概念:佐藤篤代/西暦2015年後半(9)
西暦2015年8月7日:金曜日

(9)【『A・Course・in・Miracles』peace】

①【A・Course・in・Miracles】テキスト第19章 :IV.「The obstacles to peace」冒頭
②平和憲法の日本国憲法第9条とその絶対不可侵を変えようとする安倍晋三首相に纏わる日本の問題を【人間レベル】の平和の概念の観点で見る
③争いを完全に無くそう、平和を作り出そうとしたいならば、【人間レベル】の最も進んだ思考システムでは自分と他者の違いを受け入れ、理解しようとしなくてはならない。自分も他者も否定してはならない。否定から争いが生じるからだ。無理解から争いが生じるからだ。本当の理解があれば争いも否定も生じない


【①【A・Course・in・Miracles】テキスト第19章 :IV.「The obstacles to peace」冒頭】

今回は、【A・Course・in・Miracles】のpeaceに関する概念的方向性の引用を【A・Course・in・Miracles】原書を用いて提示していく。

テキスト『19章:IV.The obstacles to peace』も相当取り組んだので全文引用する。今回は冒頭部分。数回に分けて書く。今回の冒頭は一応書くだけで、内容的に必要なのは次回からだ。テキスト『19章:IV.The obstacles to peace』は相当取り組んだから、過去の本物:佐藤篤代が知るために一応全文書いておきたいだけだ。

同時に今回は、②から後は、エゴが過去に平和の歴史を作らざるを得ないようにする為に、【人間レベル】の観点から平和についての概念を書く。

故に、今回は【人間レベル】の領域がやりやすくて仕方ないだろうが、【A・Course・in・Miracles】の主旨は『知覚ある世界はエゴが作った幻想』とみて全ての価値と特別性を棄てなくてはならないのだと書いておく。この【A・Course・in・Miracles】の概念:平和の達成においてすら、全ての特別な関係は絶対にないと次回からは解る。

本物:佐藤篤代のこのルート(コース)で、過去に平和を所有する(受けとる)為に、平和を知らせる(与える)。

関連概念記事リンク
後半(7)【A Course is Miracles】平和を知らせる意味
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12056486013.html

西暦2015年段階では本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】自体を歪みだと見ている。神概念も癒しも歪みだ。聖なるキラキラもエゴのアメだと疑ってかかる必要がある。
故に『神の使者』も同様だし、日本語訳で更に歪んでいる。
それを踏まえた上で引用するのは、知る過程では欠かせないからだ。

また、原書にある「brother」は「あらゆる他者」、「the Father」は「神」を指すが、これは特別性を温存するための理由で書かれている場合がほとんどだ。
歪みだが【A・Course・in・Miracles】の「the Kingdom」や「Heaven」は「the Kingdom=Heaven=神=神の創造物=神と1つの状態」だ。
「I」等の一人称はJesus(イエス・キリスト)。
「learn」は「知る」、「teach」は「知らせる」と取らなくては歪みにハマり込む期間がそれだけ長くなる。
故に「teacher」は「知らせる者」、
「learner」は「知るべき者」。
しかも「知らせる(段階の)者」、
「知るべき(段階の)者」。


▽以下引用

IV. The obstacles to peace

1. As peace extends from deep inside yourself to embrace all the Sonship and give it rest, it will encounter many obstacles.
Some of them you will try to impose.
Others will seem to arise from elsewhere; from your brothers, and from various aspects of the world outside.
Yet peace will gently cover them, extending past completely unencumbered.
The extension of the Holy Spirit's purpose from your relationship to others, to bring them gently in, is the way in which He will bring means and goal in line.
The peace He lay, deep within you and your brother, will quietly extend to every aspect of your life, surrounding you and your brother with glowing happiness and the calm awareness of complete protection.
And you will carry its message of love and safety and freedom to everyone who draws nigh unto your temple, where waits for him.
You will not wait to give him this, for you will call to him and he will answer you, recognizing in your call the Call for God.
And you will draw him in and give him rest, as it was given you.

2. All this will you do.
Yet the peace that already lies deeply within must first expand, and flow across the obstacles you placed before it.
This will you do, for nothing undertaken with the Holy Spirit remains unfinished.
You can indeed be sure of nothing you see outside you, but of this you can be sure: The Holy Spirit asks that you offer Him a resting place where you will rest in Him.
He answered you, and entered your relationship.
Would you not now return His graciousness, and enter into a relationship with Him?
For it is He Who offered your relationship the gift of holiness, without which it would have been forever impossible to appreciate your brother.

