真の創造主の法は争いを生まない | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

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イエスの教え VOL5


最近の記事  


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イエスの奥義を受け継ぐ者へ
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工作員語録 VOL13
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イエスの教え VOL4
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イエスの教え VOL3
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HAARPと地震と工作員




自分の所属する宗教や
自分の血に拘る人間は読まないで下さい。


理解できるわけもないでしょうし、
怒りの想念を増幅するだけだからです。


覚醒者と理解者は
宗教や民族に拘ることの愚かさに
気がついてくれているはずです。


日本の中で民族と宗教に拘り

そしてそれに基づく利権と権力を
振りかざして暴れている人間達を見れば


思想や血に拘ることが
私達を不幸にしていることも理解できると思います。


そしてこの人間達は争いごとを好みます。


私が直接彼らについて取り上げなくても
記事を読んでは気に入らないと攻撃を強めたり


挑発をし続けては私を自分たちの大好きな
戦い、争いごとに巻き込んできます。


原因をけしかけてでも、
他人を争いの土俵へと上がらせるように仕向けてきます。


そしてこれと同じ様なことが、
世界レベルでも民族と宗教によって引き起こされているのです。


今の私の主張と立場を理解し、
私の真の味方になってくれる方はいないものでしょうか。


都合の良い時に助けるとか、
管理して利用するために助けるのでもなく、
その時々で味方と認識して助けるのではなくて、


どんな時でも常に私の味方であるような、
そして創造主の法の理解者であるようなそんな人達がです。


私は自分のありのままの姿を感じ続けてみたい。


そして出来るものなら宇宙的啓示を
体験して見たいのです。


今は脳を加害者関係者達に程好く、都合よく
管理され続けています。


私は精神的にも肉体的にも、
今の自分の真の姿を自分で認識することも出来ないのです。


生殺しとはこの事ではないかと思います。


もしも私の覚醒が進めば
皆に対しても、もっと覚醒を促すための
きっかけとなることも出来るかもしれません。


脳への照射が止まりませんし
それ以前に今後は更に出力が上がる可能性も感じています。


自分が倒された時のために毎日翌日昼過ぎの設定で
首謀者の一人の自宅写真を予約設定し続けます。


被害が激化すれば即公開となると思います。


私を戦いの場へと導きたいのであれば、
私はそれに従って出るところに出て戦うしかないと思います。


複数組織の思惑が私を取り巻いては
結果的には散々な目に遭わせ続けている。


この状況に甘んじて生殺しをされ続ける気は毛頭ありません。


当初の首謀者と利権者に、
それに協力依頼を受けてやってきた人間達。


更にはユダヤ直に近い意識の人間達に
私を敵対者と狙う宗教組織に民族。


被害を受けている人間の立場からすれば
結果的にはすべてがユダヤの傀儡と化しているようなものですが


彼らにしてみれば単に目の上のこぶを取り除こうと
しているだけなのかも知れません。


彼らを動かしているのは
保身であり、エゴであり金であり、宗教であり、民族の血です。


そしてそれと同様の意識が
世界の中でも民族対立を煽ることとなっています、
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<リビア米領事館襲撃>イスラムの反発拡大の恐れも 
毎日新聞 9月12日(水)23時52分配信


 【カイロ前田英司】リビア東部の主要都市ベンガジで
11日夜起きた米領事館襲撃事件は、


イスラム教の預言者ムハンマドを侮辱する米映画に反発した
イスラム教徒らの攻撃で駐リビア米大使が死亡する事態に発展したが、
イスラム社会の反発は今後、さらに拡大、激化する恐れがある。


