続・宇宙の法則 番外編 善と悪という名の幻想 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

今年は台風の当たり年です。


HAARPがしばらく動いている気配がなかったから
それは自然現象に間違いない。。。


などとは考えないことです。


HAARP関連のグラフやサイトが
長期間揃って見れなくなっていたことは異常であり、
何らかの工作の意図を感じさせますし、

その間のデーターがあまりにも静かです。


日本のAEのグラフも
嘗てないぐらい穏やかな状態が続いていますし
今後は宇宙天気を反映させたグラフの表示が続く。。。


などという事もあり得ますのでご了承ください。


気象変動兵器はロシアも持っていますし


中国は米マインドコントロール兵器を認識したようです。


http://gangstalking-crime-databease.blogspot.jp/2010/10/blog-post_17.html


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最近一年間の記事へのリンクです。

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11260945743.html
必読記事リンク(洗脳・UFO・ケネディーとヨハネス23世など)
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11173905111.html
最新記事リンク 生命・精神VOL1(生命の科学、宇宙の法則・新約聖書)
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11280546053.html
最新記事リンク 生命・精神 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11173904597.html
最新記事リンク  陰謀・策略・被害
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10880060003.html
広報用のHAARP記事リンク

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私が朝鮮・部落と連発するので
今日は同和・部落日本人の熱心な信者
若しくは洗脳信者が集合している?


ユダヤ教徒なのか他の宗教(創価学会)なのかは不明です。


そして今日は面白いことに88NOの自動車だけではなくて
99NOが数多く集結していました。


8が二つ入っているNOは公安関係者に多いようです。


元々は公安が特定の人間を
監視する目的で8の重複するNOを利用していた名残が、
それを協力者が使用する流れになっているのだと想像していますが


99Noは別の意味があると思います。


フリーメーソン・ユダヤにとっては
”9”と言う数字は”完成されたもの”と言う意味もあり
一方で、私はそれを”悪魔の数字”と認識しています。


つまり”9”と言う数字が意味しているのは
”ユダヤ教徒””フリーメーソン会員”を意味する可能性が高いわけです。


例えば直のユダヤ教徒やその協力者達です。


今日は満月、彼らにしてみればサバトの儀式の日でもあります。


被害者やユダヤの敵対者はご注意くださいね。


ただ、フォローしておけば
今日外に出た時に集っていた人間達は


少数が敵意むき出し、
若しくは壊れているような人間でしたが


他の多数には悪意を感じませんでした。


結局は上の方の人間が関係者を騙しては
暴走させているのだと想像も出来ます。


おそらくは印象操作のために嘘をついてです。


それをやっているのがフリーメーソンなのか
創価学会なのかは不明です。


夕方になり電磁波工作員が変わったところで
一気に被害が激化しています。


昼間にもスーパーや外で見かけた
憎しみを増幅させているような
新しい工作員の協力の影響かもしれません。


彼らは私の実態も知りませんし
ユダヤの傀儡たちに容易に騙されるのでしょうね。


性器や脳への挑発の刺激も強化されています。

異物は一瞬で腸内に作り上げられているようです。


パソコンの前に座っていても
空気に薬品が混じってくるのが
微妙な味覚の違いで認識できますから。


創造主を否定する、
無神論社会を先導するような意識を持った人間の
書き込みを紹介します。
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78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/29(土) 00:11:33.20 ID


情報を探すのは終わりました。

マスター、グル、宗教、スピリチュアルな道、
道を照らす者の探求は終わりました。


もう私たちはこの幻想の一部に参加する必要はありません。


これ以上私たちは、神の探求、
幻想の所業に自分のエネルギーを費やす必要はありません。


マヤ歴の終わりを告げた、その日から、すべての宗教、神の探求、
スピリチュアルな道は終わりを告げます。

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スピリチュアルをオカルトで塗り固めて
一般市民に、スピリチャル=オカルトという意識を促し