3. The gratitude you own to Him He asks but that you receive for Him.
And when you look will gentle graciousness upon your brother, you are beholding Him.
For you are looking where He is, and not apart from Him.
You cannot see the Holy Spirit, but you can see your brothers truly.
And the light in them will show you all that you need to see.
When the peace in you has been extended to encompass everyone, the Holy Spirit's function here will be accomplished.
What need is there for seeing, then?
When God has taken the last step Himself, the Holy Spirit will gather all the thanks and gratitude that you have offered Him, and lay them gently before His Creator in the Name of His most holy Son.
And the Father will accept them in His Name.
What need is there of seeing, in the presence of His gratitude?
(P406~407)

△以上引用

【A・Course・in・Miracles】
second edition
TEXT:Chapter19;IV,
The obstacles to peace冒頭



【②平和憲法の日本国憲法第9条とその絶対不可侵を変えようとする安倍晋三首相に纏わる日本の問題を【人間レベル】の平和の概念の観点で見る】

西暦2015年8月4日:火曜日
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150804-OYT1T50018.html?from=ycont_top_txt
自民党の武藤貴也衆院議員が自らのツイッターで、安全保障関連法案に反対する学生団体について、「『戦争に行きたくない』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」と非難していたことが分かった。「利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろう」とも書き込んだ。
民主党の枝野幹事長は3日、「見識を疑わざるを得ない」と批判した。
以上

政府与党、自民党がいかに狂っている思考システムかが如実に表れたニュース記事だ。この自民党議員は軍国主義かと思った。極端な利己的とはこの議員の考えを言う。狂信的な軍国主義的な集団的利己的な考え方だ。第2次世界大戦中の日本軍的考え方だ。何かに洗脳されてるのではないのかとすら思える。
民主党枝野幹事長や自民党谷垣幹事長にも呆れ果てられて当然だ。

しかも、このうかつな自民党議員、やはりうっかりしすぎなくらいに本音を漏らしてしまっている。
自民党、特に安倍晋三首相は「徴兵制はない」とか言い訳をしまくっているが、「『戦争に行きたくない』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」という言葉は、徴兵制前提の言葉だ。
大学生が戦争に行きたくないのは当たり前であり、人間だれでもそうであり、自衛隊員の殆どがそうであるはずだ。現に自衛隊では戦争に行く可能性が高まり命の危険が高まって大問題となっていると報道されている。逆に戦争に行きたい、戦争に進んで行こうとする者は明らかに心が病んでいる。
故にそんな言葉を当然のように言うこの自民党議員はかなり心が病んでいる。言葉が平和憲法を否定しているし、戦争を肯定してしまっている。憲法9条を根底から否定している危険思想だということは明らかだ。
憲法9条、平和憲法を守りたいという大学生や国民の運動はごく自然ので至極人間として正常なものだ。というより、憲法9条、平和憲法を守ろうとする運動が起こらないなら、国自体があからさまにおかしくなっているということだ。報道規制、言論の厳しい取り締まりのある戦時中の日本や北朝鮮のような自由の一切ない国となってしまう。
健全な場合の法に限られるが、法を犯していない反対デモが不当に取り締まられないということは自由がその国に残っているという意味であり、不条理だけで縛られているのではなく正常さが残っているという点においては喜ぶべき所だ。

その上、その自民党議員は普通の大学生達が戦争に行く可能性について「その危惧の通りに国のために戦争へ行け」と言ってしまってるようなものだ。これは明らかに思考が軍国主義的過ぎて怖い。完全な時代錯誤だ。その議員だけの考えだけではなく自民党全体の考えとも窺える言葉だ。

安倍晋三首相は必死に「憲法で定められているから憲法違反になるので徴兵制はない」と言っているが、その憲法違反になる憲法解釈の変更をごり押しして、集団的自衛権の限定容認をしているような強引すぎる方向性を取っている安倍晋三が言っても説得力がない。

