質主義的な領域にいる者には特に受け入れられる筈がない考えだ。
人には受け入れ体制と受け入れ段階がある。
だから、他者に教えても仕方がない。受け入れられる段階にいれば必ず受け入れるべきことは向こうからやってくるか、自分で見出す。その為に他者から直接教えられる必要は全くない。
そして、「他者はいない」から教える意味がないといずれ気づく)

(※注意:【A・Course・in・Miracles】の言葉↓)
―身体はエゴの偶像である…罪への信念が肉体を生み出し、それが外部に投影した。次に心のまわりの肉の壁と見えるものが作り出され、心を小さな時空の囚われ人にする。その囚われ人は死につなぎとめられ、わずかな一瞬を与えられて主人のためにため息をつき、悲しみ、死ぬ。この聖らかでない一瞬が人生に見える…絶望の一瞬、水もなく忘却のなかにあぶなっかしく据えられた乾いた砂の小さな島。
(P214)

アーテン:…「コース」ではこう説明されている。

―もっと、でなければならない。何がもっとなのかはどうでもいい。もっと美しく、もっと知的に、もっと豊かに、さらにはもっと多くの苦悩、もっと多くの痛みですらかまわない。何かをもっと、というのが偶像なのである。一つが偶像の座から落ちれば、何らかをもっと見出したいという希望によって、ほかのものがとって代わる。だが「何か」がどんなかたちをとるかに欺かれてはいけない。偶像とはもっと得るための手段である。だからこそ、神の意志に反する。
神には大勢ではなく、たった一人(注意:人間ではないのだから1つ。神と一体で1つ)の息子しかいない。誰がもっと多くを得ることができ、誰がより少なくしか得られないというのか?
(P466)

アーテン:…きみたちは偶像を崇拝し続けることも可能だ。だが、それは賢いやり方だろうか?

―あなた自身の外を探してはいけない。それでは失敗するし、あなたは偶像が堕ちる度に泣くことになるだろう。ないところに天国はみつけられないし、天国以外に平和はない。

ゲイリー:それでもぼくは人生を生きて、目標を追求し、同時に赦すことができる。要するに心理的な愛着を赦すことが大事なんだ。
(P469~470)

(※注意:【A・Course・in・Miracles】では『天国=神=神と1つ』。但し神概念は歪み。平和は知覚。知覚はエゴしか作らないと【A・Course・in・Miracles】にある。

※偶像とは、宗教で仏像やキリスト像のような物を作って崇めるのを禁止する宗教もあり、「偶像崇拝の禁止」という宗教的な意味もあるが、それだけではない。
偶像とはあらゆる個々の存在を指す。例外はない。
例えば、Jesusや仏陀のような宗教的な偉人を崇め持ち上げること、聖徳太子やリンカーンのような歴史上の偉人を崇め持ち上げること、同じ時代を生きる成功者稲盛和夫やビル・ゲイツを崇め持ち上げること、歌手や俳優を崇め持ち上げること、そして家族や友人を尊敬、信頼するようなことを含める。
知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想。故に、あらゆる個々の存在である偶像とはエゴが作った幻想であり、幻の木に寄りかかれば倒れるように、同様に偶像に寄りかかれば倒れるという意味だ。
これが理解できなくてはならなかったので、本物:佐藤篤代は幼少から他者や他の全てに頼ったら(信頼、依存したら)危険であり、いつ失うのかわからないのだと実感させられてきた。
支えられない幻の木に寄りかかれば倒れるということを実感しなくてはならなかったからだとよく解る。
『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす(祇園精舎の鐘の音は「世の中に不変はないと言っているように聞こえる。沙羅双樹の花の色は、盛んな者は必ず衰えることを表している。思い上がった者は長く続かない)」も【人間レベル】ながらよくそれを表している。
http://kotowaza-allguide.com/si/jyousyahissui.html
知覚ある世界の中にあるように見える全ては全部、頼ったら倒れるから頼ってはいけない幻の木だと言うことを知らなければならないということだ。
すぐに倒れたと判ればいいのだが、倒れていることに気付かずに幻の木に取り込まれ、実態に気づけなくされるのが問題なのだ
偶像を頼れば甘い欺きの特別性の夢の中に陥らされ、倒れている実態に気づくまで、取り込まれるということだ。

