只今、西遊記のモデルとなった玄奘三蔵の旅をご紹介しております(・ω・)ノ




陳褘(チンイ)こと、玄奘三蔵(602~664)。


なんと!



色白で。


美男子で、

秀才。





ただし、大柄…




…だったそうです( ̄▽ ̄)



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⬆︎美男子…な、玄奘三蔵…





13才で出家し、仏教を学びましたが満足できず、

国禁を犯して27才でインド留学へと向かいます。


それは命がけの取経の旅でした。




ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、パミール高原、カラコルム峠を越え、やっとの思いでインドの仏教大学ナーランダに到着。


長安出発のときにいた40人の同行者は、途中の猛獣・山崩れ・急流などで死者が続出し、

2年後には、玄奘ただ1人になっていたという、苛酷な旅でした。


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さて。

偉人といわれる人には色々な伝説が残っていますが、玄奘にも、もちろん! あります。






玄奘三蔵と般若心経




玄奘三蔵が弟子たちを連れて長安をたった、旅の始めの頃。

ある寺に立ち寄った時のことでした。



インドから来た老僧がハンセン病で苦しんでいました。



寺の者や、玄奘の弟子たちは、病僧の姿と、

自分も移るのではないかという恐怖のために、皆逃げだし。

老僧は1人で病床に伏せていました。


玄奘は病僧の苦しむ姿を大変切なく思い、手厚く看病しました。

薬をすすめ、食事など一切の世話をしました。



このインド僧はお礼にと、1巻の経典を玄奘に授けました。

サンスクリット語で書かれていたため、内容は全くわかりませんでしたが、


玄奘は大層喜んで、この経典を道中のお守りとし、懐にしまい、大切にしました。



その後、旅の途中の難儀で、弟子たちの全てを亡くし、玄奘が独りでインドのナーランダ寺に着くと、

玄奘が看病した病僧がそこにいました。



驚く玄奘にその僧は、

『よくぞ、たどり着いた。

われは観世音菩薩なり』

と微笑み告げて、空に消え去ったそうです。



玄奘帰国後、この経典を漢訳したのが現在の「般若心経」です。



長い旅の中でたくさんの苦難を乗り越え。

玄奘三蔵ただ一人が生き残ってインドにたどり着いたのは、懐に入れていた般若心経のおかげと言われており。

般若心経が、旅行のお守りのお経ともいわれる所以です。



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ハンセン病は日本でいうライ病のことです。

今は、感染力が弱い事や、感染源や感染経路がわかり、治療法や治療薬も確立しています。

しかし、六世紀だけでなく、ごく最近まで大変に恐れられ、差別の対象となっていた病気でした。


重篤な状態になると、皮膚がかなり変化し、恐ろしい面相になる事があったからです。

また、重篤な状態になると、感染する確率が高くなるのです。



しかも、痛くも痒くもないのに、皮膚がどんどん変化して行き、

死亡率7%という低さのため、異形な姿のまま、生き続けることになるので…




なので、皆、ハンセン病を恐れていました。





そんな病人を、心優しい聖人・玄奘三蔵が放っておけるはずないです。


そして、彼が介抱した病僧は実は観音菩薩。



世界中に似た話はありますけど、なんだかとても、ありがたい感じがします(^ ^)





でも、般若心経が旅行のお守りとは、知りませんでした。



勉強になりました(・ω・)ノ







つづく。











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