西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(45)
西暦2015年6月28日:日曜日

(45)【『A・Course・in・Miracles』実践:赦し】

①【A・Course・in・Miracles】レベルの赦し
②自分の思考や知覚も、知覚ある世界の全てが「赦し」の適用対象。それに良いも悪いも関係ない
③スケープゴート糾弾が必要だから大事に取っておくのか、それとも根っこから解決する為に一切のスケープゴート糾弾を棄てるのか―これは【A・Course・in・Miracles】の罪を現実とさせない「赦し」を実質的に採り入れるか否かのボーダーラインなのだ


【①【A・Course・in・Miracles】レベルの赦し】

今回は、【A・Course・in・Miracles】の主要な考え「赦し」に関する実践的方向性の引用を【A・Course・in・Miracles】原書と関連本ゲイリー・R・レナードの日本語訳本『神の使者』を用いて提示していく。

【A・Course・in・Miracles】の「赦し」の概念は前回(44)の概念記事に示した。

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23
(44)【A Course in Miracles】概念:赦し
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12043353309.html

【A・Course・in・Miracles】の「赦し」とは、この世界で言われる赦しとは全く異なる。
「知覚ある世界の全てをエゴが作った幻想」と例外なく見ることだ。
【A・Course・in・Miracles】では例外を作り、特に神の教師という例外を作り出して特別性を温存させ、結果「他は現実・他は在る」とさせている。しかし例外を1つでも作れば、世界の全ては自分にとっての現実としかならない。

本物:佐藤篤代は例外なく徹底的に矛盾なく追究する方向性を目指しているので、西暦2015年段階では【A・Course・in・Miracles】自体を歪みだと見ている。神概念も歪みだ。聖なるキラキラもエゴのアメだと疑ってかかる必要がある。
故に『神の使者』も同様だし、日本語訳で更に歪んでいる。
それを踏まえた上で引用するのは、知る過程では欠かせないからだ。

『神の使者』引用中「コース」とは【A・Course・in・Miracles】を指している。「J」とはJesus Christ(イエス・キリスト)を意味する。
引用中、見過ごせない日本語訳の違いの指摘や注意書きの為に、本物:佐藤篤代が「(※注意)」として挿入した。

『神の使者』の引用中のアーテンとパーサはアサンディッドマスターらしいが、アサンディッドマスターと神の教師はエゴ概念だと考えている。

また、【A・Course・in・Miracle】原文に多々出てくる「brother」は「あらゆる他者」を指すが、これは特別性を温存するための理由で書かれている場合がほとんどだ。
歪みだが【A・Course・in・Miracles】の「Heaven」は「Heaven=神=神の創造物=神と1つの状態」だ。
「Atonement」とは神から分離したという神の息子の誤思考から生じた誤創造であるこの知覚ある世界の中に神が投入した唯一の答え:聖霊により、誤創造を終わらせるためにこの世界の中に組み込まれた計画を示す。

▽以下引用

(↓【A・Course・in・Miracles】の言葉)
赦すとは、兄弟(※注意:あらゆる個々の存在)があなたにしたとあなたが思っていることは実際には起こっていないと認識することだ。それは罪を免じることによって、対象を現実にすることではない。それは罪などないと見抜くことである。その見方の中で、あなたのすべての罪が赦される。
(P335)

エゴにとって自分が存続するいちばんいい方法は、あなたが台本に反応し、心のなかでそれを現実にするように仕向けることなんですからね。エゴは紛争を望むし、あなたが否定的な感情で反応したら、それは紛争なの。エゴのシステムを生かしているのはあなたの判断だけど、赦すことでそこから解放される。だから気をゆるめちゃだめよ。
赦すって、事前に与えることよ。言い換えれば、あなたの意識に何が上がってこようとも赦す用意ができているってこと。最初はすごく大変に思えるでしょう。
(P263)

世間に対しては自分らしく行動して、あとは聖霊に任せればいいんです。もちろん、あなたがそうしたければ指針を求めたり経験を分かち合ったりすればいいわ。でも、世界やそこにいる誰かを変えようとは思わないこと。ただ、赦しなさい―口に出さずに。誰かのところへ行って、「きみを赦しているんだよ、わかるかい」なんて言わなくてよろしい。
(P299)

