概念:佐藤篤代/西暦2015年後半(24)
西暦2015年10月1日:木曜日

(24)【『A・Course・in・Miracles』】
What am I?

①【A・Course・in・Miracles】ワークブック『14. What am I?』引用―歪みだが「エゴが作ったもの」と「そうでないもの」の決定的な区別をする為に再利用できるので提示
②エゴが作った「自己(the self)」がいかに何でもありのインチキかがよく判る例―フォルクスワーゲン不正から派生した組織問題、公務員サボり異常過多問題、ボディソープ問題

【①【A・Course・in・Miracles】ワークブック『14. What am I?』引用―歪みだが「エゴが作ったもの」と「そうでないもの」の決定的な区別をする為に再利用できるので提示】

前回の『西暦2015年概念(23)【A Course in Miracles】自己概念』に引き続き、今回は【A・Course・in・Miracles】の「自己」概念に関してワークブック『14. What am I?』を引用し、【A・Course・in・Miracles】原書を用いて提示する。

以下の概念記事にも深く関わるのでリンクを提示しておく。
西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23
前半(27)「夢の主人公」の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12017397555.html
後半(21)【A Course in Miracles】夢の主人公
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12075532718.html
後半(22)【A Course in Miracles】the dreamer
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12076710317.html
(23)【A Course in Miracles】自己概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12078552827.html

『What am I?(私とは何か?)』。
「私」とは「自分自身だと認識する対象」を言うが、この知覚ある世界の中で自分だと認識する対象は、エゴが作った自己(the self)だ。
その点では【A・Course・in・Miracles】と一致している。

しかし、【A・Course・in・Miracles】では「真の自己(the Self)」を「神という現実の中で、永遠であり変わらない完全な神と1つである神の創造物、神の息子、全てが1つの状態」を指す。
これは神概念が歪みなので歪みだ。そして、エゴが作った「自己(the self)」=「夢の主人公」と「真の自己(the Self)」を何とか結びつけようとし、エゴが作った「自己(the self)」を取っておこうとするエゴの目的が含まれる。
だが、この概念は再利用できる。

「エゴが作ったもの」と「そうでないもの」の決定的な区別をする為に再利用できる。神概念と同様だ。

だから、【A・Course・in・Miracles】ワークブック『14. What am I?』は中身がカスカス状態ではあるが、提示することにした。これを知れば比較対照から、決定的な区別ができるようになる。
エゴが歪み目的で作った、歪みが取り除かれると最後までは残らない概念は中身がカスカスだということなのだとよく解る。そして意味なくキラキラ聖なる強調に走り中身がない羅列を繰り返す。「savior」とか「salvation」とか「messengers」とか最後までは残らない無意味な言葉の羅列。それらは特別性を誘因させる為にある。

【A・Course・in・Miracles】の中には、グダグダと中身がないものを語り尽くす部分もあり、中身が詰まった部分もあり、今回は中身がカスカス状態である部分例としても再利用できる。

決定的に言えるのは、知覚ある世界、知覚自体をエゴしか作らないので、「自分自身だと認識する対象」はエゴが作った「自己(the self)」の範囲を超えられない。要するに「真の自己=1つの自己(the Self)」を自分自身だと認識することはこのエゴが作った「自己(the self)」の範囲内では不可能だ。完全にエゴが作った外側にあると考えるべきなのだ。
故に「自己(the self)」と「真の自己(the Self)」はあらゆる点において切り離して考えなくてはならない。
だから認識できるこの自分はエゴが作った作り物だと認識すべきなのだ。

以下は前回の『西暦2015年概念(23)【A Course in Miracles】自己概念』にも書いた内容を共通する内容なので一応置いておく。

この知覚ある世界ではこの「夢の主人公」が「the self(自己)」(selfは小文字)だ。例外なく全てエゴが作った。この点については西暦2015年現在の佐藤篤代も【A・Course・in・Miracles】と同様の見方だ。