また、米メディアによると、問題の映画はイスラエル系米国人の製作と判明、
怒りの矛先は米国だけでなく、イスラエルにも向く可能性がある。


 米紙ウォールストリート・ジャーナルなどによると、
映画はイスラエル系米国人のサム・バジーレ氏(52)が製作した。


約100人のユダヤ人から500万ドル(約3億9000万円)の寄付を集め、
昨年、米カリフォルニア州で3カ月かけて撮影したという。


バジーレ氏は「これは宗教映画ではない」と主張、イスラムの「偽善」を訴えるために製作したとして、
「イスラムはがんだ」などと訴えた。


 偶像崇拝を否定するイスラム教は預言者ムハンマドを具象化すること自体、禁じている。
映画はムハンマドの性描写を含んだり、暴力的に描いたりしており、
イスラム教徒の感情を逆なでしている。


 7月初めから短い「予告編」が動画投稿サイトに公開され、本編は約2時間に及ぶ。
イスラム教の聖典コーランを燃やして物議を醸した米国のテリー・ジョーンズ牧師や、
米国に住むエジプト人のキリスト教徒らが宣伝しているという。


 ロイター通信などによると、チュニジアの首都チュニスでは12日、
米大使館前に抗議の人々が集まり、警備が強化された。


アフガニスタン当局は混乱を回避するため動画投稿サイトを遮断し、
問題の映画を閲覧できないようにした。


一方、エジプトのイスラム原理主義組織ムスリム同胞団は14日の金曜礼拝後、
全土で大規模デモを開催するよう呼びかけた。


 リビア国民議会のマガリエフ議長は12日、大使死亡について米国に謝罪した。
また、シャリフ副内相は領事館を襲撃した暴徒について
「(昨年の民主化闘争で崩壊した)カダフィ前政権の残党だ」との見方を示した。


リビアではカダフィ体制打倒の過程で流出した大量の武器が回収できず、
武装グループが民兵化して治安を不安定にしている。

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この社会の宗教にまつわる複数の問題点が
こんな事件から見えてきます。


最初に触れておけば、
この事件が真のイスラム勢力によるものなのか


ユダヤ傀儡と化した人間たちの手による自作自演での
事件なのかは判りません。


一応、そのことを私の理解の前提としておいて、


宗教が争いを作り上げているという実態に
少し触れてみたいと思います。

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私達覚醒者は、真理は一つしかないことを理解しています。


私達は今その欠片を見つけるために暗中模索している最中ですし
少なくとも私達の向いている方向は誤ってはいません。。


私達は人間の作り上げた律法を限定列挙で
守っているわけではないからです。


私達は守るべき道徳や人としての生き方を
創造主の意志として受け止めそれを実践することに勤めています。


一方既存の宗教が理解すべきは、
創造主は複数存在してはいないという事と


元々の聖人達が導こうとした方向は
皆同じところであるはずだと言うことです。


そして複数の真理で満ちているこの社会の殆ど全ての
人的な真理は誤りである、
もしくは多分に誤りを含むものです。


その証拠に、宗教に囚われている多くの人間が
その教えと価値観を根拠に
他の宗教と対立しては争いを続けています。


争うことを求めてはいない、
調和の実現こそを求めている創造主の意志は、


そこからは微塵も感じ取ることができません。


つまりは多くの宗教は
自分の真理を全て正しいと思い込んでいるがために
それと異なった価値観を受け入れることができない状態で


個人的真理に囚われた心が、不快と感じる現象に出会うたびに、
その不快さを解消するために暴れているのが
宗教の争いだといえます。


自分達は正しい価値観を持っている。


真理を知ってそれを実践している。


だからそれと異なるもの、
それを批判するものは敵であり悪魔であり
神への反逆者である。


おそらくはそんな理屈になるのだと思いますが

彼らは神や仏の名の下に
争いごとを正当化しているに過ぎないと思います。


多くの宗教の中で”創造主の意志に関する教え”をその原点としていて、
その中で”両極端”に存在するのが
ユダヤ教とイスラム教だと私は想像していました。


キリスト教は丁度良い位置にいるはずですが
其の思想が捻じ曲げられているわけです。


人的価値観を付け加え、都合のよい解釈で自分達の価値観を
そのまま宗教に利用しているように見えるのがユダヤ教徒。


極端な戒律を求めることで自分達の生き方を諌めながらも、
人間としての器の限界が破綻を引き起こしているのが
イスラム教徒のように見えます。


ユダヤ教徒の一派は見えないところで策略を企てますし、
イスラム教徒の一派は表立って過激な行動に
出ることもあります。(ユダヤの傀儡の洗脳などの原因もありますが)