(※注意:「世間に対しては自分らしく行動して」ではなくて「聖霊に全託してstep backしながら」だ。何があっても状況にそのまま反応せず一歩下がりエゴの目的を見極めようと観察する。
因みに『経験や概念は他者とは分かち合えず、それは「他は無い」からだ』と判るために一度分かち合おうとする方向性を取る)

パーサ:…あなたは聖霊とともに努力して目を開き、夢から目覚めて、真の自分と自分の居場所に気づくように心を整えなくてはいけません。いまのあなたの状況でどれほど難しくても、あなたの数々の生はすべて、どこにも向かわない大きな大きな心の旅でしかない。あなたが真実を経験できる場所に到達するためには、努力が必要なの。
だから努力しなさい。赦しについて考えなさい。おしゃべりはいらない。赦しは黙って行われるものです。「コース」を実践しなさいね、ゲイリー。捨ててはいけません。ただ神に祈っていればそれですべてうまくいくと考えるなんて、そんな罠に落ちてはだめよ。そんなのは神話です。「コース」には「神の平和を欲する」という言葉が書いてあるでしょ。

―これらの言葉を口にしても何にもならない。これらの言葉を本気で思うことはすべてである。

同じ「ワークブック」のレッスンのその後のほうには、こう書いてあるわ。

―神の平和を欲すると本気で思うとは、すべての夢を否定することである。

だから言葉ではなく赦しによって神の平和を欲していることを示しなさい。狂った星の息の根を止めたいと本気で思うなら、赦しという宿題をやらなくてはいけないし、それはあなたがさっき言ったように、日々目の前に現れることに「コース」の真の赦しを実践することなのよ。それが、聖霊があなたに学ばせるレッスン。いつも完璧にできるとは限らないし、うまくいかないことだってあるでしょう。ときには後になってからしなくてはならないかもしれない。でも、それでいい。記憶はほかのイメージと同様にリアルですからね。みんな、同じ。だから記憶を赦して、解放しなさい―そして同時に世界を救うの。最初にあなたのもとへ来たとき、あなたは他人ではなく自分自身の赦しというレッスンに集中することで世界を救う、と話したわね。赦しの法則とはこういうこと。

―恐怖は世界を縛りあげる。赦しは世界を解放する。

世界が堅固に感じられるのは、恐怖によって結束してあるから。わたしは世界が堅固だと感じない。だって世界を赦しているから、あなたが夜見る夢と同じでちっとも堅固とは感じられないの。
(P316~317)

(※注意:「世界を救う」とか表現は不必要だ。エゴの目的で混同させる為の記載だ。)

アーテン:…遅かれ早かれ、すべてはある種の赦しとどれほど積極的に赦す意志があるかに帰着する。きみはすべての夢のなかで起こっていることをどれくらい積極的に認められるかな?どれほど積極的に自分の夢を手放して、神を選べる?「コース」のなかで、Jがちょっとしたトリックを使っているのに気づいただろう。ほとんどの場合、彼(※注意:コース初心者)は少し意志が必要だ、といっている。だが、それは上級者向けじゃない。「教師用マニュアル」では「途方もない」意志が必要だと述べている。
(P386)

―これはわたしたちが早めようと試みている経験をさらに超えている。だが赦しが教えられ学ばれれば、これ以外はいっさい捨てると心が決意したそのときを目撃する経験ができるだろう。
(P404)

―真の赦し・思考プロセスの実例
あなたはほんとうはここにはいない。もしわたしがあなたに罪があるとか、あなたが問題の原因だと考えるなら、そしてわたしがあなたをつくり上げたのなら、創造された罪や恐怖わたしのなかにあるに違いない。神からの分離が決して起こっていないのだから、わたしは自分たちがほんとうはしなかったことについて、わたしたちの「両方」を赦す。こうして存在するのは無辜だけであり、わたしは平和のうちに聖霊と一つになる。
(P331)