大文字の方、「唯一の」という意味が含まれる「the Self(真の「自己」)」は、【A・Course・in・Miracles】では「神という現実の中で、永遠であり変わらない完全な神と1つである神の創造物、神の息子、全てが1つの状態」だ。この「完全性」、「完全な1つ」を指す。
ただ、西暦2015年現在の佐藤篤代の見方では、神概念は歪みなので神概念は除けておき、現在窺い知れる恐らくそこは確かなのだろうという範囲状態の中で、「エゴが欺く対象」を「the Self(真の「自己」)」と捉え、「1つの自己※」と呼んでいる。

「夢の主人公」である、この知覚ある世界の中の個々の存在の自己を表す「the self」は、「エゴの欺きの手段」にすぎないと捉えている。例外なく全ての個々の存在を、だ。エゴが作ったからだ。

それ故に、個体である「自分」を保護すべき「自己」とは捉えない。切り離して考えるべきだ。

認識しているこの意識が「自分」だと捉えることは、エゴが作った「the self(自己)」を自分だと信じることであり、エゴが作った範囲内に縛り付ける鎖の中からは脱することができない。
それは鎖でがんじがらめに偽りに縛り付けられることだからだ。

認識している意識、「自分」だと自分が捉えているものすらも、エゴが作ったのだと認識し、保護や信じるに値しないと知らなくてはならない。

だから「自己・自分」=「エゴが作った欺きの手段」という自覚は欠かせない。

要するに、個体である自分である自己はエゴが作ったので、エゴの欺きの手段に過ぎないと捉える。
そう捉えられるまでは容易くはないが、それでエゴの操作するロボットのように自分も含めた個体を捉えられる。
それで自分や他者への特別性は棄てられるし、故にエゴが作ったものによる現実的な結果は生じなくなる。
「エゴが作ったものはエゴが作ったものに過ぎない」という完全に公平な見方が得られる。エゴが作った全ては取っておくべき大切なものとはなり得ない。

「自分」が「自己」でエゴに欺かれた被害者であると見ると、「自分=心」,「自分=魂」,「自分=身体」だという見方に縛り付けられるので、それでは自分への特別性が棄てられない為に、必ずこの切り離した見方は欠かせない。

自分への特別性が棄てられなければ、知覚ある世界の何も棄てられないのと同様であり、世界は自分にとっての現実としかならない。それではエゴの目的からも何も脱することはできず、エゴの欺きは終わらない。

【A・Course・in・Miracles】では「the self」をエゴが作ったと言ってはいるものの、「神の息子=the Self」がバラバラになったものが各個々の存在の「the self」に宿っているかのように書いている。だから、最終的に「自分」への特別性が棄てられないという状態に陥らせる。この点がエゴ概念だ。

だから、完全に「エゴが作ったもの」と「そうでないもの」との徹底的で完全な区別が必要だし、切り離さなくてはならない。

「欺きの手段であるエゴが作った自己」を「欺かれた対象である真の1つの自己」と結び付ける為のエゴの目的を知らなくてはならない。
完全に自己を混同させることで、エゴが作った特別な自己を棄てられなくさせる為のエゴ罠だ。

「夢の主人公」概念についてはこの『西暦2015年段階の概念:佐藤篤代/前半(27)「夢の主人公」の実態』で、【A・Course・in・Miracles】を超えてから知った概念を書いてある。
後半(21)では例を挙げて書いてある。

【A・Course・in・Miracles】の「hero」とは「主人公」という意味だ。「hero」を英雄のようなヒーローだと取ると実際の意味を隠されるので「主人公」と取らなくてはならない。
「主人公」の中には全く主人公には見えないタイプもいる。だからヒーローだと取ると意味が隠される。

『西暦2015年段階の概念:佐藤篤代/前半(27)「夢の主人公」の実態』に書いてあるが、【A・Course・in・Miracles】レベルの「主人公」の意味と【A・Course・in・Miracles】レベルを超えてからの意味は異なる。

【A・Course・in・Miracles】レベルの「主人公」の意味では、主人公はエゴに欺かれた対象として見ている。
だが、実際は「主人公」はエゴの作り物の範囲を超えないので、エゴの欺きの手段だ。欺かれた対象は一切エゴの作り物ではない「1つの自己※」だと考える。「1つの自己※」がエゴに欺かれてエゴの作り物で欺きの手段である「主人公」達を次々に見せられていると考えられるからだ。