西暦2015年8月4日:火曜日
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150804-OYT1T50016.html?from=ycont_top_txt
礒崎陽輔首相補佐官は3日の参院平和安全法制特別委員会で、安全保障関連法案を巡る「法的安定性は関係ない」との発言を撤回した。
事態の早期沈静化を図りたい政府・自民党は「平身低頭」に徹することを求め、礒崎氏は陳謝を繰り返した。だが、野党は引き続き安倍首相の任命責任を追及する方針で、与党内にも不満がくすぶっている。
礒崎氏は、「軽率な発言により、法案審議に多大な迷惑をかけ、心からおわびする」と述べた。約30分の質疑で、「おわび」という言葉を7回繰り返し、何度も頭を下げた。与野党問わず批判が出ていた礒崎氏に対し、政府側が想定問答を作り、事前に練習するよう求めていたという。
質疑では、野党を代表して質問した民主党の福山哲郎氏が辞任を迫ったが、礒崎氏は「首相補佐官の職務に専念することで責任を果たしたい」と辞任を否定した。鴻池祥肇委員長(自民)は、「安保関連法案を9月中旬までに成立させたい」との礒崎氏の発言について自ら質問し、「参院は衆院の下部組織や官邸の下請けではない」と苦言を呈した。
以上

この安倍晋三の側近礒崎氏の「法的安定性は関係ない」という発言が如実に物語っている。実質、憲法違反になろうがどうにでもごまかせると言っている自民党がいくら「徴兵制はない」と言おうが説得力がなさすぎる。

読売新聞は【人間レベル】で言えば「徴兵制の可能性を持ち出すのは時代錯誤」だと書いていたが、政府から報道規制や圧力や賄賂でも受け取ってるのではないかと思うくらいに論点が盲目的だ。
無論、実際はエゴの作り物だから、やりたい放題だからだ。どの個体であれ組織であれ言動に首尾一貫など期待できない。

論点は、安倍晋三の側近礒崎氏の「法的安定性は関係ない」という発言に表れすぎている。安倍晋三首相のあまりにも酷い強引さだ。小泉政権のような郵政民営化のごり押し強引さとは別レベルの問題だ。国民の声を無視してごり押し強引さを押し通してはならないレベルの問題だ。日本の要、憲法9条をないがしろにし、いくらでも勝手に変えてしまう意志があると安倍晋三政権は断言している。問題はそこにある。もはや民主主義とは言えないレベルに達してしまう。それが大問題なのだ。時代錯誤はどっちだ?安倍晋三を含めた政府与党だろう。軍国主義的考え方としか言いようがなく、しかもその本音がだだ漏れ状態だ。だからヒトラーのナチドイツに例えられる報道が出てくるのだ。

無知はどちらなのか?
政府は国民を無知だと見下している。

しかし、平和憲法、第9条の侵してはならない一線を越えたら、もう歯止めがきかなくなり、日本はどんどん危険な立場に追いやられていくということがわかっていないのはどちらなのか?どんどん理由づけして軍備は拡大していく。武力(戦力)の放棄はもはや否定される。切迫した状態で国を守るためとの大義名分により、どんどん武力は拡大し、歯止めはきかなくなり、戦争へより近づいていく。
どちらが無知なのか?
憲法9条の本当の意味がわかっていないのは日本の首相安倍晋三なのではないのか?あるいはそれがわかっていて戦争がしたいから憲法9条を崩そうとしていると認められるのか?
一旦せきを切ったものはもう止められない。堤防が一ヶ所でも崩されたらもう濁流は止められない。

安倍晋三は「徴兵制はない」と断言しているが、安保法案が可決し、歯止めがなくなったら、いずれ「国の為に、国民の安全の為に戦わなくてはならない」という大義名分を掲げて徴兵制を正当化するのは目に見えている。自衛隊は次第に入隊者がいなくなっていく。退職者も多々出ているという話だから、自衛隊の数は減っていく。自衛隊の人員不足が問題になり、深刻化した時、安倍晋三首相は同じく「徴兵制はない」と言っていられるのか?

その辺のこともよくわかっていながら、安倍晋三首相は今現在西暦2015年には「徴兵制はない」と断言しているのだ。安倍晋三首相の狙いはなし崩し。
いざとなったら「国の為に、国民の安全の為に戦わなくてはならない」と大義名分をかざして理由づけをする。政治家が本音を言うはずはないのだ。
ただ、政治家は無意識に本音を漏らし、だから政府の本音が礒崎氏やその他からだだ漏れ状態になっている。
どんなに隠しても、見るものが見れば、本音などだだ漏れ状態。口では正反対を言っても本音が見えるように着飾ってしまっている。

このように、安倍晋三政権が日本を戦争へどんどん近づける方向性は止まらない。故に、目に見えた矛盾点はツッコミをして提示し、正論を持ち出し、平和についての見てきた概念を提示し続ける。
安倍晋三首相がやっていることが正当化できないようにさせる。正常な方向性なら何も言わないが、見過ごせない位に正常ではない方向性だからだ。

