「松本城に姫がいる」

と、最近話題になっております(・ω・)ノ



非公式ですが「登久姫」様でございます♡

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演じていらっしゃるのは、和装アーティストの成来姫です(((o(*゚▽゚*)o)))




うさ吉、

成来姫が登久姫を教えてくれなかったら、

小笠原秀政の奥さんの名前を知らずにいたと思います( ̄◇ ̄;)

ありがとうございます、成来姫(((o(*゚▽゚*)o)))




そんな訳で。

登久姫にまつわるお話をご紹介しています。






今回は、登久姫のお父さんの悲劇です。


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徳川信康 自刃事件




徳川家康の長男・竹千代は、永禄2年(1559年)駿府で生まれました。

今川家の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、桶狭間の合戦の後、

のちに、松本城初代城主となる石川数正の決死の交渉より、人質交換が成立し岡崎城に移りました。


永禄5年(1562年)家康と織田信長による清洲同盟が成立すると、

永禄10年(1567年)5月、同じく9歳の信長の娘である徳姫と結婚しました。


元服した時、信長より「」の字を、父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて、信康と名乗り、

元亀元年(1570年)正式に岡崎城主となったので、岡崎信康とも呼ばれていました。


とても勇猛果敢な青年で、わずか14歳でありながら、桶狭間の合戦などで多くの手柄を上げました。


ところが、勇猛果敢な若者も、城へ帰れば、妻と実母との関係に頭を悩ませていました。


信長の娘である徳姫は、織田と徳川が滅ぼした今川家の出身である姑・築山殿との折り合いが悪く、

信康とも仲が良くありませんでした。


徳姫は、天正7年(1579年)、

父・信長に対してこんな手紙を書きました。


  • 『1、築山殿は、信康様に告げ口をして、私と信康様との仲を裂こうとします。

  • 2、築山殿は、女の子を二人産んだ私の事を「役立たず」と言って殴ます。

  • 3、築山殿は、岡崎城内の豪華な邸宅で贅沢三昧しています。

  • 4、築山殿は、甲州の唐人医師・減敬(げんきょう)と浮気しています。

  • 5、築山殿は、武田勝頼に織田と徳川の両家を滅ぼして欲しいと言っております。

  • 6、築山殿は、両家が滅んだ後は、私を武田の家臣の妻にして、と頼んでいました。

  • そして、武田から、小山田という家臣が妻とする証文が送られてきました。


7、近頃、岡崎城下で踊りが流行ってるのは信康が悪いからです。

  • 信康は、踊りが好きなので、衣装のよろしくない者や、踊りの下手な者を弓矢で射ころすのです。


  • 8、信康は、鷹狩で獲物がなかったため不機嫌になり、通りがかった僧侶を縛り上げ、馬で引き、なぶりころしました。


  • 9、信康は、私の侍女を「おしゃべり女」と言って口を裂いてころしました』


  • (12か条の弾劾と言われる手紙です。
  • 現在では、九つの弾劾内容しか見つかっていない、という説と。
  • 6と7を二つに分けて11として、あと一つがわからないという説がありました)


この凄まじい内容に、信長は使者に真偽を問いましたが、使者は信康をかばうことをせず、すべてを事実と認めてしまいました。

そして信長は、真偽を問う事もなく、家康に信康の切腹を要求したのです。


徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もありました。


でも、家康は、

「徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、

信長の怒りを反らすことは出来ない」と言い、信康の処断を決断してしまうのです。


天正7年(1579年)8月3日。

家康が岡崎城に訪れ、翌日、信康は大浜城に移され。

その後、信康は遠江の堀江城、二俣城(浜松市)と移され…9月15日に家康の命により切腹させられました。


享年21(満20歳没)。


介錯人は服部正成(服部半蔵)でしたが、

正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、

検死の武士が介錯にあたりました。


信康の首は信長の元に送られ…

その後、

幼い頃からの後見人だった石川数正によって、岡崎城の若宮八幡宮に葬られました。


そして。

家康が天下を取った時。


徳川信康という名前は、

「徳川の名字は、跡取りと、御三家しか使えない」と、家康が決めたので、

御三家ではない信康は、

松平信康と史実に記載されるようになりました。



登久姫は妹とともに家康が引き取り。

正室であった徳姫は、美濃の国の、兄の元へ戻りました…

徳姫は、浅はかな手紙を送ったため、将軍の正室という座をなくしてしまいました。


ーーー・ーーー・ーーー

この事件…とても、ミステリアスな事件だったようです。

徳川家の歴史の中でも、かなり改竄されている可能性があるのだそうです。


史実に載せられない事実とは、なんだったのでしょうか?


でも、この事件の裏で、登久姫たちがどんなに寂しくて辛いしたのかと想像すると、

涙が止まりません…


つづく。


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