これらは彼らの信仰する宗教が
彼らに与えた価値観のなせる技だと思います。


タルムードの選民思想と秘密主義、
コーランの聖戦のような思想が
そのままそのような行動を正当化してもいるのです。


ユダヤ教も、イスラム教も
元を正せば旧約聖書の神への信仰から始まっている宗教です。


それはキリスト教もある意味同じだと言えます。


旧約聖書には人格神も出てきますが、
そうではなく創造主の意志を
ブラザーズらしき人間達が述べ伝えた内容も多くあります。


つまりはイエスキリストが語っていた
創造主の教えの原点も、
旧約聖書の中には存在しているわけです。


そしてそんな旧約聖書からを源流とし、
結果的には創造主の法を信仰していることにもなる全ての宗教が
正しい創造主の教えへと進んでくれれば、


この社会の多くの地域では平和と調和が満たされると想像できるだけに
今のそれとはかけ離れた実態が残念でもあります。


そして同時にこれが、
人的解釈に拠る創造主の法の理解の弊害ともいえると思います。

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創造主の法は私達に厳しい戒律を求めるものではありません。


私達が人間らしく生きることで、
本来の予定されていた存在へと立ち返ることこそが
落第生の星である地球に対しての創造主の願いだと想像できます。


それは道徳的な意識をもった生活であり
良識をもった判断であり、
人としての基礎的な課題に他ならないと思います。


そして今では宗教とされてしまった聖人達の教えは、
元々はそのことを私達に告げるためのものだったはずです。


単なる人間でありながら、
カリスマ性で聖人とされた多くの人間達の
個人的真理と言える思想は別として、


少なくとも仏教、キリスト教、イスラム教に関しては
それを正しい流れへと導こうとした人間達がいました。


そして彼らが私達に教えたものは”宗教”ではありません。


本来進むべき道を見失っている私達に生き方を変えることを示唆し
その進むべき道しるべを与えてくれたのが彼らだと思います。


しかし”創造主”と言う存在が私達の目には見えないこと、
そして私達がそれを感じることができないと言う弊害が、


今度は私達に目に見える聖人達を崇拝させるような流れを
誘導することになったのだと思います。


もしも創造主が私達の目で確認可能な存在であれば、
私達は人間を神聖化してそれを拝むこともなかったはずです。


しかし私達はそれができないために

身近で現実に人として存在し、
創造主の法を語ってくれた人間を美化するにいたるのです。


これは私達が、目に見える物しか信じる事ができないという
そんな意識にも繋がっていると思います。


四次元的な存在である創造主の意志は、私達には見えませんし
多くの場合は感じ取ることもできません。


しかし人間として三次元に存在しているかぎり
聖人の姿と痕跡は認識することが出来ます。


その結果、それぞれの聖人が
結果的に同じことを自分の解釈で述べ伝えているだけで、


その全てが同じ創造主の法であったとしても


私達は聖人を通じて創造主の法を理解しようとするので、
そのことを正しく認識できず


その個々の聖人の教えを一つの真理として作り上げ、
宗教として信仰してしまっているのです。


そして聖人が時代背景や生活習慣
その環境をも加味して語った教えの違いを
真理の違いと受け止めては


お互いに相手が間違いであると主張しては
戦っているようなものだと思います。


聖人と言われる人間達が、
創造主の意識を感じることのできる真の覚醒者であったならば、


その語っていることは全てが創造主の法であり
宇宙の法則だと言うことになります。


そうでなければその人間自体が誤った思考を持っていることになりますし
それは人間の作り上げた価値観に他ならない事にもなります。


同じ法を学びながら何故に争わなければならないのか?