△以上引用

『神の使者』より引用
原書:The Disappearance of the Universe
ゲイリー・R・レナード著
吉田利子訳



【②自分の思考や知覚も、知覚ある世界の全てが「赦し」の適用対象。それに良いも悪いも関係ない】

以下は【A・Course・in・Miracles】ワークブックで、浮かんでくるすべての思考を無意味と見る実践レッスンだ。

【A・Course・in・Miracles】の「赦し」とは他者がしたと思う全ては起きていない、と「罪は無い・罪は幻想」と見るだけではなく、浮かんでくる全ての思考も「赦し」の適用対象ということだ。

知覚ある世界の全てとは、全ての自分の思考や知覚も含まれる。知覚ある世界の全てが「赦し」の適用対象なのだ。

それに良いも悪いも関係ない。全てが「赦し」の対象だとわかりやすいので、【A・Course・in・Miracles】LESSON4を全提示する。


▽以下引用

LESSON4

These thoughts do not mean anything.
They are like the things I see in this room [on this street, from this window, in this place].

1. Unlike the preceding ones, these exercises do not begin with the idea for the day.
In these practice periods, begin with nothing the thoughts that are crossing your mind for about a minute.
Then apply the idea to them.
If you are already aware of unhappy thoughts, use them as subjects for the idea.
Do not, however, select only the thoughts you think are "bad."
You will find, If you train yourself to look at your thoughts, that they represent such a mixture that, in a sense, none of them can be called "good" or "bad."
This is why they do not mean anything.

2. In selecting the subjects for the application of today's idea, the usual specificity is required.
Do not be afraid to use "good" thoughts as well as "bad."
None of them represents your real thoughts, which are being covered up by them.
The "good" ones are but shadows of what lies beyond, and shadows make sight difficult.
The "bad" ones are blocks to sight, and make seeing impossible.
You do not want either.

3. This is a major exercise, and will be repeated from time to time in somewhat different form.
The aim here is to train you in the first steps toward the goal of separating the meaningless from the meaningful.
It is a first attempt in long-range purpose of learning to see the meaningless as outside you, and the meaningful within.
It is also the beginning of training your mind to recognize what is the same and what is different.

4. In using your thoughts for application of the idea for today, identify each thought by the central figure or event it contains; for example:

This thought about _ does not mean anything.
It is like the things I see in this room [on this street, and so on].

5. You can also use the idea for a particular thought that you recognize as harmful.
This practice is useful, but is not a substitute for the more random procedures to be followed for the exercises.
Do not, however, examine your mind for more than a minute or so.
You are too inexperienced as yet to avoid a tendency to become pointlessly preoccupied.

6. Further, since these exercises are the first of their kind, you may find the suspension of judgement in connection with thoughts particularly difficult.
Do not repeat these exercises more than three or four times during the day.
We will return to them later.
(P6~7)

【A・Course・in・Miracles】
second edition
WORKBOOK FOR STUDENTS



【③スケープゴート糾弾が必要だから大事に取っておくのか、それとも根っこから解決する為に一切のスケープゴート糾弾を棄てるのか―これは【A・Course・in・Miracles】の罪を現実とさせない「赦し」を実質的に採り入れるか否かのボーダーラインなのだ】

【A・Course・in・Miracles】で言う「赦し」とは、「知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想」と見ることだ。
それは他者が行っていることを現実ではないと認識することだ。
故に、殺害事件が生じても、犯人も被害者をも「知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想」と見ることだ。
それは世界が現実だと信じたく、世界が現実だと信じて疑わない者には決して不可能な見方なのだ。

普通の一般的な人間は犯人を責め立て、被害者に同情する。
原始的思考システムであればある程、人間は悪者、犯人を責め立て糾弾する。
進化した思考システムでも、この世界の許しとして、自分を高くさせて他者を落とす為に現実の罪を大目に見て許す。
要するにどちらにしろ罪を現実にさせている時点で、どちらとも他者の罪を糾弾している。
自分は潔白だと示すために必要だからだ。だから【人間レベル】は他者の罪を許す。