日本は第2次世界大戦、太平洋戦争の戦犯の責任を取り、平和憲法、第9条を貫く義務がある。日本が世界を未曾有の危機に陥らせた責任は軽くないということを安倍晋三首相は見ないフリをしている。日本は武力を行使する方向性、戦争に参加する方向性を平和憲法をもって否定しなくてはならない。それは日本に課せられた絶対の責任なのだ。
だから日本は戦争に武力で関わる方向へ一切向かってはいけないし、平和憲法を徹底的に維持していくべきなのだ。

武藤貴也衆院議員が言いたいのだろう「覚悟」。それは戦うための覚悟であってはならないのだ。覚悟がないのはどちらなのか。平和を貫くには戦うよりもっと覚悟が必要だ、と武藤貴也衆院議員も安倍晋三首相も、政治家はわかっていない。

平和主義は弱さではない。貫くには想像を絶する覚悟が必要だ。【人間レベル】で言って。
戦う覚悟は安直な覚悟だ。
テロにしろ何にしろ、戦うことで本質的に終わるものなど何もない。本質的に終わらないからまた再発する。
何も終わらせようとしない者だけが安易に戦うのだ。

概念で言えば、戦いや攻撃は原始的レベル。平和は進んだ思考システムだ。

安倍晋三首相が大義名分で言い訳と理由づけするなら、こちらも過去に見てきた大義名分を提示してやる。日本は戦争に関わるべきではないと主張断言する大義名分。

大体、【人間レベル】で言えば、安倍晋三首相はアメリカの圧力に押されているだけだろうに。アメリカ自体が中心となって終戦で完全不戦、武力行使の放棄の平和主義の日本国憲法を作らせたくせに、その作らせた責任がないがしろにされ過ぎなのだ。勝手にも程がある。大学生運動が利己主義なら、アメリカは比べ物にならない位にはるかに利己主義の極みだ。
どいつもこいつも、責任というものを彼方へと投げ捨てているということだ。無責任の極み。
アメリカは作らせた責任を取り、日本の平和憲法を貫かせる責任を果たすべきなのだ。
都合によって作らせたり止めさせたりコロコロ変わるなど、どれ程の利己主義で、どれ程の無責任さなのか。

誰が、何が利己主義なのか。

日本は国際平和の為に、武力では一切なく、別の、攻撃性と武力ではない他の形で国際貢献すべきなのだ。これまでその姿勢を貫いてきたように。

エゴはまだ日本を戦禍に陥らせようとする動きを断念しないようだ。

故に、本物:佐藤篤代はそのエゴの動きに終止符が打たれたと実感するまでは、平和の過去を受け取る為に平和を与える。だから提示し続ける。実際は安倍晋三首相の暴走がなければ、平和なんか提示しもしなかったのだ。

【A・Course・in・Miracles】の平和についての概念も安倍晋三首相暴走がなければ書かなかった。


上記を日記に書いた数日後、情報番組をテレビで見ていると、デモの話題をやっていた。老齢者はデモという言葉に西暦1960年、1970年代の安保闘争のイメージが強いらしく、現在の自由で平和的なデモのやり方を知らなかったらしい。

武藤議員が批判したデモには、大学生だけではなく、教え子連れ教師や、主婦、普通の女の子、一般のサラリーマンもいて、様々な年齢層で、様々な種類の人々だった。みな個人個人の思いを抱えてデモに参加し、サラリーマン等は仕事が終わってからでも参加している。

偏った見方から、デモに対する批判が出たとしか言いようがない。言論の自由下、「戦争反対」と平和を主張する人々がいるのは、当然であり、自由だ。
それを政治家が表現するのはおかしすぎる。国民の権利と言論の自由と平和主義者を否定しているだけの、政治家としてはやってはならないことだ。一部の政治家も、「平和主義者を否定する行為で政治家としてあってはならない」等と言っていたように。

日本の現在西暦2015年のデモ運動などに安保闘争のような暴力性は一切ない。デモを否定するなど、時代錯誤しているのではないか?