今回は『西暦2015年段階の概念:佐藤篤代/前半(27)「夢の主人公」の実態』にじっくり書いてあるからこの説明は省く。

【A・Course・in・Miracles】の「the dream」概念は、夜に見る夢でも、「夢を叶える」という希望的な意味でもない。この知覚ある世界のこと自体を言う。

エゴが欺きの目的で世界に閉じ込める為にこの世界を見せている。だから例え的な意味合いで「the dream」と使ってある。

西暦2015年段階では本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】自体を歪みだと見ている。神概念も癒しも歪みだ。聖なるキラキラもエゴのアメだと疑ってかかる必要がある。
「student」、「teacher」は矛盾であり、歪みでしかない。
故に『神の使者』も同様だし、日本語訳で更に歪んでいる。
それを踏まえた上で引用するのは、知る過程では欠かせないからだ。

また、原書にある「brother」は「あらゆる他者」、「the Father」は「神」を指すが、これは特別性を温存するための理由で書かれている場合がほとんどだ。
歪みだが【A・Course・in・Miracles】の「the Kingdom」や「Heaven」は「the Kingdom=Heaven=神=神の創造物=神と1つの状態」だ。
「I」等の一人称はJesus(イエス・キリスト)。
「Friend」は「聖霊」。
少なくとも「learn」は「知る」、「teach」は「知らせる」と意味を取らなくては歪みにハマり込む期間がそれだけ長くなる。
故に「teacher」は「知らせる者」、
「learner」は「知るべき者」。
しかも「知らせる(段階の)者」、
「知るべき(段階の)者」。

▽以下引用

14. What am I?

1. I am God's, complete and healed and whole, shining in the reflection of His Love.
In me is His creation sanctified and guaranteed eternal life.
In me is love perfected, fear impossible, and joy established without opposite.
I am the holy home of God Himself.
I am the Heaven where His Love resides.
I am His holy Sinlessness Itself, for in my purity abides His Own.

2. Our use for words is almost over now.
Yet in the final days of this one year we gave to God together, you and I, we found a single porpose that we shared.
And thus you joined with me, so what I am are you as well.
The truth of what we are is not for words to speak of nor describe.
Yet we can realize out function here, and words can speak of this and teach it, too, if we exemplify the words in us.

3. We are the bringers of salvation.
We accept our part as saviors of the world, which through our joint forgiveness is redeemed.
And this, our gift, is therefore given us.
We loose on everyone as brother, and perceive all things as kindly and as good.
We do not seek a function that is past the gate of Heaven.
Knowledge will return when we have done our part.
We are concerned only with giving welcom to the truth.

4. Ours are the eyes through which Christ's vision sees a world redeemed from every thought of sin.
Ours are the ears that hear the Voice for God proclaim the world as sinless.
Ours the minds that join together as we bless the world.
And from the oneness that we have attained we call to all our brothers, asking them to share our peace and consummate our joy.

5. We are the holy messengers of God who speak for Him, and carrying His Word to everyone whom He has sent to us, we learn that it is written on our hearts.
And thus our minds are changed about the aim for which we came, and which we seek to serve.
We bring glad tidings to the Son of God, who thought he suffered.
Now is he redeemed.
And as he sees the gate of Heaven stand open before him, he will enter in and disappear into the Heart of God.
(P479)

△以上引用

【A・Course・in・Miracles】
second edition:
WORKBOOK FOR STUDENTS:
『14. What am I?』
全部



【②エゴが作った「自己(the self)」がいかに何でもありのインチキかがよく判る例―フォルクスワーゲン不正から派生した組織問題、公務員サボり異常過多問題、ボディソープ問題】