それは【A・Course・in・Miracles】で言うように知覚ある世界が罪の投影で成り立っているからだ。

自分には罪がない、自分は悪くない、外側が悪く、外側にこそ罪がある―これこそが世界を構成している思考システムだ。

だからこそ、知覚ある世界はスケープゴート糾弾の為に構成されている。

目的はスケープゴート糾弾だ。その為に罪が作られ、加害者と被害者を作り出す。全てはエゴの台本通りに。全てはエゴの意図通りに。
大義名分を得た被害者は加害者の罪を糾弾できる。便乗して社会は加害者の罪を糾弾する。
目的は常にスケープゴート糾弾の為。

皆、外側を責め立て、罪を外側に見て糾弾するための大義名分を探し求め、あらゆる手を尽くしているかのようだ。

以下のニュースはそのスケープゴート糾弾の為の巧妙な流れを象徴している。

西暦2015年6月20日:土曜日
http://www.asahi.com/sp/articles/ASH6M5GNWH6MUTIL02P.html
神戸市の連続児童殺傷事件の加害男性(32)=事件当時14歳=が書いた手記「絶歌」が、ベストセラーになっている。遺族は出版中止と回収を求めたが、出版社は「社会的な意味がある」として増刷を決めた。表現の自由と遺族への配慮を巡り、書店や図書館は対応に頭を悩ませている。
以上

当時中学生で児童殺傷事件を起こした少年は、大人になり手記を出し、再び糾弾を受け、社会全体から責め立てられている。

格好のスケープゴート糾弾対象というわけだ。

原始的思考システムであればある程、喜んで糾弾対象を徹底的に糾弾する。責めたくて責めたくて責めたくて待ってましたと言わんばかりに叩く。かじりつくように叩く。

だから、より進化した【人間レベル】の思考システムを提示することにより、あらゆる方法でのスケープゴート糾弾が不可能になる一手を投じることにした。
無論、社会や現実の他者を変えようなど無駄なことをするためではない。
同じ領域ではなく、エゴが作った【異世界レベル】の全主人公(偽者)の領域の思考システムを移行させる為にだ。

主人公(偽者)レベルに、どんな手でもスケープゴート糾弾をできなくさせる為だ。

中学生、14才という年齢はまだ保護者の養育が必要な子供だ。未成年は子供だ。子供が何故そんな残酷な事件に走ったのか、その背景は非難じみたものしか糾弾したい者は見ない。糾弾が目的だから少年もまた被害者だという証拠を見たくはない。

人は生まれてきた環境に人生を殆どの割合で左右される。どのような人物に囲まれ扱われ、どのような環境で育ったかは100%とは言えなくとも程近い影響がある。

漫画「ガラスの仮面」で「二人の王女」という舞台の役作りで、「環境が人を作る」と言われて、それぞれ自分とは正反対の役を得たマヤとアユミは生活を交換して役作りをした、と以前にも別の概念記事で書いた。
王女は生まれながらに王女だったのではなく、王女として扱われて育った為に王女らしい気品と優雅さを自然と身に付けている。アルディスは愛されて大切にされちやほやされて育った。だからそれが全面に滲み出て愛に満ちていた。
逆にオリゲルドは母と牢獄で育ち、母は処刑され、不当に扱われて育った。だから他者への憎しみと復讐に囚われていた。

アルディスは育った後にオリゲルドと同じ牢獄に入れられたが、牢番にも愛され、希望と他者に対する信頼を失わなかった。そして助けに来た男性と国外に出て幸せになった。

オリゲルドは復讐と陰謀の末に女王まで登りつめ、憎しみを抱えたまま誰も信頼せず孤独の氷のような女王となった。

どう扱われて育ったか、だ。育った環境によりこうも違った正反対の生き方となるわかりやすい例だ。

人間が憎しみに満ち、復讐に駆り立てられ、他者へ殺意が生じるのは、それだけ不当な扱いを受けてきたということだ。

育てた、あるいは関わった周囲の大人が巧妙であればある程、未成年の加害者は悪者扱いされる。
巧妙な大人とは、子供をあらゆる手で酷く虐げ尽くしてきたのを隠す為に、自分を善人に見せ掛ける大人だ。
「私の責任です。私がもっとこの子をきちんと育てていれば。私の育て方が悪かったのです」と泣きながら謝罪する親は、同情を得るために、自分の潔白を示して「子供自身が悪い」と信じさせる為の巧妙過ぎる隠蔽工作の為に謝罪する。自分も被害者になるためだ。「自分に責任がある」と言いながら責任逃れをしているだけなのだ。