【安保闘争】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89
安保闘争(あんぽとうそう)とは、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり、日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争、傷害、放火、器物損壊などを伴う大規模暴動である。自由民主党など政権側からは、「安保騒動」とも呼ばれる。
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた。しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った
以上

西暦2015年現在、日本では安保闘争のような運動は終わっている。

これを書いた直後ニュースを見たら、武藤議員の発言が相当問題視されており、以前からも政治家としてあり得ない発言をしており、国民の基本的人権を含めた憲法否定までしていたと報道されていた。やはり考え方自体が甚だしくおかしかった危険思考だったのだ。これでは戦時中の日本だ。
この発言問題を、ニュースでは「若手議員の教育不足」と追及し、安倍晋三首相の側近礒崎氏の発言も含めて、問題視していた。

他のインターネットニュースではおかしなニュースばかり出ていたからどうツッコミすれば効果が出るかと頭を捻っていた時なので、まともなニュースになってホッとした。

インターネットニュースの異常な一例では、粉飾決済をして逮捕された堀内貴文が「デモに参加した者は(会社)採用しない」等と意味不明なことを言っており、さすがは利己的故の粉飾決済の過去があると思った。

武藤議員や堀内貴文のような人物が一般的に支持されるなら、この国は終わる。

この武藤議員や堀内貴文の二人も礒崎氏も、エゴが前に作ってきた【異世界レベル】の主人公(偽者)の領域の原始的思考の表れだったのだろう。
これでは戦争を率先して行いたい危険思考だ。

その後で、インターネットニュースでやっとまともなニュースが出てきた。

西暦2015年8月5日:水曜日
http://s.rbbtoday.com/article/2015/08/05/134063.html
日本国憲法が掲げる3大原則(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)を否定するなどの暴言で物議をかもしている自民党の武藤貴也衆院議員に対し、批判の声が多数あがっている。
さらにその後、過去のブログで憲法の3大原則について「この三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だ」などと記していたことがわかり、批判の声が殺到している。
大阪維新の会代表で大阪市長の橋下徹氏は3日、Twitterで「そんなに威勢の良いことを言うなら、お前がまず行け」と武藤議員を痛烈批判。元衆議院議員の東国原英夫氏も5日にTwitterで、「どう考えても頭おかしいとしか思えない」とバッサリ。民主党の蓮舫代表代行は5日にTwitterで「憲法尊重擁護義務さえ理解していない国会議員が何を言うのか」とツイートしている
以上

愕然とする。この領域の政治家の表向きの見解としてこんな意見を公表するなどありえない。【異世界】の原始的思考システムがこの領域に表れたとしか言いようがない。



【③争いを完全に無くそう、平和を作り出そうとしたいならば、【人間レベル】の最も進んだ思考システムでは自分と他者の違いを受け入れ、理解しようとしなくてはならない。自分も他者も否定してはならない。否定から争いが生じるからだ。無理解から争いが生じるからだ。本当の理解があれば争いも否定も生じない】

本当に、以前にも書いたが、抑止力という意味では、憲法通りに軍隊を持たない武力(の行使)完全放棄の戦争をしない平和国家を貫いた方がずっと抑止力になるのだ。
軍隊、武力を持った方が余程戦争に巻き込まれる可能性が高まる。武力行使をしたら更にぐっと高まる。中国に対する牽制ではなく、中国に対する挑発となるだけであり、攻撃する正当性を持たせる。武力を持っているだけで、攻撃される可能性がぐっと高まる。無言の抑止力のハードルが下がる。
無抵抗の平和国家への一方的な攻撃を、現在西暦2015年の世界で許されるはずがないのだ。平和国家を貫く国を助けないわけにはいかない。見捨てたら非難され孤立しかねない。だから見捨てるだけでそうなのだから、一方的な攻撃など黙認されず、孤立し、自滅に追いやられる。
そんな国が自滅しかねないリスクを追ってまで攻撃をする価値や意味があるのか、正常な思考なら少し考えれば誰にでも解ることだ。

結果、国のトップの思考が正常だろうがそうでなかろうが、無抵抗の平和国家を攻撃すれば自滅に追いやられるのには変わらない。そして抑止力としては、普通の思考ならリスクがありすぎてやらないので、無抵抗で完全武力放棄の平和国家のままの方が効果的なのだ。
一歩を踏み出すリスクは高すぎてなかなか踏み出せない。

それは少し考えれば判るはずなのに、そして日本人だからこそ判るだろうに、安倍晋三首相はこの均衡を崩し、日本を戦争に巻き込ませようとしているのだ。
それは識者達が言うように、第二次世界大戦のナチス、ヒトラーのやり口に似ている。ドイツにはワイマール憲法という当時は最も民主主義の憲法と言われた憲法があった。しかし、それを覆してドイツは戦争を巻き起こして行った。