私達が真理を知ることの妨害をしている人間達の
最終手段が発令?されたような気がします。


アセンションなどありませんし、
2012年12月22日にも何もないと思います。
(彼らが災害でも引き起こさなければです)


そして人々はオカルトは所詮オカルトであると認識し
多くの人間が宗教や思想から離れたとすれば


彼らの目的は完成します。


彼らは全ての人間に彼らの神を拝ませる
若しくは、全ての宗教を廃止させることが
その目的だと言われていました。


創造主ではなくて彼らにとっての神を信仰させ
彼らの価値観をその神の教えとして信仰させるか


若しくは現実認識や科学を万能として
目に見えるものに囚われるように誘導することで


左脳中心に思考する物質社会の完成を
目指していると言うのが私の推測です。


スピリチュアル、オカルトと普遍的真理は似て非なるもの。


今後の社会は無心論者と神の存在を意識する人間とに
二分することになるかもしれません。


私は創造主を意識できる人間を
組織や宗教の枠関係なしに、創造主の法へと導いていくことが
私達小さなキリスト(真理を語るもの)の役目だと感じています。


私達こそが覚醒の資質ある人間の
きっかけになり得るのです。


多くの人間が左脳や物質社会や心に囚われるその前に、
一人でも多くの人間をこの不毛なローテーションから
救い出すきっかけと成ってほしい。。


結局は生き方を決めるのも、意識のあり方を決めるのも
本人の自由意志です。


しかし彼らにその選択肢を示すことが出来るのは私達だけだと
危機感を感じてもらっても良いのではないでしょうか。


それは負の想念としてではなくて
私達の義務意識を強めるためのものとしてです。


地球の法則に騙されないためにも
私達は見えないものを見つめ、
因なるものを追及しなければなりません。


心と魂と言う意識を私達は自由意志で選択して
生きていると言う話と、


原因と結果の法則を正しく理解することから
勧めてあげて欲しいです。


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偉ぶった人間や、聖人ぶった人間が語っても、
間違いは間違いで


その影響を受けた人間にしてみれば、
無自覚であっても創造主の法、真理からかけ離れることになり
実質的な害を受ける事になりますし、


私のようなゴミが語っても真理は真理、
理解できる人間には魂の共鳴を与えることも
魂の意識を感じさせることも出来ると思います。


そしてそれは私達にとっては理解し自薦することで
改善につながる物だと確信しています。


大統領が語ろうが、教皇が語ろうがそれを信頼して実践することが
心のエゴの増幅につながるのであればそれは有害なだけですし


ホームレスが語ろうと犯罪者が語ろうと、
それを実践することで私達の精神が改善されるのであれば
それは真理だと言うことです。


自称聖人が語ろうが実行して悪影響を齎すものもあれば
自称悪人が語ろうが実行することで改善を齎すことになるものもあるのです。


それが理解できない、
神ではない人間をありがたく拝んでいるような人間、


つまりは著名人や講師や専門家
そして生きた神様を崇拝している人間達は
教えではなくて人間を拝んでいるのだと思います。


イエスキリストの意識では信仰は自分の内に求めるものです。


だからこそ外に信仰を求める偶像崇拝を批判したのです。


(外に想念を吐き出すのではなくて内なる魂の声を聞けと言うことです。

テレパシーで言えば送信するのではなくて受信しろと言うことになります)


そして創造主の教えを語る自分を信仰して欲しかったのではなくて


自分を信頼することをきっかけとして
創造主の法を実践して欲しかったというのが
イエスの真意だと思います。


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今回の記事は一部過去の知識の発展部分に関しては
説明を省略しています。


過去記事のリンクを添えておきますので
私の言っている言葉の意味が不能の時は
先に過去記事を読んでその内容を理解することで


私の真意が伝わると思います。


それなくして読んでも理解はできません。


覚醒者、理解者以外は先に基礎を理解して下さい。

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私達が分割を引き起こしたり、
対立を引き起こす原因の一つとなっているものが
実は”善””悪”の概念ではないかと考えています。