こうした周囲の大人達の猿芝居の隠蔽工作により、周囲の大人達がやってきた全ては大概隠される。その猿芝居に隠された事実は、愛のない酷い扱いだ。
その未成年の問題が大きければ大きい程、相当な酷い虐げが成されてきたことが裏付けされるのだが、その事実を一般人は判らない。知ろうともしないからより隠される。

心が歪んでいればいるほどそれは相当な酷い扱いがなされて抑圧されてきたからなのだ。愛と理解のない酷い虐げを受ければ受ける程、本当の心は抑圧され抑圧され、歪んでいく。これは身体的なレベルだけではなく精神的レベルでもだ。
心理学レベルでこれを知らないとなると大問題だ。心理テストなど心理学のうちに入らない。お遊びだ。
因みに、「ストレス、ストレス」と騒いでいるより原始的【人間レベル】はこの抑圧に関する心の仕組みを浅く歪めたものをさぞ大変なことのように言っている単なるまさしくお遊びレベルだ。

よく使ってきた例えだが水道から水が流れるホースを途中で踏みつけたらどうなるか―破裂する。水道からホースが無理に引き離され水が散乱する。障害物を押し退けてたまった水が散乱する。
心はこれと同じだ。自然な心の流れを大人達が外側から無理やり乱暴にも塞いだりしたら、その流れは塞き止められ心の中に蓄積されていく。これが抑圧だ。それによりいつか臨界点を越え、溜め込まれたものは破裂する。

過失は別として、どの犯罪者もこれが心の中で起きている。心のホースの流れを無理やり塞いできたのは、育った環境にいた大人達だ。
そのホースを無理やり塞いできた大人達も育つ過程で同じように塞がれてきた。だが、彼らは目に見えて爆発しなかっただけで、水面下で抑圧されてたまったひずみは巧妙に発散されている。その発散先が常に弱者、大概子供に向けられる。その連鎖が代々続いているのだ。
心理学レベルになると、それ故に「誰も責められない」と理解し受け入れる。皆、結局被害者でしかない。一個人の問題ではないとはっきりと理解するからだ。だからその連鎖的な流れを何とかして絶ち切るしかないのだと考え、その連鎖的な流れを絶ち切る方向性へ向かう。
こんな考え方は今や(西暦2015年)メジャーなのだが、そんなことも知らない【異世界レベル】の原始的領域に向けて提示している。

そして虐げられてきたが周囲の大人達が巧妙なので自分が何をされてきて、実際何が起きていたのかもわからない未成年の加害者達は常に悪者にされるだけだ。
加害者は常に被害者なのに、社会はそんなことも知らず、受け入れたくもないから知ろうともしない。

社会の目的はスケープゴート糾弾だからだ。だから獲物が現れれば、背景など知ろうともせず、理解しようともせず、喜んで糾弾に走るだけだ。

神戸市の連続児童殺傷事件の加害者の背景など、非難じみたものしか見ようともしないから皆責め立てることしかしない。

前述も踏まえて、加害者は心を踏みにじられてきた被害者であり、しかも14才という若さで爆発したということは、それだけで余程の心の抑圧がなされてきたと判る。しかも凶悪であればある程抑圧は深刻レベルだったということだ。しかも殆どの割合で社会の反応は加害者に対する非難しかない。

その材料だけで育つ環境にいた周囲の大人達がどれ程巧妙にその加害者の心を踏みにじり抑圧してきたが判る。何をされてきたかは判らないが、その抑圧は相当だった。それだけでもどんなに壮絶に苦しかったことか、推測できる。これほど抑圧されたら本当の自分の心など全くわからなくなっている。苦しいという自覚さえ生じない場合すらある。