以下は、エゴが作った「自己(the self)」がいかに何でもありのインチキかがよく判る例だ。

西暦2015年9月27日:日曜日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150927/k10010249741000.html
VW「違法のおそれ 4年前に社内で指摘」
ドイツのフォルクスワーゲンがディーゼル車に不正なソフトウエアを搭載していた問題で、ドイツのメディアは、すでに2011年の段階でソフトウエアの使用が法律に違反するおそれがあると社内で指摘されていたと報じました。
この問題は、フォルクスワーゲンが排ガス規制を逃れるため、ディーゼル車に試験のときだけ有害物質の排出を低く抑える不正なソフトウエアを搭載していたもので、このソフトが稼働する車両は世界でおよそ1100万台に上るとされています。
ドイツの有力紙「フランクフルター・アルゲマイネ・日曜版」は27日、フォルクスワーゲンの監査役会の関係者の話として、すでに2011年の段階で、フォルクスワーゲンの社員がソフトウエアの使用は法律に違反するおそれがあると内部で指摘していたと報じました。この指摘は今月25日ウォルフスブルクの本社で開かれた監査役会の際に報告されたということですが、社員による指摘が当時なぜ生かされなかったのかや、不正の責任を取って辞任した前の会長が把握していたかどうかについては、言及されなかったとしています。
また、今回の不正を巡ってはフォルクスワーゲンの経営陣の関与が焦点の一つとなっていて、事態を重くみた監査役会が、責任の所在を明らかにするため外部機関に調査を依頼したと伝えています

西暦2015年9月27日:日曜日
http://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye2599346.html
ドイツの自動車大手・フォルクスワーゲンが排ガス規制を不正にかいくぐっていた問題で、イギリスのメディアは、使用された違法なソフトについてEUが2年前にすでに把握していたと報じました。
25日付けのイギリスの新聞「フィナンシャル・タイムズ」によりますと、EUの研究機関は、検査を感知して排ガス量を操作する違法ソフトの存在を2013年の時点で把握し、「試験場ではなく、実際に路上を走る形でのテストをするべきだ」と指摘していました。「フィナンシャル・タイムズ」はEUがこの問題を追及できなかった背景として、自動車業界のロビー活動が持つ影響力の大きさを挙げています。
以上

【EU】とは
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E9%80%A3%E5%90%88
欧州連合(英: European Union、略称:EU)は、欧州連合条約により設立されたヨーロッパの地域統合体。西暦2013年7月のクロアチア加盟により28か国にまで増えている。
イギリス、フランス、ドイツ、イタリア…とヨーロッパの主要な国々が加盟している。
歴史的には西暦1945-1949年、欧州経済協力機構(OEEC)、北大西洋条約機構(NATO)、欧州審議会(Council of Europe)などの設立に象徴されるような、欧州の国際的な協力体制の組織化の時代があった頃始まる。その後様々な段階を経て、西暦1993年にはマーストリヒト条約発効によって、(EU)が誕生。
経済の分野においては通貨統合が進められ、西暦1998年5月1日に欧州中央銀行が発足、翌年1月1日には単一通貨ユーロが導入される
以上

一応、「EU」とは何かを置いておく。エゴが作った【異世界レベル】の主人公の領域で「EU」がない世界があるのが窺えたからだ。

フォルクスワーゲンは会社ぐるみの悪質極まりない不正だと発覚した。これではもう組織的な抜本的改革がなされなくては再生は無理であり、世界的な信用も地に堕ちきり、信用を回復するには、何か革新的な改革がなされなければもはや不可能に近い状態に陥った。
企業としては普通終わりだ。組織的な構造に問題があるから不可能だ。もう一部に責任を押し付けてトカゲの尻尾切りは絶対にできなくなった。これほど酷い不正が発覚して、深刻な業績不振に陥った時、国から援助が出たら非難が更に高まる。それなのに国から援助は出るのだろうか。世界的な大企業だから国から援助が普通は出るが、抜本的改革ができる見通しが立たなければ再不正か何かの大問題が生じるだろうから、どうなるだろう。普通なら再び問題が生じる可能性を考えて渋るだろう。
まだ数年内、アメリカでGMやクライスラーが経営危機に陥った時は援助が出たが、その申請時に高級車等派手な反省の色もなく金持ちっぷりを見せびらかすような空気読めない登場をした為に、相当非難されていた。だがこれは単なる経営危機で不正等の大きな信用問題ではなかった。
不正が罷り通る組織構造が残れば、絶対に更なる問題を起こすから、存続させれば未来に禍根が残るが、ドイツはそれをどう判断するのか。今回の問題はドイツ製全体の信用を失墜させたのだから、その危険性の再発の可能性が未来に残る方法を取るのは破滅を招くだけだか。