これは”善悪”が絶対的に把握できるものではなくて
その人間ごとに独自の価値観に依存する事になるということです。


生命の科学、創造主の法では
善と悪という概念は存在してはいませんでした。


創造主の意識にあるのは”正しいか正しくないか”と言うこと。。。


それは結果として齎される効果が、
創造主の意志に照らしてプラス効果なのか
そうではないのかと言うのが判断基準になってきます。


同じ行動でも、時によっては正しかったり誤っていたり、
その人に毎に、正しいとされたり誤りとされたりといった


危うい正否のボーダーラインにあるような
判断基準もあります。(リンク参照)


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11326078801.html
自らに最適な戒律を課す


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11319307709.html
血と肉と肉食と想念


道徳のような意識に関しては誰もに共通なものですが、


正しいことと正しくないことの間にある境界線は
とても微妙な時があるのです。


だからこそ天使達であっても過失を犯すことがあります。


それは結果として現れることにより
私達はそれを認識できることになりますが


創造主の意志を感じれば、
行動の後に罪悪感のようなイメージを感じることで
自分の行為の間違いを認識出来る事もあります。


その時には見た目の結果が良さそうであっても
実は長い目で見れば、それが誤りであるような場合もありますし


(目先の利益に囚われて行動し皆が小さな利益を得たように見えても、
実はその後になって皆に大きな不利益を齎すような場合)


間違っていそうな事でも長い目でみれば
全体の改善を図るような事もあります。


(その時には多くの人間が不快でも
将来的に何かの改善に繋がり皆に満足を齎すような場合)


目先の結果に拘ると、正しく評価できなくなる
正しい、正しくないという意識の判定は、
私達にとっての永遠の課題なのだと思います。


そしてそれを判断するために
行動しようとする度に魂を通じて創造主の意志を感じようと
勤めているのが天使達なのです。

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なぜに私達は物事を善と悪という二極化したものとして捉え、
それを行動や好き嫌いの判断基準としているのか?