※あらゆる個々の存在である偶像は必ず堕ちる。エゴが欺きの手段として作ったからだ。だからその特別性の誘引が限界になるよう持っていかれ、偶像はその為に必ず堕ちる。
特別性の誘引が不可能になるように、全ての欺きの手段が限界へ持っていかれるからだ。
それが、エゴの欺きの全ての終わりのプロセスだ。)
(※以上注意)

「神の使者」
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)

5. What Is the Body?

1.The body is a fence the Son of God imagines he has built, to separate parts of his Self from other parts.
It is within this fence he thinks he lives, to die as it decays and crumbles.
For within this fence he thinks that he is safe from love.
Identifying with his safety, he regards himself as what his safety is.
How else could he be certain he remains within the body, keeping love outside?

2. The body will not stay.
Yet this he sees as double safety.
For the Son of God's impermanence is "proof" his fences work, and do the task his mind assigns to them.
For if his oneness still remained untouched, who could attack and who could be attacked?
Who could be victor?
Who could be his prey?
Who could be victim?
Who the murderer?
And if he did not die, what proof" is there that God's eternal Son can be destroyed?

3. The body is a dream.
Like other dreams it sometimes seems to picture happiness, but can quite suddenly revert to fear, where every dream is born.
For only love creates in truth, and truth can never fear.
Made to be fearful, must the body serve the purpose given it.
But we can change the purpose that the body will obey by changing what we think that it is for.

4. The body is the means by which God's Son returns to sanity.
Though it was made to fence him into hell without escape, yet has the goal of Heaven been exchanged for the pursuit of hell.
The Son of God extends his hand to reach his brother, and to help him walk along the road with him.
Now is the body holy.
Now it serves to heal the mind that it was made to kill.

5. You will identify with what you think will make you safe.
Whatever it may be, you will believe that it is one with you.
Your safety lies in truth, and not in lies.
Love is your safety.
Fear does not exist.
Identify with Love, and you are safe.
Identify with love, and you are home.
Identify with love, and find your Self.
(P425)

(※注意:神概念、聖なるキラキラ概念は何かの歪みだ。例えだとしても、聖霊の目的下にいる段階だとしても、エゴが作った「身体を神聖」と言っている時点で、違和感が酷い状態に陥る。この違和感が後に歪みのせいだと解る。「兄弟(あらゆる他者)」とかの件も特別性の死守の為だ。
「Love=神=永遠=完全性」であり、この世界の中の特別性な愛の意味ではない。「you are home」の部分では「home=神」だ。
だが、知る過程として知っておく必要があるから提示した。)

△以上引用

【A・Course・in・Miracles】より
second edition
WORKBOOK FOR STUDENTS

「身体」に関する原文で提示したい部分は以前に引用しているので、以下にリンクを置いておく。

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23
(27)「夢の主人公」の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12017397555.html
(34)【A Course in Miracles】エゴの思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12029267318.html



【②他者はエゴが定めた設定で動くロボットのようであり、中身がない―この視点の中では、特別性は一切生じない。みな同じ、エゴが作った作り物だ】

あーあ。成功法則時代に沢山読んできた植西聰氏の内容がとうとう歪められて変えられてしまった。めんどうな…

西暦2015年6月5日:金曜日の新聞広告に掲載されていた『平常心のコツ』という本だ。しかも植西聰氏はアドラー派ではなくユング派の方向性だったのに、アドラー派の本まで出している。『アドラーが教える9つの勇気:やる気のコツ』―この2つが広告でならべられてるのを見ると、同じような内容だと窺える。実質解決するふりをして逃げる方法だろう。

心理カウンセラーなんだから植西聰氏がアドラーをやるのは別に構わないが、アドラーにしたのはユングの内容だとツッコミされて違う内容だと叩かれるからだろう。

どうやら見た所、内容は「鈍感さのすすめ」だ。問題を解決するのではなく、問題から逃げることにより、感覚を鈍感にさせて問題を見て見ぬふりをしろと言っている。要するに、問題解決をあきらめさせ、鈍感になって問題を見過ごさせる逃げる方法だ。

平常心のコツと言うが、見てきた植西聰氏が書くような内容のコツではないとはっきり言える。植西聰氏が絶対書かない逃げるコツだ。

植西聰氏の本で、もし問題を見過ごさせる方向性があるなら、本物:佐藤篤代は植西聰氏の本をあんなに沢山読まなかった。無意味で時間の無駄だからだ。

植西聰氏がこの本『平常心のコツ』のように問題を見過ごさせる方向性をとっていたなら、見てきたような成功法則の内容は書けない。大体、問題の核心へ向かおうとしていた本物:佐藤篤代が読むはずがない。