それで加害者になって、事実関係は周囲の大人達により巧妙に隠され、非難が大部分の社会的な糾弾にさらされた。それまで誰も守ってくれなかったのに、誰も解ってくれず、また誰も本当の意味で助けてはくれない。抑圧されて歪んだ心はそのままに投獄され、出所してもまた誰も助けてはくれない。事実が発覚すれば糾弾され、その場にいられなくなり、それを繰り返す。踏みにじられて本当の心もわからなくなったまま、誰も救われる方法を教えてくれず、誰も理解してもくれずその加害者は転々とせざるを得ない。そんな中で手記を出すという方法をとるその加害者を誰が責められるのか。

周囲の大人達に踏みにじられて幼い歪められた心は、誰にも理解されず、誰も方法を与えてくれなかった。誰が責められるのか。

どうして誰も加害者の深刻に絡まった心の糸をほどく方法を教えてやれず、更正の道を整えてやれなかったのか、の方が余程深刻な問題に見えるが。何故幼い少年の心を誰も救う手助けができなかったのか。
要するに、更正プログラムに問題がありすぎるということが見過ごされ過ぎている。

社会は犯歴のある者を許さない。糾弾し排除する。この社会の殆どの方向性が、加害者を手記発行に走らせたのだと何故考えられないのか。
こんな理解のない排他的な社会が加害者を生んだとしか言いようがないのではないのか。
こんな他者を理解しようと努力もしない許容性に欠ける排除的な社会が、加害者の更正をまさに妨げていると言わざるを得ないのではないのか。

ニュースで小中学校で給食費を3ヶ月払わないと給食供給をストップするという未納対処をしたというのを聞いたが、余程義務教育は子供の気持ちを踏みにじっている。払わないのは親に問題があるのに犠牲になるのは子供だ。しかもいじめの原因になりかねないし、一人だけ給食を止められる子供の惨めな気持ちはトラウマになりかねない。子供の心などどうでもいいと考えている証拠でしかない。義務教育は余程いじめを助長しているし、子供の心を踏みにじっている。そういう踏みにじっている自分たちが未成年犯罪を増やしていることに気づきもしない。何故、犠牲になっているのは子供の心だけだと気づくことすらできないのか。その問題を解決するには子供がペナルティを負っても何にもならないだろうに。大体、生活保護を受けてないのに給食費を払わない親は必ず子供の心を踏みにじり倒しているのだから、子供の心のケアを最優先すべき所なのに、そんな簡単なことにも教師達は気づかない。

教師達はこうして大概大義名分をかざして子供たちの心を踏みにじっているのだ。

何故、子供の心を保護するためにそこでこそ税金を使わないのか。給食費を税金で賄えばこのような子供の心を踏みにじるだけの事態には少なくとも陥らない。使いどころを知らず無駄に税金を使いすぎなのだ。

西暦2015年6月23日:火曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150623-OYT1T50092.html
文部科学省は、いじめや不登校に悩む児童生徒の相談などに乗るスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーをすべての公立小中高校に配置する方向で検討を始めた
以上

そしてこのように各学校にスクールカウンセラーを配置するという無駄な行為に税金を使う。形だけが整っているように見えればいいという考えが見え見えだ。
無能なスクールカウンセラーを沢山配置しても、問題は悪化するのみだ。質の悪さは絶対的に避けられない。問題ある、逆にいじめを助長するスクールカウンセラーも必ず含まれることは簡単に予測できる。教師となんら変わらない。
精神科医の質を見れば判るように、心の仕組みを経験的に熟知したカウンセラーなど滅多にいない。形だけのマニュアル人間しかいないのは見え見えだ。子供の見えないサインに気付き心の問題を見抜き方法を教えて本質的に解決する方向へ向かうよう助けることができる者など滅多にいない。
スクールカウンセラーを配置する前に、スクールカウンセラーの質の向上にこそ税金を使うべきで、こんな政策は税金を溝に捨てているようなものだと気づきもしない。いや、気づいていても形だけ整えておけば子供の責任に押し付けられると思っているのかもしれない。教育の場は常に責任逃ればかりを考えている。
スクールカウンセラーの質の向上を行っても、また無駄に肩書きだけの無能な人物に教えさせるのは間違いない。