そこにEUがフォルクスワーゲンの不正を2年前に把握していたとなると、企業だけでなく、ヨーロッパ全体の問題となってしまう。2年間その不正を見逃してきたということになってしまう。それではEUの組織構造にも致命的な問題があるとしか言いようがなくなった。

フォルクスワーゲン不正問題はヨーロッパ全体を巻き込んだ大問題となってしまった。

組織的な構造に問題があると、一度問題が明るみに出れば、普通は企業ならば存続できない。外部からの援助がなければ倒産する。根っこを取り除かなければ必ず不正のような問題は再発する。日本の年金機構もそう。普通なら倒産するところ、年金機構は公的機関だから倒産しなかっただけの話だ。
そして公務員の大きな問題はこの点にある。誰でも判るが。
公務員は倒産の危険がない。だからこそ、慎重に仕事をしようとしない。実質的な仕事はやってるフリをしてサボっても、何か支障が起きても、何があってもどうせ倒産しない。何か問題が生じてもスケープゴートに責任を擦り付けて、他人のせいにして、トカゲの尻尾切りをすればいいだけだ。だからこそ、公務員組織は他人に責任を擦り付けて自分の非を認めないずるい人間だけが生き残っていくし、ずるい人間こそが上層部へ登り詰める。
だから年金情報流出問題や新国立競技場の白紙撤回のような問題が生じた。東京オリンピックの組織委員会会長である森喜朗元首相はいつまでも責任を他人に擦り付けて責任逃れをし自分で取るべき責任を取らない。
生き残る為に他人を蹴落としてきたからだ。

北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻:西暦2015年(仮)】は男は役所系公務員だが、シルバーウィークをあれほど大量に休みながら、その週後半金曜日にサボり、その週明けの、西暦2015年9月28日:月曜日もサボりだ。これまでも多々サボりを見てきたが、他に書くべきことは沢山あり最近書かなかった。だがこちらが外出日を狙い尽くしてのサボり方があまりにも酷いので今回は書いた。
(※その後、これを概念記事として投稿した西暦2015年10月1日:木曜日にもサボり。シルバーウィークがあった直後2週で3日サボりだ。もはや「仕事やめたんじゃないの?」という声も家族からすら出るくらいの多さだ。
しかも男しか乗れない車がなくても北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員男:西暦2015年(仮)】のクシャミが聞こえてきたり、何故か気持ち悪いことに玄関から出入りしなかったり、複数の自転車でトリックのように誤魔化したりしたりしているから実際はもっとサボっている筈だ。どう考えてもいないフリをしている時が多々あり、その度にゾッとする。だから、【近藤(仮)】におけるエゴの目的、インチキの実態を知る前、西暦2010年は怖くて仕方なかったのだ。
ちなみに、北隣【近藤(仮)】玄関は部屋の真下にあるので見聞きしたくないのに見聞きせざるを得ない立地)

いくらなんでもシルバーウィークを休みながらの連続的なサボりは脳みそが腐るか壊死しそうな位のサボり方だ。仕事のやり方とか忘れてしまいそうだ。そんなに休んでいたら重要な仕事などはできない。集中力が無さすぎて無理だ。休みすぎるとだから効率が悪いのに。公務員は危機感と責任感が全くないからだと言われても仕方がない。

しかもストーカーとしか言いようがない。北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻:西暦2015年(仮)】は今でもこちらのトイレや風呂を狙い尽くす。風呂は時間的に無理があるから、トイレが特に狙われ、時間を避けているのに追いかけられる。少し前など、リビングの雨戸は閉まっていたからリビング外に暗闇の中潜んでいないと不可能な動きで夜のトイレを狙われた。これにはゾッとした。暗闇の中、トイレのタイミングを狙う為にスタンバイして待っていて、リビング外に異常に設置されたゴミ箱の音を鳴らしたとしか言いようがない奇行としかならない。だからこそ、やはり少し前に、風呂のボディーソープのポンプ付き蓋が突然何かに壊されたように破損していた理由を北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻:西暦2015年(仮)】に普通はどうしても見てしまう。あまりにもストーカー的過ぎるのを見せられたら普通に疑う。こんなことが多発し過ぎているのだ。西暦2010年の大混乱期の北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻:西暦2015年(仮)】に対して命の危険を感じて警察に相談するのは当然だ。