人間が行う内容には、絶対に一貫した方向性(信念)がある。逃げる方法を教えるヤツは、どんなに自分の主旨とは違う内容を書いていても、逃げ姿勢が滲み出るということだ。一貫した方向性(信念)は隠せない。
その点からして、植西聰氏のこの『平常心のコツ』という本は別人が書いたとしか言いようがない。
本物:佐藤篤代が見てきた植西聰氏の内容とは方向性が全く違う。内容が激しく退化したとしか言いようがない。成功法則の内容を書いたヤツがここまで中身のないエッセイレベルに堕ちることはあり得ない。そんな問題を見過ごさせる方法など誰にでも書ける。

ということは、『平常心のコツ』を書いた植西聰氏と本物:佐藤篤代が読んできた植西聰氏は別人ということになる。クオリティが違いすぎて別人としか言いようがない。

こんなバカでも書ける内容を書く人物の本を、何故あれほど沢山読むはずがあるのか?役に立ったから沢山読んだのだ。成功法則の実践を極めるために役に立つ本を探しまくり、読みまくってる中で、役に立たない無駄な本は読まない。だから、別人だと断言できる。

要するに、この領域の心理学の内容が漏れすぎて世界の作り手エゴが【異世界レベル】の心理学の内容を改正しなくてはならなくなり、ついに本物:佐藤篤代が沢山読んだと書きまくってきた植西聰氏を作り出し、その内容を低レベルに歪めたということだ。
だから植西聰氏が別人状態になっている。

植西聰氏は成功法則的な内容だと何度も言ってるのに。ジョセフ・マーフィーの本の日本語訳をやった内の1人だ。だから沢山読んだのだ。成功法則で有名なジョセフ・マーフィーを読んだ後で読んでいる。だから、植西聰氏は心理学レベルの内容ではない。クオリティが違いすぎる理由がわかるはずだ。心理学の内容を超えているわけさ。

そんな植西聰氏がこんな糞みたいな内容書くわけないだろうが。低レベル過ぎて話にならない。植西聰氏を別人にして低レベル過ぎる内容に歪めたとしか言いようがないのだ。

問題から逃げる方法を植西聰氏が書くわけないだろ。
いいかげんに歪めすぎだ。
問題の本質へ向かおうとする方向性だから沢山読んだのだ。成功法則レベルの原因レベルは根っこではないが、根っこの問題解決への道筋の途中だと言える段階なのだから、逃げる方法は無理がある。

これほどまでにあからさまにインチキとしか言いようがない状態、どう【人間レベル】で説明するんだ?【異世界】で歪められ過ぎた内容が、この領域に表れたとしか言いようがないだろ。

だから、【A・Course・in・Miracles】知覚ある世界はエゴが作ったインチキとしか言いようがない。

同時に、身体はエゴが作った幻想でありインチキだ。
エゴが視界レベルで身体を作る。
エゴが世界の主人公の視界レベルで身体が動き話すように作るのだ。無論、必要ならば主人公の関係者の視界レベルでも世界を作る。

身体は中に魂が詰まった質感を持った物質というよりは、エゴがプログラミングして動く「身体という映像」と言った方が解りやすい。
要するに、中身がない。
中身がないバーチャルリアリティー的なイメージで捉えれば判るだろう。

だから、身体という外側の張りぼてだけが認識された状態では、中をいくらでも変えられるワケだ。要するに発覚されていない水面下をいくらでも作れる。勿論、身体の作り手であるエゴが全てを作る。

だからこそ、上記の植西聰氏のような状態が生じるワケだ。沢山読んで見てきた植西聰氏の内容ではない、全く別人の方向性(信念)の内容だった理由だ。
決定的に同じ信念の主が書く内容ではない。

本物:佐藤篤代が沢山読んだ植西聰氏に関しての事実はまだ少ししか出ていなく、【異世界レベル】で漏れても必ず完全に隠せなくなる状態に陥らない限り、隠されて歪められる。だから、まだ隠せる水面下が実際とは全く異なる内容に変えられたのだ。それが別人が書いたとしか言いようがない『平常心のコツ』という植西聰氏の本だ。