【ワイマール憲法】(※教科書では「ワイマール憲法」と教わってきた)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%AB%E6%86%B2%E6%B3%95
ヴァイマル憲法は、第一次世界大戦敗北を契機として勃発したドイツ革命によって、帝政ドイツが崩壊した後に制定されたドイツ国の共和制憲法である。憲法典に記されている公式名はドイツ国憲法。1919年8月11日制定、8月14日公布・施行。
英語読みからワイマール憲法と表記される場合も多い。
ナチ党の権力掌握によって「憲法変更的立法」である全権委任法が成立すると、ヴァイマル憲法は事実上停止状態となった。その後、ドイツの敗戦を経て全権委任法と関連法令が無効化され、1949年のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)とドイツ民主共和国憲法の制定によって東西ドイツの新たな憲法体制がスタートした。
ヴァイマル憲法の最大の特徴は人権保障規定の斬新さにある。自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から、社会権保障を考慮する現代憲法への転換がこのヴァイマル憲法によってなされ、その後に制定された諸外国の憲法の模範となった。当時は世界で最も民主的な憲法とされ、第1条では国民主権を規定している。
ヒトラー内閣成立後間もない2月22日、国会議事堂放火事件が発生した。 ヒトラーはヒンデンブルクに迫って民族と国家防衛のための大統領令(ドイツ語版)とドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(ドイツ語版)の二つの大統領令(ドイツ国会火災規則(ドイツ語版))を発出させた。これにより、ヴァイマル憲法が規定していた基本的人権に関する条項、 114、 115、117、118、123、124、153の各条は停止された。ヒトラーとナチ党はこの大統領令を利用し、反対派政党議員の逮捕、そして他党への強迫材料とした。また地方政府をクーデターで倒し、各州政府はナチ党の手に落ちていった。この時点で他の政党には、ナチ党の暴力支配に抵抗できる術はなくなった。
この状況下で制定されたのが『全権委任法』である。ヒトラーは憲法改正立法である全権委任法の制定理由を「新たな憲法体制」(Verfassung)を作るためと説明した。この法律自体ではヴァイマル憲法自体の存廃、あるいは条文の追加・削除自体は定義されなかったものの、政府に憲法に違背する権限を与える内容であった。当時の法学者カール・シュミットはこの立法によって憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと解釈している。こうして事実上ヴァイマル憲法による憲法体制は崩壊した。
以上

ヒトラーとまではいかなくとも、安倍晋三首相がやっているのは同じようなことだ。

日本国憲法はそう簡単には変えられないので、これまでに憲法改正は行われていない。

【日本国憲法第96条】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC96%E6%9D%A1
日本国憲法 第96条は、日本国憲法第9章「改正」にある唯一の条文で、日本国における憲法の改正手続について規定している。
[条文]
第九十六条:この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
以上

このように条件が厳しいので、日本国憲法はこれまでに変えられなかった。国民の過半数の賛成を得るのは難しい。だから安倍晋三首相は、憲法改正に踏み切りたくはない。故に、憲法解釈の変更などという強引な方向へ持っていった。この領域の普通では、特に憲法9条を憲法改正することこそが難しいからだ。

だからこそ、安倍晋三首相の強引な憲法解釈の変更は大問題なのだ。憲法9条があり憲法違反になるのにこの解釈が変えられては、もはや何でもありだからだ。この解釈が変えられては、他の内容の解釈もいくらでも変えられてしまう。だから絶対不可侵だったのだ。

安倍晋三首相は、安保法案を通したいなら、まず憲法改正をしなくてはならないということだ。憲法改正をせずに憲法解釈を変えたり安保法案を通そうとするから大問題となる。本来ならば戦後日本の未曾有の大問題だ。
無論、普通なら憲法改正自体が甚だしく反対されるが。

安倍晋三首相の一番の問題は、その何でもありの強引さだ。

【日本国憲法第9条】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC9%E6%9D%A1
日本国憲法第9条は、日本国憲法の条文の一つで、憲法前文とともに三大原則の1つである平和主義を規定しており、この条文だけで憲法の第2章(章名「戦争の放棄」)を構成する。この条文は、憲法第9条第1項の内容である「戦争の放棄」、憲法第9条第2項前段の内容である「戦力の不保持」、憲法第9条第2項後段の内容である「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている[1]。日本国憲法を「平和憲法」と呼ぶのは憲法前文の記述およびこの第9条の存在に由来している。
この条文の政府見解によれば、自衛隊は憲法第9条第2項にいう「戦力」にはあたらない組織とされている。
[憲法9条:条文]
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
以上