ボディーソープ問題は物質レベルの問題ではなくエゴが作った【異世界レベル】の主人公達のこの領域における取り繕いが拗れたのだと考えているので、現実としての北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻:西暦2015年(仮)】自体のせいにはしないが、普通は疑われても仕方がない。

まず、ボディーソープ問題は、【実母】が、こちら専用のシャンプーのポンプ付き蓋が風呂のボディーソープに間違って付けられているとあり得ないしやっていないことを指摘されたことから始まった。シャンプーなんか詰め替えしていないのにポンプ付き蓋が外されているはずもなかった。
ということは、その時点で【実母】はあからさまに違うポンプ付き蓋がボディーソープに付けられているのを目撃したことになる。そして、ポンプ付き蓋を外すなど他の家族はやらない。
この段階で、この件は外部的なものとなる。外部の誰かが密かに何故かボディーソープのポンプ付き蓋を別物に変えたということになる。
そしてこれは近接し過ぎた北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻と70代位夫妻:西暦2015年(仮)】ならば簡単にできる。

ここで、「ああ、【異世界レベル】の主人公レベルで、間接的関連付けでスケープゴート糾弾の為にシャンプーの詰め替え等をやってしまい、それを【実母】に隣レベルで聞こえるように声が響く階段で指摘させたかったのだろう。要するに北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻:西暦2015年(仮)】宅にこちらに関連づけたい主人公レベルがいる」と考えた。このようなやっていないことをやったと言われるインチキは幼い頃から日常茶飯事だ。

それであまりにもあり得ない「事件」が生じてしまったので、エゴは世界を作り直して取り繕った。

その後、風呂でボディーソープを使うと、今度はボディーソープのポンプ付き蓋が破壊されていた。これは落ちて壊れた状態ではなく、外部から手を加えられて破壊されないとそうはならないような形状だった。

エゴは外部の誰かがボディーソープに別のポンプ付き蓋を付けたというような状況を、「外部犯」がいるという方向に取り繕わざるを得なくなったのだなと考えた。それくらいにスケープゴート用として糾弾しようとして作り上げた設定がばかみたいな結果に陥ったので苦肉の策の「外部犯」の作り上げ。

あ、【異世界レベル】の主人公達の領域では法律として作ってない領域もありそうだから一応書くが、この「ボディーソープ事件」は住居不法侵入と器物損壊に当たるから。普通は警察に訴えれば捕まります。
因みに、新車に生卵みたいなものを投げつけられていたり、車の前にゴミを置かれたりということも1、2年前にあったし(現在西暦2015年)それも考慮にいれた範囲になるのは間違いない。
そして一番やりやすいのはやはり北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻と70代位夫妻:西暦2015年(仮)】。日常茶飯なストーカー的な動きから一番に疑われるのは当たり前。そうなったらストーカー規制法にも関わってくる。
しかも少し前の一連のいちゃもんつけコメントは北隣【近藤(仮)】の話題に激しく反応していたから、北隣【近藤(仮)】である可能性は高すぎるし、内容的に脅迫罪や名誉毀損に当たる部分もあるから、それも範囲に含まれる。多数のキャラクターを演じて追いかけるストーカーでしかないから、ストーカー規制法の範囲にも含まれる。あり得ないことを言われたが、逆にこちらは直接対象として面と向かってコメントで言われたのだから、名誉毀損になるのは北隣【近藤(仮)】となりかねない。

無論、「外部犯」がいるなど考えもしない。馬鹿馬鹿しい。大体、最初に人のせいにしてきた時点で、エゴのスケープゴート糾弾目的から始まっているのはわかりきっていて、もはやエゴの取り繕いにしか見えない。
このように現実的な結果にさせようといくらエゴが画策しても、結局おかしな方向に帰着し、結果インチキにしか見えない。この繰り返しだ。ニュースもそう。