この原因は言うまでもなく
私達が心の価値観に従っているからです。


同じ事象を認識しても、ある人にはそれが良い事であり
ある人にとってはそれは悪いことであると
異なった判断がされるのがその証拠です。


旱魃で農作物が枯れそうなときに雨が降れば
それを恵みの雨だと受け止めるでしょうが


遠足当日に雨が降れば、それを厄だと認識するのが
私達だからです。


この例からも判るように、
同じ現象であっても、ある人やある時には良い事で


別の人や別の時には良くない事と判断するのは
それを決めている主体としての自分の価値観があるからです。


雨に何の価値観を見出さない人間が居たとすれば
その現象を「雨が降っているな」と単純に受け止め、

そこには喜びも負の意識も齎されることはありません。


良し悪しの判断をしているのは
個々の人間の心の価値観だという事になります。


しかもそれは置かれている立場や
囚われているれている意識によって異なるものであることが判ります。


人間を見つめた時に、
誰もが良い人だと認めるような人間はいませんし
誰もに悪人だとされる人間も多くはないと思います。


私達は誰もが自分の中に判断基準を持っていて
その物差しで他人や現象を図るからこそ


同じ事象や対象となる人間に対してでも
その評価は各自異なることになるのです。


そしてこの事は私達が自分の中に既に
善と悪の価値観を持っていることに繋がっています。


ではその善悪の価値観を作り上げてきたのは
一体何かと言うことです。


それが生まれつき誰もが持たされているものでないことは
人それぞれ善と悪の基準が異なることからも明白です。


私達は自分が生活してきた環境の中から、
そして自分の体験の中から、

さらには培ってきた価値観に影響されながら


そのような判断基準を持つことになるのだと思います。


つまりは善と悪の判断基準は
私達個々の人間が心を持って作り上げてきた価値観に過ぎないと言うこと


そこには真理はないのです。


これは悪魔という概念一つとっても説明することが出来ます。


例えば、宗教関係者であれば
悪魔とは彼らにとっての敵対者であり、


彼らと対立する意識を持っている人間であったり、


彼らを今の思想や価値観から別の方向へ
誘導しようとする人間であったり、


彼らと一緒である事をやめようとしている人間に対して
持つことになる意識です。


つまりは悪魔と言うのは
彼らにとって心地良くない意志を実行している存在、


彼らの価値観を受け入れない存在ということになります。


私も怒ると組織的犯罪加害者達を
悪魔扱いしてしまうことがあります。


自分に対して不快な思いをさせてくる人間であり
自分とはおそらくは間逆の価値観を持っているであろう人間だという
意識が自分の中にあるために、


自称”父の元に帰ったつもり”の人間である私は
それを口に出して表現してしまうのです。


ただ、創造主の法では、
そんな相手をも批判するのではなくて理解すると言うのが正しく


それが時には実践出来なくなるところが、
私の不徳の致す所という事にもなります。


その上に怒りの意識を意図的に引き起こされる事を
強要されることも少なくないので


只でさえ小さな自分はその強制想念に
抵抗できなくなると言う実態もあるのですが。。


そして私達が悪魔と呼んでいる対象は
常に悪い事をしている存在ではないはずです。


常に悪くて悪事を働いているような悪魔は、
映画やSFの中に出てくる架空の存在であり


元々の悪魔というのは堕天使として表現される存在であり
本当の悪魔は人間だからです。


多くの人間に悪人と言われている人間がいたとしても
彼はいつも悪事を働いているわけではありません。


もしかしたら
仲間には親切で思いやりがあるのかもしれませんし、


転んだ子供を起こしてあげたり、
老人に席を譲ったりしているかもしれません。


ただ、私達が自分の心に囚われて
その価値観にばかり従うようになってしまっているとき。。。


エゴや欲望に囚われてそれに従って生きているような
状態に陥ったとき、


私達の意識は創造主の意識としての
魂の意志からかけ離れることになりますし、

それこそが私達が悪魔と化した時なのだと思います。


なぜならば悪魔とは神と対極の存在として
表現されるものだからです。


つまり魂からの意識とは対照的な心の意識に囚われている状態は

創造主の意識からかけ離れることですし、


その状態こそが悪魔と言われるにふさわしいのだと思います。


私達の発する想念が、
私達の負の意識を増幅させると言う話を繰り返しています。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329172018.html
続・宇宙の法則 VOL5 想念とオカルト
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11337381990.html
続・宇宙の法則 VOL8  引き寄せ・波動の法則と因果の法則


私達は発している想念と同様の想念を引き寄せると言う話は
地球の法則でも、引き寄せの法則、波動の法則として
紹介しているとおりです。


私達は小さな魔の意識を増幅することもある。


その結果、私達は負の想念に意識を奪われ
時には悪魔と化すのです。

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私達人間が善と悪の概念を持っている事の例えとして、


もしくは私達が創造主の意志ではなくて
心の意識に従って生きるようになっている事を例え話で触れているのが、

アダムとイブの逸話であると以前に記事で紹介しました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11027399873.html
原罪とイエスの救いと知恵の実と命の実
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11282307552.html
アダムとイブの逸話