同じ『平常心のコツ』というタイトルの本を書いたとしても、本物:佐藤篤代が見てきた絶対植西聰氏は全く違う内容を書く。逃げる方法など書かない。

隠されて歪められるワケだから、内容は歪みが酷いほど浅くなり、中身がない内容になる。『平常心のコツ』という本がその一例だ。

以前にツッコミした和田秀樹氏と同じ事態に植西聰氏が陥らされたワケだ。世界全体の心理学レベルから成功法則へ移行がこの二人に象徴づけられているのがよく判る。和田秀樹氏は心理学レベルに留まる象徴(しかも内容が浅い)。植西聰氏は今回の影響により世界世界の中での心理学レベルから成功法則レベルへの移行の象徴。となると、成功法則はジョセフ・マーフィーが象徴となり、二人と同じ事が起きそうでうんざりする。恐らく同じように内容を歪められ、浅くされるだろう。

カール・ユングもだが、ジョセフ・マーフィーも主に西暦1900年代前半の人々で西暦2015年にはとっくに死去しているから、内容的なものは、直接はやりにくいのかもしれないが。西暦2015年に生きている人物ではないとやりにくいのかもな。

ただ、やっと異世界すべてを含めた世界全体の中における、思考システムが心理学レベルから成功法則へ移行しようとしている段階の影響に取り組まされているのが窺え、その進行は歓迎できるが。

というように、エゴは水面下をいかようにも作れるワケだ。この事実を見せつけられたら、もはや身体(個体)など中身のない空っぽな張りぼてだ。判明していない個体の水面下をエゴはいくらでも作れるのだ。

この事実を見せられては、身体が幻想という意味を実感しないワケがない。文字通り、中身がないのだ。存在しているように見えているだけで、実際は存在しない。単なるエゴの欺きの道具でしかない作り物だ。これは自分も含めてだ。

身体がいかに無意味かがはっきりと実感される。全てがインチキ臭い。
この実感が生じた時、あらゆる他者に対する特別性の誘引は生じない。一切特別な感情は生じない。
全ての個体は例外なく、エゴの欺きの手段でしかない。

みな同じエゴが作った幻想でしかない。
インチキでしかない。

【他はない・他は幻想】だ。

この見方により、あらゆる個々の存在における特別性は終わる。

そしてこの見方から、再利用段階が始まる。
この見方が知覚ある世界の全てがみな同じエゴが作った幻想という視点だ。

この視点の中で、ある特定の他者が何をするか、どんな態度をとるか、どんな傾向を持つかは一切関係がない。
中身がないからだ。
見出すべきは「その場でなされているシチュエーションの中に含まれた、エゴの目的は何か」だ。
そのエゴの目的によって、同じ人物でも応対方法が全く変わる。時には180度変わる。他者の態度が首尾一貫しない理由だ。
だから、他者がどんな人かなど、人柄も言動も一切関係がない。

それ故に、あらゆるシチュエーションの中で重要なのは、誰が何をしたかではなく、その中に必ず含まれたエゴの目的が何なのかを見極めようとすることだ。
そして、そのシチュエーションの中でどう言動すればエゴの目的が崩せるかを考える。
だから、他者の反応など、どうでもいいのだと解る。全てはエゴの目的の為にだけ作られているからだ。

本物:佐藤篤代の人生の中で、全体を通して「他者はエゴが定めた設定で動くのであり、中身がない」とよく解るルートだった。

この視点の中では、特別性は一切生じない。みな同じ、エゴが作った作り物だ。



【③重要なのは、身体という手段でエゴが何を目的として動かしているかで、そのエゴの目的を崩そうとすることだけだ】

西暦2015年6月7日:日曜日に心理学アドラー派の本『嫌われる勇気』という広告が出ていた。別に心理学は好きにやったらいいよ、好きに本出したらいいよ。もう通り過ぎ過ぎて役に立たないだけだから。だが、こちらに影響を与えるなら、崩しにかかる。

アドラー派の心理学なんか、役に立たないから放置するつもりで、『そういう学派』と心理学の一例で済んだものの、あきらかなケンカ売るような単なる言葉の違いであるだけの否定をして、「アドラー派の方が進んでる」とかさせたい勢いがあるのが見えたので、内容なんか触れるつもりもなかったが、ツッコミ入れざるを得ない。