全てはエゴの作り物。個体も、出来事もニュースも全て、エゴが作った作り物に過ぎないのだ。

そしてエゴが作った全てを再利用して【終わらせる為に作用する何か】は、知覚ある世界がエゴが作った作り物に過ぎないと証明している。

エゴは公的方向性を動かしやすいから可能な限り保護し死守したい。
この象徴が北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻と70代位夫妻:西暦2015年(仮)】宅に集められている。だから【近藤(仮)保護法】の如く、エゴは【近藤(仮)】を保護したい。だから近接しているし、近接させることで、こちらをスケープゴート用にさせるために尽力しているのだ。

【A・Course・in・Miracles】で言うように知覚ある世界の全てはエゴが作った作り物のインチキだという証拠、証拠提示として再利用されているこちらを叩き潰すために、北隣【近藤(仮)】は持ち上げられ保護され、正当化される。
その正当化を【終わらせる為に作用する何か】は作用して崩す。
だから 近接【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻や70代位夫妻:西暦2015年(仮)】が仕事や常識がこの領域ではあり得ない【異世界】で、しかも犯罪レベルの変態ストーカーにしかならないような結果になるのだ。

北隣【近藤:40代後半から50代前半位公務員夫妻:西暦2015年(仮)】が変態ストーカー犯罪レベルにしか思えない位の結果になるのは、【近藤(仮)】宅に象徴された【異世界レベル】の主人公達が、それほどまでに攻撃的に、スケープゴートを作り出し拘束隔離してきたからだ。
自分たちがやったことが受け取られているだけなのだ。

公務員の性質を如実に表しているではないか。他人のせいにして、押し付けやすいスケープゴートに責任を擦り付け、責任を取らせ、蜥蜴の尻尾切りをしながら自分たちは生き残ろうとするずるい人間の性質がよく表れているじゃないか。
しかしそれは最後に正当化できなくされるということだ。

しかし、こちらがやっているのは、「知覚ある世界はエゴが作った作り物のインチキ」だという証明。北隣【近藤(仮)】がやっているように見えることも、現実の人間ではなくエゴの作り物に過ぎないと証明しているだけだ。「犯人なんかいない、罪は存在しない、あるのはエゴの欺きの目的による作り物だ」と言っている。

だからこちらには、いくらスケープゴートに仕立てあげようとしても、ボディーソープ事件のように「何か変な事態」に陥り取り繕いが必要な事態に陥り、墓穴を掘り、結局「やってないことはやっていない」と証明されるワケだ。

佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2015年後半(24)
【A Course in Miracles】What am I?
西暦2015年10月1日:木曜日



西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
前半
(1)エゴの隠す特質
(2)エゴが隠し取り繕う過程
(3)2つの正反対の思考システム
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
(5)スケープゴートの世界構造
(6)原因と結果の法則
(7)繰り返しのサイクルの終わり
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
(10)やり直しのスパイラル
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
(12)エゴが作った幻想の再利用
(13)身体の脆さと死におけるエゴの目的
(14)身体は幻想・死はない
(15)【死の超越】の実態
(16)『罪の起源』の実態
(17)罪は幻想・罪はない
(18)罪の投影の世界構造
(19)スケープゴートへの罪の投影
(20)罪をでっち上げる世界
(21)エゴが罪悪感を作った理由
(22)罪悪感の投影の実態
(23)自分自身に対する戦いの実態
(24)【異世界レベル】の穴概念
(25)エゴが作った全ての再利用
(26)真の公平な視点
(27)「夢の主人公」の実態
(28)「攻撃の完全放棄」の実質
(29)与えることと受け取ることは同等
(30)【A Course in Miracles】の実態
(31)【A Course in Miracles】世界はない
(32)【A Course in Miracles】幻想の意味
(33)【A Course in Miracles】幻想の消滅
(34)【A Course in Miracles】エゴの思考システム
(35)【A Course in Miracles】エゴの台本
(36)【A Course in Miracles】エゴと聖霊
(37)【A Course in Miracles】聖霊
(38)【A Course in Miracles】死はない
(39)【A Course in Miracles】身体は幻想
(40)【A Course in Miracles】真実に対する防衛
(41)【A Course in Miracles】無防備は力
(42)【A Course in Miracles】聖霊への全託
(43)【A Course in Miracles】聖霊の計画
(44)【A Course in Miracles】概念:赦し
(45)【A Course in Miracles】実践:赦し