聖書の創世記の記述では、
アダムとイブはもともとが裸で神の側で暮らしていました。


神はアダムとイブに
”知識の木の実”からはとって食べてはいけないと
伝えてあったのにも関わらず、


蛇に誘惑されたイブはそれを食べ
アダムにも勧めたという話は有名ですが、


これは私達が魂ではなくて心に従い
知恵と言う名の心の価値観を作り上げたことで


物事の善悪を自分の意志で判断することになったと言う
例えだと説明しました。


私達の本来あるべき理想の姿、
それは常に創造主の意志を魂で感じて生きること。


つまり創造主の側にいてその意志に従って生きることです。


しかし心の意志に従い、そこで善悪の判断基準を作り上げたことで
私達は何事をも自分の尺度で評価する様になったわけです。


この時に、アダムとイブが一番初めに感じた異変は、
裸の自分を恥じると言う意識でした。


元々、裸が恥ずかしいものであると言う概念を持たなければ
私達は裸であることを恥じる必要もないのです。


現にアマゾンの密林の奥に住んでいた人間達は
文明の影響を受けるまでは殆ど真っ裸で暮らしていました。


TVではモザイクをかけなくて良いのかと言うような場面も
昔は頻繁に見られたぐらいです。


アダムとイブは知恵によって恥ずかしいと言う概念を作り上げた。。。


心の価値観で恥と言う概念を作り上げそれを認識したわけです。


聖書の”知恵の木の実”が齎した物は、
人々の思考能力を高めたと言う効果ではないのです。


アダムスキーは
「その時アダムとイブが自分達を裁いたのだ」
説明してくれていました。


創造主の意志を意識してそれに従って生きていれば
持つことのなかった価値観を、彼らは持つにいたった。


もしもその状態で誤った価値観を持てば
それはそのまま自分の行動に跳ね返ることになるわけですし


その価値観が自分の行動だけでなくて
時には他人の事をも裁くことに繋がっていきます。


つまりそこでは善悪の基準が既に出来上がっていることになります。


そしてそれは決して良い事とはいえないのは
今まで説明してきたとおりです。


アダムとイブはその結果、エデンの園から追放されることになります。


このアダムとイブは、創造主の意志を感じれなくなったことで
創造主から離れることになった人間の象徴でもありますし、


おそらくは太陽系の他の惑星を追放された人間が
地球へと島流しにされた事の例えでもあると思います。


アダムとイブは堕天使の象徴でもあるのです。


本来は他の惑星で暮らしていて
私達が天使と読んでいたような人間達だったのが、


エゴに捉われ他の人間に悪影響を与えるようになり
地球と言う星に落とされた
そんな私達の遥か遠い祖先の象徴でもあるのです。


その結果、創造主は”命の木の実”
彼らが食べないように誘導することにもなります。


”命の木の実”は”永遠の命”の象徴です。


私達は創造主の分身である魂の意識に従うことで
記憶を持った転生を繰りかえす、つまり永遠の命を持つことになります。


しかし心に従いエゴに走ると、
私達は記憶を失った不毛の転生へと進むことになります。


そこには感じるべき永遠の意識はありません。


考えてみれば、もしも創造主の意識からかけ離れた人間が
記憶を持っての転生を繰り返し余計な知恵をつけるようになると


エゴをもった存在はエゴの意識を魂にまで反映させては生まれ変わり
次の生では更なるエゴに囚われて、


私達が悪魔と言っている架空の存在に
限りなく近いものになってしまうのかもしれません。


それを考えれば、創造主の意志からかけ離れた人間が、
転生ごとに心の価値観をリセットすることは


この世界を調和と進化で満たしたい創造主の意志に叶う物でしょうし、


創造主の意識からかけ離れた存在は
永遠には存在し続けることが出来ないと言う法則が
それを補強している結果になっていると思います。


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心が作り上げる善と悪の意識。


その根底にあるのは私達の心のエゴであり、
心が心地良いと感じることを望むその意識とも
無関係ではないはずです。


どこの社会のどんな環境であっても
この社会の中では誰もが仲良く争いなく暮らしているような状況は
存在してはいません。


時には数人程度の集まりであっても
その中で対立が起きますし、


好きと嫌いで分裂しては
派閥を作り上げることもあります。


そんな私達の行動の原因となっているのが
四つの感覚器官の存在とそれが作り上げた価値観のためであると
以前から繰り返し紹介しています。


私達の価値観を作り上げているのは


私達のおかれた環境であり


その環境での体験であり


そこで得た知識でありますが


それを直接認識することになるのは
私達の目であり鼻であり口であり耳です。
(触覚に関しては敢えて無視しています)