精神科医もスクールカウンセラーも、形だけ。心の仕組みに実質無知な者ばかりなのだから、子供の心など救う助けとなれる筈がない。専門家がそうなのだから心理学などやっても本当に形だけしか勉強していない教師などが、子供の心に無頓着なのは当たり前なのだ。
このように自分の体面だけが大切でその為なら子供を犠牲にしても全然平気な大人達に囲まれていて、どう子供の心は救われるのか?

教育の場は、このように本質的に問題を解決する気がない。問題が生じすぎているのが表に出すぎてしまい、とにかく形だけの対策だけを慌てて行っているだけだ。実際子供の心などどうでもいいのだ。

水道が壊れてジャージャー噴出する水を止めるために、板などで慌てて水を塞ぐ無意味な行為しかしない。壊れた水道をそのままに放置しながら溢れる水を押し留める行為しかしようともしないのだ。
当たり前だがそれでは何も解決できない。だが、それすら判らず、周囲の大人の大人達がやっていることはこの無意味な行為だけなのだ。壊れた水道などどうでもいいから直そうともしない。

このように、子供の心を保護すべき周囲の大人達は、子供の心などどうでもいいと考えている。形だけ悩むふりはするが、本心ではどうでもいいと考えているのだ。

社会には、自分の感情と思考の責任を自分で取れない精神的未成熟な大人ばかりいるからだ。感情と思考の責任を取り、自己処理する能力に欠けているのは甘えているからだ。だから、弱者を捌け口にする。こうして精神的未成熟な大人ばかりの社会は子供たちの心を踏みにじり、精神的未成熟な大人を次々に生んでいく。これで負の連鎖は止まる筈がないのだ。

社会自体が、子供の心を踏みにじっているねだ。守るふりをして、大義名分をかざして、実際にやっていることは子供の心を踏みにじっている。

そのために子供が「悪者」になったら、「悪者」のレッテルを貼り、「その子供が悪い」として突き放し糾弾しかしない。これが社会の実態なのだ。

その傾向はニュースに如実に表れている。

西暦2015年6月:第4週のNEWS
Simplog版
①http://simplog.jp/comment/21853407/23
②http://simplog.jp/comment/21853435/23
③http://simplog.jp/comment/21853479/23
④http://simplog.jp/comment/21853542/23
⑤http://simplog.jp/comment/21853614/23

体裁、形だけをよく整えて取り繕い、水面下、中身の本質的解決をはかろうとする意欲もない社会自体が負の連鎖で病みきっている。

社会は実際子供の心を守りたいのではない。何とかしてスケープゴート糾弾対象を作り上げたいだけなのだ。スケープゴートを作り出せるならば、実際子供の心などどうでもいいと考えている。

社会が求めるのは調和、平和、愛ではなく、スケープゴート糾弾できる大義名分なのだ。

では社会が悪いのか?
だからといって「社会が悪い」と不平不満を漏らして社会のせいにしても何も変わらない。
堂々巡りなのだ。
世界は「何が悪いのか」という責任を外側に押し付けようとしているだけだ。解決しようなどとは一切目指していない。

誰に責任があるのか?
何に責任があるのか?
誰が悪いのか?