西暦2015年後半
(1)【A Course in Miracles】赦しの実際
(2)【A Course in Miracles】神概念
(3)【A Course in Miracles】真の世界
(4)【A Course in Miracles】原因と結果
(5)【A Course in Miracles】与える&受け取る
(6)【A Course in Miracles】与える全てを受け取る
(7)【A Course in Miracles】平和を知らせる意味
(8)【A Course in Miracles】6章:聖霊のレッスン
(9)【A Course in Miracles】peace
(10)【A Course in Miracles】第1:平和に対する障害
(11)【A Course in Miracles】第2:平和に対する障害
(12)【A Course in Miracles】第3:平和に対する障害
(13)【A Course in Miracles】第4:平和に対する障害
(14)【A Course in Miracles】miracle
(15)【A Course in Miracles】trust
(16)【A Course in Miracles】神の教師
(17)【A Course in Miracles】teach・learn
(18)【A Course in Miracles】権威問題
(19)【A Course in Miracles】judgment
(20)【A Course in Miracles】聖霊の判断
(21)【A Course in Miracles】夢の主人公
(22)【A Course in Miracles】the dreamer
(23)【A Course in Miracles】自己概念



この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う



西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

パソコン持ってなく、自分用スマートフォンでブログ書いてる。完全ブログ等インターネット使用のもので通話他はやらない。だから西暦2014年位からは部屋からも持ち出さない。祖母の携帯電話を借りていたのはXPERIAの機種変更まで。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

【但し書き】
http://simplog.jp/comment/20217165/23
メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーションは迷惑だからやめて下さい。例外は一切ありません。
全て別人へのコメントにしかなっていません。
なされる全てが【異世界レベル】の【主人公(偽者)用コメント】でインチキだと判明していますので、「現実の他者」に対する対応は一切しません。
容赦なくツッコミします。そのコメント等の目的、大元を崩す為に容赦ないツッコミをします。

真実はあらゆる他者、他の存在とは分かち合えない。それが実感されている為に一切他者向けには書いていません。

このブログは、本物:佐藤篤代が見てきた過去の全てを受けとる為、そして『1つの自己※』へ向けて知らせる手段として、エゴが作った全ての主人公(偽者)と領域を終わらせる為に書いています。
これも【A・Course・in・Miracles】レベルを超えなければ理解できません。

このブログの中身は隠され、物質主義者レベルのスケープゴート糾弾用まで歪められています。故に中身が見える筈もないのです。だから別人へのコメント等になっているのです。

また、このブログは型としては日本人の日本語によるブログです。
コメント自体、この但し書きを見てやめるのは正常な人間の判断です。ですがそう書いてもコメントが止まない為書いておきますが、ことわりなしの英語も含め、違う言語でのコメント等は非礼に当たると言っておきます。

それ以前にブログのあちこちに置かれたこの【但し書き】が見えないのは【異世界レベル】である証拠となります。

見えていてなおコメント等をするならば、他者を尊重できない他人などどうでもいいと考える「自分、自分」の原始性が際立つ精神的未熟な【他者否定・自己肯定型】だと釘をさしておきます。

このブログにコメント等をする者全てがこのレッテルを掲げて行っているということになりますので、ご注意下さい。

いちゃもん付けコメント(いいね等を利用したものも含)を目撃した者とその周辺一帯に関連づけている者全て、スケープゴート糾弾をしエゴが作った主人公(偽者)レベルの個体を高くして特別性を死守するというエゴの目的を達成するためにエゴに動かされているだけだ。

西暦2015年10月
佐藤篤代





佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2015年後半(24)
【A Course in Miracles】What am I?
西暦2015年10月1日:木曜日