それらの感覚器官がそれぞれの役割として
認識した情報を私達に与え
それによって私達は独特の価値観を作り上げています。


困ったことに私達はその感覚器官の機能を
正しく使用出来てはいないようです。


時には先入観が、時には感覚器官の好き嫌いが、
私達の心とも言える脳機能が、


物事を正しく認識することを阻害しているからです。


本来この四つの感覚器官は
物事を深く認識するためにこそ
調和させて使用すべきだと言う話も説明しました。


長くなるのでここでは繰り返し詳細には触れませんが

この事に私達が心の暴走を止めるための
知恵が存在しているはずです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11249462489.html
生命の科学基礎講座 VOL4

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11238290494.html
小さきキリストへVOL2

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11261654508.html
幸せという名の幻想


で簡単に説明していますので絶対に読んで理解してください。


何かを体験するにしても
物を食べるような行為にしても、


その時の体験を深く認識し理解するためには、


四つの感覚器官を同時に
調和させながら使用することが大切だと
私達は生命の科学で学びました。


四つの感覚器は”理解する”ための器官でもあるのです。


現象を捉えた時にでも、その現象を正しく認識するには
これらの器官の働きが重要でした。


目で見て鼻で嗅いで、耳で聞いて、口で味わうことで
私達の現象の認識は深まるという事は
理解していただけると思います。


リンクで紹介した納豆やステーキの話がそれです。


しかし私達は


「見ているようで見てはいない
聞いているようで聞いてはいない。」


というイエスキリストが言っていた状況に置かれているのです。


つまり正しく見ることが出来ていない、
正しく聞くことが出来ていないと言うことで、


そこには私達の先入観の存在が、


”四つの感覚器官が物事を正しく認識する行為を
妨害している”と言う実態があるのです。


先入観を持って見つめれば、脳の認識する情報は
そこに現象として展開されている事そのままでは無くなることは


脳医学関係者であれば知っていて
説明もしてくれるはずです。


その時、脳が先入観で情報を捻じ曲げることになります。


私達は先入観や独自の価値観と言う尺度を持っているために
本来は白紙の状態で見つめるべき現象を色眼鏡を持って見つめ

そのために情報を正しく認識していないことになります。


これが一つ目の弊害です。


そしてもう一つの弊害は、
これら感覚器官にはそれぞれ自己主張が存在していて


それぞれが好きなことと嫌いな事を感じ取っては
それを私達の心に訴えかけ続けている事です。


私達はそれに行動をも左右されることになります。

この事も

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11249462489.html
生命の科学基礎講座 VOL4


を参考にして下さい。


結果、私達は感覚器が捉える対象を正しく認識するのではなくて
好きと嫌いで判断することにも繋がるのです。


それは創造主の意志には存在していない価値観であり
魂では認識できず心で認識することになる意識です。


好きと嫌いと言う分裂、
しいては心の心地良さの有無が更なる判断基準となって


その事が結果的に物事の良し悪しを決めている。


つまりは善と悪をも生み出していると言うことです。


私達は他人を裁いてはいけないと
イエスキリストとアダムスキーは触れていました。


しかし私達は、感覚器官と心とをもって
何事をも正しく理解しているのではなくて、
物事をも裁いている存在なのです。
(独自の価値観で評価うすると言うこと)


その結果、作り上げられた心の価値観にとって
不快なものは悪とされ、若しくは嫌われることになります。


嫌いなものを認識するたびに
心には不快感と言う負の想念が蔓延することにもなりますし


時にはそれが私達に混乱をもたらし、
その結果私達は創造主にすがると言う矛盾が起きています。


創造主の意志である魂の意識に従わないで
自分が心の価値観を持って作りあげた不快感を
今度は創造主に解消してくれと願うわけです。


私達は身勝手な存在だと言うことです。


勿論、私達が自分達の実態を理解できて居ないことが、
何よりも大きな弊害となっているのですが


私達はその事を認識する機会すら
手に入れるのが難しい環境で生きています。


私達、魂から創造主のささやきに導かれた人間は
幸運でもあるのです。(これも偶然ではないと思いますが)

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イエスキリストは
「罪人を導くためにこそ自分は居るのだ」
と言っていました。