「アドラー派が進んでる」とかそういう問題ではないのだ。本物:佐藤篤代は単に、心理学自体が限界だと言っているだけだ。アドラー派だろうが、フロイト派だろうが、ユング派だろうが、どんな派だろうが、同じ。心理学には限界があるだけだ。

だから単に、心の内側へ向かう次の段階である成功法則に移行しろと言っているだけだ。
エゴが作った【異世界】も含めた全世界の思考システムの移行という流れの過程において、心理学レベルが成功法則へ移行しろと言っている。

思考システムにおける次の段階への移行をしろと言っているだけなんだよ。アドラー派がどうのとか、どうでもいい。単に心理学レベルは限界だから次の段階へ移行しろと言っている。

因みにアドラー派のこの本は【異世界レベル】の思考システムの象徴としてこの領域に恥ずかしげもなく表れているわけだ。

「自己肯定ではなく自己受容」とか意味ない言葉だけの違いの否定をちまちまちまちまやってるなよ、と言っている。人が「自己肯定型・他者否定型」と【異世界レベル】の原始的な領域の主人公を言っているからと、バカみたいにケンカ吹っ掛けたように惨めな井の中の蛙的な否定すんなよ。こっちが恥ずかしくなるわ、そのちまちましたセコさに。

こっちが扱ってるのは桁違いのスパンの思考システムなんだよ。心理学レベルのセコ過ぎるちっちゃい争いなんか、アリ同士の縄張り争いにしか見えない。

そりゃ自己肯定に自己受容的な意味が含まれてるのは当然だろうが。ユングだって自己受容の意味は含まれてる。単ユングは日本人じゃないんだからさ、単に日本語訳の違いだろ。バカバカしくて話にもならない。

逆に、アドラー派のセコさとちっちゃさと中身の薄さと浅さが露呈しただけじゃん?結局、単に何も新しくはなく、古臭いだけなんだよ。化石か?

心理学なんかで出し抜こうとしたって仕方あるまいよ。全世界の思考システムの移行に抵抗しているエゴに対して、行われている実際の意味をはっきりさせる為に言っている。
こっちは原因レベルが起源レベルなんだからさ。アリに殴られた位の意味しかない。要するに影響は一切ないが、まとわりついてくるアリを元の巣に返す位しかしない位の影響で無意味過ぎ。

本物:佐藤篤代の言っていることを否定するために他の学派を使うなよ。意味ないから。領域という意味での思考システムのレベルが違いすぎるんだよ。

しかも、どんなに本物:佐藤篤代の言っていることを否定したくても、どう考えたって心理学レベルでは、不可能だ。その後に数段階のレベルがあるから、その時点で不可能だ。

どうやっても、前に作られた世界の領域は後から作られた領域の概念に太刀打ちできる筈がない。しかも、最後の世界のルートにはそれまでに作られた世界のどの領域も太刀打ちできない。

これは本当に、個体や個々の存在が凄くて天才レベルだからではなく、世界の思考システムの移行が理由だ。
個々の存在なんかどれだって同じ。何に言わせたって同じなんだよ。個々の存在なんか、思考システムを表現する手段に過ぎない。世界の段階のレベルの話だからな。
そして、エゴが作った【異世界】も含めた全世界の思考システムの移行をプログラミングしているのが、エゴとは正反対の【終わらせる為に作用する何か】だ。

これはエゴが作った全てを完全に終わらせる為の計画だ。

世界の起源レベルを扱う【A・Course・in・Miracles】でやるならともかく、心理学レベルで否定しようとするなんて、思考システムのレベルが違いすぎるから不可能なんだよ。ただ、【A・Course・in・Miracles】レベルでそれをやったら実践できてないとなるだけだがな。どの教えも結局がんじがらめになるだけなんだよ。

だから、誰が何をしたか、言ったか、提唱しているかなんか、実際無意味だ。個体など世界に表現される思考システムを表現する為の器に過ぎない。

エゴにとっては、もしある特定の偶像が象徴として浮上して打ち消せない状態ならば、その偶像を利用して、都合がよいように言動する中身を変える。打ち消せない部分はそのまま使いながら、まだ発覚していない水面下を変えるのだ。
これは心理カウンセラーの植西聰氏などに顕著に表れていた例として、前に指摘した。