それは聖人の教えから形式を理解しては
聖人を真似ているだけで


聖人の本質である精神を学んではいないからだと思います。


私達が形式に囚われる事が弊害を生んでいるのです。


更に、事の本質は聖人を崇拝するのではなくて、
その聖人が述べ伝えてくれた実践すべき生き方をすることなのに
時には聖人を崇める事が信仰に置き換えられることにもなりかねません。


私達が意識すべきは
聖人の主張に関しても枝葉に拘るのではなくて
聖人が本質的に一体何を私達に学ばせようとしたのかと言うことです。


戦争や争いごとを奨励した人間が聖人の中にいたでしょうか?


つまりは聖人や宗教の名の元に分裂や争いを繰り返している人間は、
聖人の教えの真意を理解してはいないと言う事になります。


宗教と化した聖人の教えを実践している人間達を見つめて
そこに人としての誤りを見つけては聖人達を悪く言う人間もいますが、


悪いのは聖人ではなくてそれを個人的な誤った解釈をしてきた
私達なのだと言うことです。


私達は聖人の植えた木になった実ではなくて、
聖人の植えた木のすぐ横になっている別の木に
成ってしまった実のようなものだと思います。


悪い実が良い木から実るわけがない。


茨からからぶどうの実は取れないと
イエスキリストが語っていました。


私達の社会は聖人の正しい思想から学んだわけではないのです。


そしてアダムスキーやブラザーズの話によれば、
地球社会に転生してきた、彼らの仲間としての多くの聖人達は


皆が創造主の法を私達に述べ伝えるために
そして私達の文明の発展に資するためにやって来たのであって、
混乱や争いを奨励しにやってきたわけではありません。


折角、薬を与えにやってきたのが聖人でも、
使用者の使い方次第では、毒にもしてしまうと言う実例が
私達の社会の実態ではないでしょうか。

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宗教と創造主の法は限りなく似ています。


元々が創造主の法として人間のあるべき姿を賢者達が解いた物が
宗教と言う形で編纂されたのですから
両者が似ているのは当たり前です。


そして私達が創造主の法則を生活の中で意識するように、
宗教もその戒律を生活の中で意識していると言う共通点もあります。


それが正しい人としての生き方であれば、
私達の社会はそれに従う事で改善されることになるはずです。


世界の7割以上の人間が何らかの宗教を信仰しているのですから
平和が齎されてもおかしくはないはずです。


創造主の教えは何よりも先に、
万人が平等にそして平和に暮らすことをその根底として持っていて、
その中での私達の魂の進化をもたらす為のものだからです。


しかし誤った価値観を正しいと受け取って
それを生活の中でも実践することは、
人間に誤っている価値観を深く植えつける事にも繋がります。


誤った意識は更に増幅されることにもなるのです。


ではこの社会の実態はどうかと言えば
私達の見て知っているとおりです。


宗教と民族が殆どの争いごとの原因とされていて、
それに人間の欲やエゴが絡みついては
この社会を地獄と化しています。


つまりは私達の社会の中では
正しい創造主の法は実践されてはいないと言うことです。


私が、唯一そのあり方が創造主の法則に近いと認識しているのは、
チベットの僧侶の生き方です。


彼らは抵抗するにも暴力を用いません。


そして時には義のために命を失う事も辞さない覚悟があります。


世界大戦の折にはABCD包囲網で苦しんでいた日本に、
唯一人道的な見地から支援をしてくれた国でもありましたし
自らは戦争には参加することもありませんでした。


結果その後欧米に睨まれて中国に吸収される羽目になりますが、
その時にもチベットが武力で抵抗したと言う話はないはずです。
(虐待を受けたと言う話はありますが)