創造主の法による導きを必要としているのは
善人ではなくて悪人だからです。


自分に罪がないとしている人間は
反省する必要もありませんし、自分は正しいのですから
導きを求めることもありません。


”悪人”と言えば聞こえも悪いでしょうが
文字通りの意味で私達が認識する”悪人”ではなくて


”創造主の意志とかけ離れた行為をしている人間”
つまりは”罪人”と呼んだほうが良いと思います。


”罪人”とは自分が罪を犯して生きていることを自覚できた人間です。


私達の社会では人間の作り上げた戒律が
創造主の戒律に取って代わっているために
罪人=法を犯したものと考えがちですが


イエスの言っていた罪人とは
創造主の意志に反した行いをしたもの
若しくはしている者という意味で、


それは道徳心を持っている人間が
持っている道徳心と異なった行いをすることも罪ですし

結局は心の持ち方となりそうです。


しかしこの社会の中で罪と認識できるのは
犯罪行為として認識できるものだけです。


その結果、実は自分が多くの罪を
犯し続けていることに気がついていないと言うのが
私達の実態です。


そして自分の行為が何もかも正しいと
思って生きているのが私達人間です。


誰もが自分が正しいと思っているからこそ
善と悪という基準を持つ事にも至っていると思います。


そこにあるのは自分の作り上げた価値基準としての
善であり悪です。


意識の中心に居るのは自分ですし
ジャッチするのも自分です。


もちろんそれは絶対的なものではありません。


そしてそれが人それぞれ異なるから
私達は対立する事にもなります。


私達の社会の中で、多くの人間が”悪人だ”と称する人間にも
善と悪の基準があると思います。


自分こそが正しいと考えている人間にとって、
価値観がかけ離れている人間はみな悪人に見えるでしょう。


心はそんな人間を”気に食わない”わけです。


もしかしたら私達が悪と捉える他人の立場と価値観では、
悪人は私達の方かも知れないわけです。


そして善と悪の基準は個人的な価値観のなせる業であり
真理とはいえない物です。


しかし現実社会では自分と同じ価値観
似たような価値観を持っている人間に惹かれ、
それに好意を持ったり、そんな人間を善と看做す事になるでしょう。


それは自分の心のエゴに
心地良さを与えてくれる存在だからです。


自分にお金や権力を与えてくれる人間がいれば、
お金や権力に拘る方はその人間を善人と評価するかもしれません。


少なくとも良い人だと認識するに違いありません。


一方では自分の心に不快感をもたらす存在は
その人間に嫌われますし、その人間にとっては悪なのです。


私達は現象だけではなくて
人間をも勝手に色眼鏡で見ては判断することになりますし


自分の心の価値観で評価し
心地良いものと不快なものとに区別しては

そこに善と悪、好きと嫌いを感じているのです。


そしてこれが人間同士を分割させている原因ですし
争いの原因であることも私達は学んできました。


しかし私達の社会は裁く事を止められません。


心に囚われた私達は、魂の意志である
”正しく理解する”と言う行為を苦手としているからです。


この混乱と争いの世の中でも、
覚醒者が集った空間では争いごとは激減すると
私は確信しています。


私達は心にばかり囚われることの弊害を理解していますし
魂の意志を感じることができるから、


そして心の意志を魂の意志に置き換えていくことが
出来るからです。


創造主の意志には争いや分裂の意識はないのですし
それを誘導するような意志もありません。


私達は何事も”理解”に置き換えるように
勤めることも出来るのです。


個人的エゴ、心の価値観が、


環境と経験と本能やエゴの自己主張が
中心になって作り上げてきたことを理解すれば


それに囚われる事の愚かさにも気がつきますし

私達はそれを意識して
創造主の法に従うことを実践することが出来ます。


善と悪は私達の心が主張するワガママでもある。


こんな結論では極端でしょうか。。


いずれにしても私達は心のメカニズムを理解することで
それを改善することも思い通りに動かすことも可能になる。。。


その事を理解して実践し、さらには広報する事を
私達の魂は求めていると思います。


一つでも多くの魂が覚醒するためのきっかけであり続けてください。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.