スケープゴート糾弾が、それこそが世界の目的だからだ。
だから何も変わらないし何も解決されない。
「悪者は悪者」として糾弾され更正は許されず、その抑圧の連鎖の繰り返しが延々と続いていく。
世界は更正を望んでいないし、更正させるつもりもなく、故に更正プログラムは実質的ではない欠陥だからだ。

その不毛な連鎖が本当に絶ち切られるのは、罪は投影によりこの世界の中へ作られたので「罪は現実ではない」という【A・Course・in・Miracles】の見方からだ。
「知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想」故に「罪は存在しない、実際は何も起きていない」という「赦し」の見方だ。

世界がスケープゴート糾弾という目的を棄てるまで、抑圧の悪循環は永遠に続くので、「悪者」はいなくならない。
世界こそが「悪者」という格好のスケープゴート糾弾対象を必要としているからだ。

このように、知覚ある世界の全て、目の前にやってくる全ての中にエゴの目的を見出し、全てがエゴが作ったインチキだと見抜くことで、エゴの目的には縛られなくなる。

スケープゴート糾弾が必要だから大事に取っておくのか、それとも根っこから解決する為に一切のスケープゴート糾弾を棄てるのか―これは【A・Course・in・Miracles】の罪を現実とさせない「赦し」を実質的に採り入れるか否かのボーダーラインなのだ。

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(18)罪の投影の世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12001831249.html
(19)スケープゴートへの罪の投影
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12004677231.html

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(45)
【A Course in Miracles】実践:赦し
西暦2015年6月28日:日曜日



西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23

(1)エゴの隠す特質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11974654245.html
(2)エゴが隠し取り繕う過程
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11975807518.html
(3)2つの正反対の思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11976707775.html
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11978246696.html
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(6)原因と結果の法則
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11982652628.html
(7)繰り返しのサイクルの終わり
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11983485361.html
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11986007920.html
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11987258358.html
(10)やり直しのスパイラル
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11989740061.html
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11991064187.html
(12)エゴが作った幻想の再利用
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11993159401.html
(13)身体の脆さと死におけるエゴの目的
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11994375354.html
(14)身体は幻想・死はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11995592527.html
(15)【死の超越】の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11998096555.html
(16)『罪の起源』の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11998915374.html
(17)罪は幻想・罪はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12000205331.html
(18)罪の投影の世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12001831249.html
(19)スケープゴートへの罪の投影
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12004677231.html
(20)罪をでっち上げる世界
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12006320153.html
(21)エゴが罪悪感を作った理由
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12008401797.html
(22)罪悪感の投影の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12008405314.html
(23)自分自身に対する戦いの実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12011755756.html
(24)【異世界レベル】の穴概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12013322433.html
(25)エゴが作った全ての再利用
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12014997902.html
(26)真の公平な視点
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12015380689.html
(27)「夢の主人公」の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12017397555.html
(28)「攻撃の完全放棄」の実質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12018660133.html
(29)与えることと受け取ることは同等
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12020315340.html
(30)【A Course in Miracles】の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12022798022.html
(31)【A Course in Miracles】世界はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12024092595.html
(32)【A Course in Miracles】幻想の意味
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12025684819.html
(33)【A Course in Miracles】幻想の消滅
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12027300629.html
(34)【A Course in Miracles】エゴの思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12029267318.html
(35)【A Course in Miracles】エゴの台本
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12030482397.html
(36)【A Course in Miracles】エゴと聖霊
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12032096300.html
(37)【A Course in Miracles】聖霊
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12033251660.html
(38)【A Course in Miracles】死はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12035281573.html
(39)【A Course in Miracles】身体は幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12036091706.html
(40)【A Course in Miracles】真実に対する防衛
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12038012063.html
(41)【A Course in Miracles】無防備は力
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12038786997.html
(42)【A Course in Miracles】聖霊への全託
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12039954067.html
(43)【A Course in Miracles】聖霊の計画
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12041786198.html
(44)【A Course in Miracles】概念:赦し
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12043353309.html


概念記事関連リンク集
http://simplog.jp/comment/19367886/23

西暦2015年1月
http://simplog.jp/comment/19628362/23
西暦2015年2月
http://simplog.jp/comment/19628500/23
西暦2015年3月
http://simplog.jp/comment/20021719/23
西暦2015年4月
http://simplog.jp/comment/20577503/23
西暦2015年5月
http://simplog.jp/comment/21087350/23
西暦2015年6月
http://simplog.jp/comment/21568265/23



この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う



西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2015年現在)


佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(45)
【A Course in Miracles】実践:赦し
西暦2015年6月28日:日曜日

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