真の創造主の法を実践している人間達のあり方は
そうあるべきだと言う見本ではないでしょうか。


私達が宗教と呼んでいるもの多くは創造主の法、
つまりは宇宙の法則、普遍的真理ではなくて

人間の作り上げた個人的真理に他ならないと言うことです。


そんな個人的真理が複数存在しているからこそ
人間はその価値観を振りかざし、神や聖人の名の下に
エゴをもって敵対思想と戦うことにもなるのです。


創造主の法に従う人間が
その法則を盾に争いを引き起こすことはないのです。


つまり彼らを動かしているのは心の価値観であり、
エゴであり、人間であると言うことです。


私達は聖人の教えに関しても
その原点に立ち返る必要があるのだということ。


そして聖人が私達に伝えたであろうことは
道徳の実践と人間としてのより良い生き方を目指すこと。


それは強制ではなくて、そうあるべきなのが本来の私達の姿であり
創造主の意志を魂として持っている私達であれば
実践可能なものだったはずです。


しかしこの社会環境がそんな聖人の教えを変貌させました。


時には宗教は支配に利用され、
金儲けに利用され政治に利用されてきたためです。


創造主の意志とはかけ離れた人間達が、
創造主の意志を捻じ曲げてきたのがこの社会の歴史かもしれません。


聖人達は私達に
「自分も聖人になれ」と言ったのではありません。


太陽系の中で唯一誤った生き方をしている私達に、
「本来あるべき人としての姿に立ち返れ」


と教えたに過ぎないはずです。


私達はそんな容易であるはずの事すら出来てはいない。。


私達は創造主が予定していた本来の人間の姿としては、
未だに赤ん坊の域を脱することが出来ないでいるのです。


そして赤ん坊が聖人になれるわけもないのです。

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今回の事件に関して額面どおり受け止めれば、


ユダヤ系アメリカ人監督が
イスラム教徒の聖人モハメッドを侮辱するような映画を製作し


それに対してイスラム世界が怒りの声を上げた
と解釈することになります。


それが実態であると仮定して触れれば、


まず、他の宗教の聖人を蔑める様な行為をしたと言うことで
その映画監督にも問題があると思います。


社会情勢を理解していれば
そんな映画の存在がイスラム社会を挑発することは
想像出来たはずだからです。


そして何よりもユダヤ支配と化している映画業界は
自分達白人やユダヤ人を美化しては


一方アラブ人を悪役に仕立て上げる映画を作り上げては
それを世界中にばら撒き続け


イスラムを悪者に仕立て上げるような
印象操作を続けてきたと言う実態があります。


その行為自体がイスラム世界への挑発行為ですし
そして他の一般人に対する印象操作です。


【9.11テロの延長として今回の事件があるとすれば】


これも自作自演の可能性もあります。


一方、イスラム社会にもお願いしたいのは、


折角自らは厳しい戒律を持ってそれを実践していても、
その事が自分達の精神を苛立たせたり、
意識を捻じ曲げる事になりかねないと言う話です。


ラマダンのような習慣や規模しい戒律がイスラム教徒に与える苦痛は、
彼らの信仰心を強くするのではなくて


誤った価値観を強く心に植えつける原因や
生活の中でストレスをためる原因にすらなりかねないと思います。


そして多くの宗教にありがちですが、


なぜに自分達の聖人を批判されたり宗教を批判されたといっては
それに対して腹を立てて反撃の狼煙を上げねばならないのかと言うことです。


私も心の師としている
イエスキリストやアダムスキーを悪く言われれば
良い気はしませんが、それで腹を立てることもありません。


私が剥きになって擁護しなくても、
彼らは真理を語っているわけですし彼らは聖人です。


その彼らの魂の素晴らしさを私は深く理解しているからです。


そして何よりも、
自分が信仰している”真の創造主”を悪く言われても
それで剥きになり不理解な人間に敵対意識を燃やすこともありません。
(不理解の人間には説明したくはなりますが)