その偶像が利用限界となったら、今度は違う偶像を作り出して、エゴがその時点で押し通したい思考システムを表現させる。これは今回のアドラー派の本に如実に表れている。

エゴがその時点で押し通したい思考システムを表現できるならば、どの個体でもいいわけだ。故に、「どの個体が」とか個体なんかどうでもいいわけだ。

エゴとしてはより魅力的な個体で思考システムを表現することで、特別性を死守したい。あるいは、より魅力的な個体で表現することで、どうしても否定したい思考システムや言葉やその他を否定させる。アドラー派の本のように。目的はいずれにしろ、それぞれの領域の主人公の特別性の死守だ。

【終わらせる為に作用する何か】はその逆であり、エゴとしては使いづらくて仕方ない、魅力では誘引できない個体で、魅力と特別性を決して誘引できない方法で、思考システムを表現させるように、エゴに作らざるを得なくさせていく。目的は特別性を終わらせることだ。

この問題は同時に、身体・偶像の無意味さをはっきりと表している。実質個々の存在は中身がないからっぽな状態だ。そのからっぽな器は全てロボットのようであり、エゴにコントロールされて動いているように見えるだけだ。

そのエゴのコントロールの方向性を『そう作らざるを得ない』とさせる為に全体に作用しているのが【終わらせる為に作用する何か】なのだ。

結局、個体、あらゆる個々の存在はこの2つの正反対の作用により動かされているように見えるだけのロボットなのだ。

個体、あらゆる個々の存在は、例外なく、エゴか【終わらせる為に作用する何か】の目的の下で、その目的を表現させられているだけの道具に過ぎない。
中身などないのだ。

これが身体はエゴが作った幻想という実際の意味だ。

重要なのは、身体という手段でエゴが何を目的として動かしているかで、そのエゴの目的を崩そうとすることだけだ。

参照:西暦2014年段階の佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/18717650/23
(4)他は無い・他は幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970071517.html
(5)ロボット概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970072646.html

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(39)
【A Course in Miracles】身体は幻想
西暦2015年6月7日:日曜日


西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23

(1)エゴの隠す特質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11974654245.html
(2)エゴが隠し取り繕う過程
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11975807518.html
(3)2つの正反対の思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11976707775.html
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11978246696.html
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(6)原因と結果の法則
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11982652628.html
(7)繰り返しのサイクルの終わり
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11983485361.html
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11986007920.html
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11987258358.html
(10)やり直しのスパイラル
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11989740061.html
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11991064187.html
(12)エゴが作った幻想の再利用
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11993159401.html
(13)身体の脆さと死におけるエゴの目的
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11994375354.html
(14)身体は幻想・死はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11995592527.html
(15)【死の超越】の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11998096555.html
(16)『罪の起源』の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11998915374.html
(17)罪は幻想・罪はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12000205331.html
(18)罪の投影の世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12001831249.html
(19)スケープゴートへの罪の投影
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12004677231.html
(20)罪をでっち上げる世界
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12006320153.html
(21)エゴが罪悪感を作った理由
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12008401797.html
(22)罪悪感の投影の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12008405314.html
(23)自分自身に対する戦いの実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12011755756.html
(24)【異世界レベル】の穴概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12013322433.html
(25)エゴが作った全ての再利用
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12014997902.html
(26)真の公平な視点
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12015380689.html
(27)「夢の主人公」の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12017397555.html
(28)「攻撃の完全放棄」の実質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12018660133.html
(29)与えることと受け取ることは同等
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12020315340.html
(30)【A Course in Miracles】の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12022798022.html
(31)【A Course in Miracles】世界はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12024092595.html
(32)【A Course in Miracles】幻想の意味
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12025684819.html
(33)【A Course in Miracles】幻想の消滅
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12027300629.html
(34)【A Course in Miracles】エゴの思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12029267318.html
(35)【A Course in Miracles】エゴの台本
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12030482397.html
(36)【A Course in Miracles】エゴと聖霊
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12032096300.html
(37)【A Course in Miracles】聖霊
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12033251660.html
(38)【A Course in Miracles】死はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12035281573.html


西暦2015年1月
http://simplog.jp/comment/19628362/23
西暦2015年2月
http://simplog.jp/comment/19628500/23
西暦2015年3月
http://simplog.jp/comment/20021719/23
西暦2015年4月
http://simplog.jp/comment/20577503/23
西暦2015年5月
http://simplog.jp/comment/21087350/23


この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う





西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2015年現在)

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(39)
【A Course in Miracles】身体は幻想
西暦2015年6月7日:日曜日

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