【日本国憲法第2章】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC2%E7%AB%A0
日本国憲法第2章は、日本国憲法の章の1つであり、三大原則の1つである平和主義「戦争の放棄」を規定している章である。第2章に含まれる条文は第9条のみであり、同条と第2章は同じ内容を指すこととなるが、一般的には「(憲法)第9条」として著名である。

【日本国憲法三大原則】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を採り、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。
以上

武力(戦力)は一部でも容認すればどんどん膨れ上がっていく。それを実体験し思い知ったのは、第2次世界大戦時の日本である筈なのだ。
核兵器による原爆の投下。長崎と広島が嫌というくらいに武力の恐ろしさと不毛さを味わった筈なのだ。
だからこそ、日本は武力(戦力)に歯止めをかけ続けなければならない。日本を初の被爆国で最後の被爆国にさせる義務がある。

核兵器と核兵器による戦いは世界を滅ぼす。だから、長崎、広島の原爆のあまりの被害の酷さの後、核兵器撤廃条約が世界中で結ばれてきたし、核兵器を持つ国は世界から撤廃を促され、警戒される。それで表向きは核兵器保有国は西暦2015年現在世界で数ヵ国となっている。

日本の数ヵ所に原爆を投下されたら日本は一瞬にして滅ぶ。少なくとも1都市を壊滅させられるのだ。一斉に原爆攻撃を受けたらもう終わりだ。そして、日本のような無抵抗の戦争を放棄している平和国家を攻撃するような国や組織なら核兵器だって平気に使う位に正気ではない。微力な抵抗によって核兵器に対抗するのか、という話になる。
やはり日本の平和国家体制はその状態で余程抑止力があるし、下手に軍備を拡大させて見えない敵を刺激しない方がずっと戦争に巻き込まれないだろう。

平和国家という抑止力が通じないなら、原爆攻撃されると考えるべきだ。そうなったらもう何も意味がない。原爆攻撃するような常軌を逸した相手に日本も核兵器を持ち対抗するのか?…では世界が滅ぶ。

世界全体が武力を制限する方向へ向かわなければ、その強大化され膨れ上がった武力が世界を滅ぼす。その事実を日本の原爆の被害で世界が思い知った。武力では何も意味がない。根本的には何も変わらない。

【広島原爆投下】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B
第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が原子爆弾を日本の広島市に対して投下した。これは実戦で使われた世界最初の核兵器である。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したとされる。
以上

【長崎原爆投下】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が原子爆弾を日本の長崎県長崎市に対して投下した。これは、実戦で使われた人類史上二発目の核兵器である。この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。
以上

Wikipediaの被害者の写真を見るといい。こんな壮絶な被害状況を写真とはいえ見たら、世界中で武力の撤廃をすべきだと感じる。武力でではなくもっと他の方法で世界平和を目指すべきだと考える筈だ。
少なくとも【人間レベル】の時点では本物:佐藤篤代はそう考えていた。

武力で平和が作れるなどは無知の言うことだ。武力で一時期表向きは戦争にはならない平和を得るかもしれないが、何の根本的解決にもなっていないから、またいずれ争いが生じ、戦争が起きる。

武力は弱さの象徴だ。心の弱さだ。
武力に武力で対抗しようとするのはあまりに原始的過ぎる。日本は唯一の被爆国で、武力の増強の末の不毛さ、そして武力による解決は禍根しか残さないと知った筈なのだ。同じことを繰り返さない為に戦争を放棄してきた筈なのだ。

武力では何も根本的解決にはならない。問題の根本的原因を解決しないから、必ずまた同じことが繰り返される。同じことを繰り返さない為には決意してどこかで戦力を棄てなければならないのだ。解決できない戦力と武力という手段を棄てなくてはならないのだ。

傷つけ合うことで何が解決できるのか?心に禍根が残り連鎖していくだけだ。

戦いの連鎖は永久に終わらない。
武力を棄てなければ世界で戦争は絶対に終わらない。
絶ち切らなくてはならないのは争いの種の連鎖であり敵の命ではない。

国の指導者は我欲や国の利益に囚われすぎて、この争いの根本的原因を見ようともしない。

西暦2015年8月6日:木曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150806-OYT1T50015.html
被爆地・広島は6日、70回目の原爆忌を迎えた。午前8時から広島市中区の平和記念公園で開かれた平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)には、被爆者や遺族、安倍首相ら約5万5000人が参列、犠牲者を悼んだ。被爆から70年を経ても見えない「核兵器なき世界」への道筋。松井一実市長は平和宣言で、核兵器廃絶には「対話」と「信頼」に基づく安全保障の仕組みを創り出すことが必要と強調した
以上