アダムスキーは言っていました。


真の神は私達によって守られることなど望んではいませんし

真の神は私達を強くしてくれる存在だとです。


信者に守られて擁護されなければならないような
聖人や神は一体どんな存在なのか。


それは本物ではないのだと思います。


自分の信仰が本当に正しいと思っているのなら、
自分が強く心で信仰していればよい事で


理解できない人間を


「可哀想に」と思う位の寛容さも持てない人間は


神や仏の使徒ではありえない。


これが私の結論です。


分不相応な戒律で溜め込んだストレスを
敵対思想と認識した人間に八つ当たりしているようにすら見えるそんな姿は
とても創造主の分身としての存在には思えないのです。


更に争いが、
信仰や教えが原因で齎されるのであれば、
その信仰や教えは創造主の法ではないという事にもなります。


創造主のおかげで本当に強くなれた人間は、
信仰のお陰で思想に対する寛容さと理解をも
持つ事が出来るようになるはずです。


教えが正しかったとしても、
それらが実践出来ない人間がいるとすれば
その人間達は正しい信仰が出来てはいないと言う事ではないでしょうか。


私達が神や聖人を守るのではなくて、
彼らの教えが私達を導き強くしてくれると言うことを
ぜひ感じてみて欲しいと思います。


そして私達が信仰するのは聖典でも聖人でもなくて、
創造主であり創造主の法だと言うことも忘れないで欲しいです。


【貴方に無限の力の祝福がありますように】


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P.S.

今回の事件が再び中東情勢の火種と
ならないことを願っています。


私の本音はイスラム教徒の方が
平均的ユダヤ教徒よりも遥かに好感が持てます。


策略を張り巡らしませんし
表の顔と裏の顔を使い分けないからです。


しかし、狂信的であっては
それは結果的に争いの元にもなります。


(そういえば一夫多妻という制度は
それが容認される根拠はどこにあるのでしょうね


ユダヤ教にも悪しき戒律が受け継がれているように
こちらも当時の習慣が創造主の名の下、
正当化されて残っているに過ぎないと思います。)


私達の人間としての器を考えれば、厳しい戒律を
誰もが同じように実践するのは無理があるというのが私の意見です。


創造主の戒律はその人間の進化に応じて私達に与えられ
私達もその自分のレベルに合わせて
それを実践していくことこそが無理がない。


資質の伴わない戒律は
私達の意識を魂に導くどころか
逆に心に囚われることの原因となりかねないのです。


私のような罪だらけの悪人は
分相応に無理することなく自分の進むべき道だけは
誤らないように一歩一歩前進していけば良いのだと思います。


生命の科学でアダムスキーが言っていたこと。。


私達には当初戒律は存在してはいない。
(宗教の様に戒律を持たせない)


ただ妄信することがあるとすれば、


自分の意識の経路として心だけではなくて
精神=魂と言う経路が存在しているのだと言うこと


更に私達の世界を作り上げた創造主が存在していると言うこと。


其の二つを
見えないけれども信じるところから
私達は始めて来ました。


そしてアダムスキーが言っていたように無理なく適度に。。


これは何よりも大切だと思います。


緊張は魂の意識を感じることを阻害します。


そして緊張を前提にしていては
長続きしないからでもあります。


しかし当初存在していなかった戒律は
人間としての道徳と良識を最初にどんどんと増え続け、


其の上に魂から創造主の意志として感じたことを
新たな戒律としては持つことで
私達は結果的に無限の戒律を持つことになります。


私達は創造主にそっくりな存在になるまで
転生を繰り返しながら魂の進化を続け、
この事を延々と繰り返していくことになるのです。


私達はまずは幼稚園に入学しましょう。


この地球社会の中での不毛の転生から抜け出してです。