永禄5年(1562年)家康と織田信長による清洲同盟が成立すると、
永禄10年(1567年)5月、同じく9歳の信長の娘である徳姫と結婚しました。
元服した時、信長より「信」の字を、父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて、信康と名乗り、
元亀元年(1570年)正式に岡崎城主となったので、岡崎信康とも呼ばれていました。
とても勇猛果敢な青年で、わずか14歳でありながら、桶狭間の合戦などで多くの手柄を上げました。
ところが、勇猛果敢な若者も、城へ帰れば、妻と実母との関係に頭を悩ませていました。
信長の娘である徳姫は、織田と徳川が滅ぼした今川家の出身である姑・築山殿との折り合いが悪く、
信康とも仲が良くありませんでした。
徳姫は、天正7年(1579年)、
父・信長に対してこんな手紙を書きました。
- 『1、築山殿は、信康様に告げ口をして、私と信康様との仲を裂こうとします。
- 2、築山殿は、女の子を二人産んだ私の事を「役立たず」と言って殴ます。
- 3、築山殿は、岡崎城内の豪華な邸宅で贅沢三昧しています。
- 4、築山殿は、甲州の唐人医師・減敬(げんきょう)と浮気しています。
- 5、築山殿は、武田勝頼に織田と徳川の両家を滅ぼして欲しいと言っております。
- 6、築山殿は、両家が滅んだ後は、私を武田の家臣の妻にして、と頼んでいました。
- そして、武田から、小山田という家臣が妻とする証文が送られてきました。
- 信康は、踊りが好きなので、衣装のよろしくない者や、踊りの下手な者を弓矢で射ころすのです。
- 8、信康は、鷹狩で獲物がなかったため不機嫌になり、通りがかった僧侶を縛り上げ、馬で引き、なぶりころしました。
- 9、信康は、私の侍女を「おしゃべり女」と言って口を裂いてころしました』
- (12か条の弾劾と言われる手紙です。
- 現在では、九つの弾劾内容しか見つかっていない、という説と。
- 6と7を二つに分けて11として、あと一つがわからないという説がありました)
この凄まじい内容に、信長は使者に真偽を問いましたが、使者は信康をかばうことをせず、すべてを事実と認めてしまいました。
そして信長は、真偽を問う事もなく、家康に信康の切腹を要求したのです。
徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もありました。
でも、家康は、
「徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、
信長の怒りを反らすことは出来ない」と言い、信康の処断を決断してしまうのです。
天正7年(1579年)8月3日。
家康が岡崎城に訪れ、翌日、信康は大浜城に移され。
その後、信康は遠江の堀江城、二俣城(浜松市)と移され…9月15日に家康の命により切腹させられました。
享年21(満20歳没)。
介錯人は服部正成(服部半蔵)でしたが、
正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、
検死の武士が介錯にあたりました。
信康の首は信長の元に送られ…
その後、
幼い頃からの後見人だった石川数正によって、岡崎城の若宮八幡宮に葬られました。
そして。
家康が天下を取った時。
徳川信康という名前は、
「徳川の名字は、跡取りと、御三家しか使えない」と、家康が決めたので、
御三家ではない信康は、
松平信康と史実に記載されるようになりました。
登久姫は妹とともに家康が引き取り。
正室であった徳姫は、美濃の国の、兄の元へ戻りました…
徳姫は、浅はかな手紙を送ったため、将軍の正室という座をなくしてしまいました。
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この事件…とても、ミステリアスな事件だったようです。
徳川家の歴史の中でも、かなり改竄されている可能性があるのだそうです。
史実に載せられない事実とは、なんだったのでしょうか?
でも、この事件の裏で、登久姫たちがどんなに寂しくて辛いしたのかと想像すると、
涙が止まりません…
つづく。
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