良い人はこんな人だと言う先入観も
私達は持っています。


うわべで何事も判断する私たちにしてみれば
見た目が温厚な事に越したことはありませんが、


心の中まで見通すことの出来ない私達は
他人の上辺で騙される事も少なくありません。


自分に優しくしてくれるからそれが良い人だと認識するのが私達で


時には自分の事を想って叱ってくれる親の事を
憎むのが私達の実態なのです。


私達は心の心地良さばかりを求めてはいけない。


それが心の価値観である限り
その心地良さは自分のエゴと欲と本能が作り上げたものだからです。


勿論、魂の価値観に従っての心地良さもあるのでしょうが
それは私達には容易には定義できないと思います。


それを感じているときに、「これがそうかな」と
感じる程度かもしれませんね。


私の想像では、私達でも体験できる
”他人が喜んでいる姿を見てそれを嬉しく想うような意識”は

同情とか理解と言う創造主の意志の延長だと思いますし


皆がそろってクリスマスやお正月を祝う意識は
一種の調和や平和を感じる意識のような気がします。


それが個人的・限定的なものであるか
そうではなく万人・万物に対するものなのかが


心の価値観なのか魂の価値観なのかと言う分類の
判断基準だと思います。


エゴを前提に良い人を定義すれば


・自分に利益を齎してくれる人


・表面上は人当たりが良い人


・自分と価値観が似ている人


・見た目が”視覚の価値観”に照らして心地良い人。


・自分のプライドを満たしてくれる人


・自分の思い通りになる人


指導者であれば


・自分が納得できる価値観を思想として語ってくれる人


ではないでしょうか。


例えばケチな人間よりも気前の良い人のほうが
好まれるのは当たり前ですが


極端に言えば、なけなしのお金でジュースを一本くれる人よりも
有り余ったお金でステーキをご馳走してくれる人のほうが
好ましいと感じてしまうのが私達の実態だと言うことです。


嫌いな人は上述の逆の人間ということになってくると思います。


それに憎しみが加わると対象を”悪魔”と表現することにも
つながるのだと思います。


最近いくつか良い記事が書けていると思いますので
ぜひ参考にしていただければ嬉しいです。


いつかイエスキリストのように
「私ではなく父が私の身をもって為しているのだ」


と言える記事を書いてみたいものです。


私は今は魂を感じて記事を書いているのではなくて、
もしかしたらある方々の想念を受け止めているのかもしれません。


今日の満月に向かって数日間、
私の記事は自分の納得できるものになっています。


いずれにしても私の記事は、
もしも参考になっても私の手柄ではありませんし
私は単なるきっかけだと言うことを忘れないで下さい。


皆は私を凌駕できるのです。


私を蔑める人間は嘘で真実を捻じ曲げ続けていますが、
私の記事はこじつけても陥れることは出来ないと思います。

私の書いた古いオカルト記事リンク

http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/f9717b75c33713d1e00414a80480a700
精神世界?・オカルト?リンク

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10337415562.html
コーヒーブレク  月のオカルト

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11365227921.html
地球の運命? プロローグ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11365229377.html
地球の運命? 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11364404299.html
指導者の導きと共に進化する
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11363884269.html
進化する天使の教えと逆行する地球環境
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362816099.html
続・宇宙の法則番外編 釈迦の教え
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362349983.html
進化した諸星メガネ
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アプローチの違い 仏教と覚醒
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361455669.html
アプローチの違い 仏教と覚醒 後書き
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11358661384.html
陰謀の主体を認識する
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10835864281.html
コーヒーブレイク  アメリカのハイテク兵器
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11360311709.html
お知らせと カバラ災害情報

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html

続・宇宙の法則 VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11324048053.html
続・宇宙の法則 VOL2 輪廻と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328167085.html
続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328374408.html
続・宇宙の法則 VOL4   心とエゴ