争いは人の心が生じさせる。人の心の中に争いの種がある限り、必ず戦争は再発する。解決すべきは人々の心の内側だ。

この件については入らなくなるので次回にまわし、平和に関する概念記事はあと数回続ける。

少なくともこの【人間レベル】の平和の思考システムを超えていかないと【A・Course・in・Miracles】など実質的な取り組みは不可能過ぎる。

佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2015年後半(9)
【A Course in Miracles】peace
西暦2015年8月7日:金曜日



西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
前半
(1)エゴの隠す特質
(2)エゴが隠し取り繕う過程
(3)2つの正反対の思考システム
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
(5)スケープゴートの世界構造
(6)原因と結果の法則
(7)繰り返しのサイクルの終わり
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
(10)やり直しのスパイラル
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
(12)エゴが作った幻想の再利用
(13)身体の脆さと死におけるエゴの目的
(14)身体は幻想・死はない
(15)【死の超越】の実態
(16)『罪の起源』の実態
(17)罪は幻想・罪はない
(18)罪の投影の世界構造
(19)スケープゴートへの罪の投影
(20)罪をでっち上げる世界
(21)エゴが罪悪感を作った理由
(22)罪悪感の投影の実態
(23)自分自身に対する戦いの実態
(24)【異世界レベル】の穴概念
(25)エゴが作った全ての再利用
(26)真の公平な視点
(27)「夢の主人公」の実態
(28)「攻撃の完全放棄」の実質
(29)与えることと受け取ることは同等
(30)【A Course in Miracles】の実態
(31)【A Course in Miracles】世界はない
(32)【A Course in Miracles】幻想の意味
(33)【A Course in Miracles】幻想の消滅
(34)【A Course in Miracles】エゴの思考システム
(35)【A Course in Miracles】エゴの台本
(36)【A Course in Miracles】エゴと聖霊
(37)【A Course in Miracles】聖霊
(38)【A Course in Miracles】死はない
(39)【A Course in Miracles】身体は幻想
(40)【A Course in Miracles】真実に対する防衛
(41)【A Course in Miracles】無防備は力
(42)【A Course in Miracles】聖霊への全託
(43)【A Course in Miracles】聖霊の計画
(44)【A Course in Miracles】概念:赦し
(45)【A Course in Miracles】実践:赦し

西暦2015年後半
(1)【A Course in Miracles】赦しの実際
(2)【A Course in Miracles】神概念
(3)【A Course in Miracles】真の世界
(4)【A Course in Miracles】原因と結果
(5)【A Course in Miracles】与える&受け取る
(6)【A Course in Miracles】与える全てを受け取る
(7)【A Course in Miracles】平和を知らせる意味
(8)【A Course in Miracles】6章:聖霊のレッスン

この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う



西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーションは迷惑だからやめて下さい。
全て別人へのコメントにしかなっていません。
なされる全てが【異世界レベル】の【主人公(偽者)用コメント】でインチキだと判明していますので、「現実の他者」に対する対応は一切しません。
容赦なくツッコミします。そのコメント等の目的、大元を崩す為に容赦ないツッコミをします。

真実はあらゆる他者、他の存在とは分かち合えない。それが実感されている為に一切他者向けには書いていません。

このブログは、本物:佐藤篤代が見てきた過去の全てを受けとる為、そして『1つの自己※』へ向けて知らせる手段として、エゴが作った全ての主人公(偽者)と領域を終わらせる為に書いています。
これも【A・Course・in・Miracles】レベルを超えなければ理解できません。

このブログの中身は隠され、物質主義者レベルのスケープゴート糾弾用まで歪められています。故に中身が見える筈もないのです。だから別人へのコメント等になっているのです。

また、このブログは型としては日本人の日本語によるブログです。
コメント自体、この但し書きを見てやめるのは正常な人間の判断です。ですがそう書いてもコメントが止まない為書いておきますが、ことわりなしの英語も含め、違う言語でのコメント等は非礼に当たると言っておきます。

それ以前にブログのあちこちに置かれたこの【但し書き】が見えないのは【異世界レベル】である証拠となります。

見えていてなおコメント等をするならば、他者を尊重できない他人などどうでもいいと考える「自分、自分」の原始性が際立つ精神的未熟な【他者否定・自己肯定型】だと釘をさしておきます。

このブログにコメント等をする者全てがこのレッテルを掲げて行っているということになりますので、ご注意下さい。




佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2015年後半(9)
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