梁山泊

梁山泊

世は乱れ、民は苦しみ、日本も世界も荒れている。こんな時代に必要なこと、それは英雄豪傑が立ち上がること、そして絆を結び、友情を築き、個性と長所を発揮して、一致団結して弱点と短所を補い合って戦うこと。英雄豪傑を出でよ。

                     <与国よりメッセージ>


世は乱れ 民は苦しみ


日本も世界も荒れ果てている・・・


こんな乱世に必要なこと


それは


英雄豪傑が立ち上がること


そして絆を結び


友情を築き


一人一人が個性と長所を発揮して


一致団結して


互いに思いやり、労わり合い


弱点と短所を補い合って


世の悪と戦うこと


英雄豪傑を出でよ


今こそ結集せよ


兄弟は無数にいる


魂の友が待っている


民が、国が、天が泣いている


水滸伝テーマ曲『兄弟無数』



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特攻隊の本当の意味

 内には憂う問題があり、外には困難な患いがある、これを「内憂外患」と言います。日本国内は荒れ狂い、国外に目を向ければ、中国の覇権主義のみならず、中東における宗教紛争は、一つ間違えれば大きな大戦争になりかねません。

 こんな時代だからこそ、私たち日本人は、思い出さなければならないことがあります。

 それは「特攻精神」です。

 実は第二次大戦中、当時の米国、英国、ロシア、中国には、「日本を分割統治」する案までありました。ですから日本人もハワイの人々のように、国を完全に失ってしまう可能性が確かにあったのです。

 しかし、「もしも日本を分割統治すれば、日本の侍たちによる反乱が起こり続けて、双方に甚大な被害が出続けて、結果的には『不可能である』」と考えられて、この「日本分割統治案」は無くなったと云われています。

 その最大要因こそが、「侍精神・大和魂」であり、また「神風特攻隊」であると云えるでしょう。

 「死」というものに対して、「美学」さえ持ち合わせて、「潔く死ぬ」ことにこだわった侍たち、そんな彼らだからこそ、先の大戦において戦局が悪くなると、神風特攻隊が生み出されたのです。

 確認されている特攻隊員は14,009名です。

 和多志たち人間という生き物は、創造力の欠如からなのか、「一万人」とという言葉を聞くと、何かぼんやりと捉えてしまいがちです。しかし一万人の泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだり、落ち込んだり、嬉しくなったりする人生があったわけです。そしてたしかに14,009名分の人生が、日本のために、自分から幕を閉じられたのです。

 「分割統治安」を退けた「特攻攻撃」ですが、実は「特攻攻撃」には、別の意味も含まれておりました。

 1944年の十月、つまり日本の敗戦が決まる前年、航空艦隊の司令長官を務めている大西瀧次郎という人物は、軍需省で務める多田という人物に、「特攻攻撃」の構想について話しました。すると多田氏が、「あまり賛成しない」と述べると、大西司令長官は次のように述べたそうです。

 

 たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う。

『日本海軍航空史(1)用兵編』

 

 大西瀧次郎、この人物こそが、「特攻隊の父」であり、そして彼が特攻構想を展開したその理由の一つに、「子孫に残す」ということがあったのです。すなわち「特攻隊」というのは、「子孫である我々に残す」という大目的もあったのです。これを裏付けるように、『毎日新聞』の記者で、海軍に従軍していた新名丈夫という方の証言もあります。

 

 大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。

 戦争は負けるかもししれない。

 しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。

 われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していた。

『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16~20年』

 

 多田氏と新名氏の二人が残した証言から分かるように、「日本分割案」さえ考えられている先の大戦において、特攻隊の父・大西瀧次郎氏が、特攻攻撃に求めたものは、そうした戦果だけではありませんでした。後世の人々に、自分たち先祖が、いかに勇敢に、しかも潔く戦ったかということを、魂に記憶してもらうこと、それが特攻隊に込められた、もう一つの大目的であったのです。

 特攻隊、これは言わば、「日本民族の記憶遺産」を残すことによって、日本の未来を子孫に託すことでもあったわけです。

 ですから今を生きる私たちは、託されたのです。そして託されたのだからこそ、「内憂外患」の今、私たち子孫は、「特攻攻撃」に目を向ける必要があるのです。

 

 

ある特攻隊員

 特攻隊員の一人に、穴沢利夫少尉という方がおられました。

 穴沢氏は、幼い頃から読書好きで、夢は故郷に児童図書館を作ることだったそうです。そうしたことから彼は、文部省の図書館講習所を卒業し、そして中央大学に進学しました。彼はお茶ノ水の東京医科歯科大学の図書館で働きながら勉強しました。

 その図書館に、昭和16年の夏、図書館講習所の後輩たちが実習にやってきました。そこで彼は運命の出会いをします。それは孫田智恵子さんという女性でした。

 二人の交際は、昭和16年の暮れ頃から始まりました。学生の男女が付き合うことを、「はしたない」とされた時代であったために、二人の交際は大半が手紙でした。

 やがて二人は結婚を望みます。しかし穴沢氏の兄は、都会の娘である智恵子さんとの結婚に反対しました。そしてその兄の意見に引きずられる形で、両親までも二人の結婚に反対するのです。

 戦争の真っ只中であったために、穴沢氏は「戦時特例法」によって、大学を繰り上げ卒業し、そして熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入隊しました。

 昭和20年3月8日、穴沢氏は自分が属する隊の隊長から、特別休暇をもらって帰郷し、そして結婚に反対していた両親を説得します。そしてようやく彼は、智恵子さんとの結婚の許可を得たのです。大喜びした穴沢氏は、翌3月9日に、さっそく東京の智恵子さんの家を訪ねて、その報告をしました。

 そしてようやく結婚が決まったその日、彼は目黒にある親戚の家に泊まっていました。しかし何とも皮肉なことに、翌日の3月10日は、死者を10万人以上だし、東京の3分の1を焼き尽くした、あの歴史上悪名高き「東京大空襲」の日でした。

 当時、民間人への軍事攻撃は国際法違反でしたが、米軍は焼夷弾の雨を東京中に降らせ、町中いたるところが火事となり、死傷者が町中に溢れかえる大惨事となりました。

 穴沢氏は、婚約者の安否を心配して、まだ夜が明けきらないうちに親戚の家を飛び出して、彼女の実家へと向かいました。ちょうど同じ時、彼女も彼の身を案じて、目黒に向かいました。携帯電話の無い時代ですから、会えるかどうか確信などなく、ただ、ただ、愛する人の身を案じて、二人の若者を、激しい戦火の東京の街を走らせました。

 奇跡が起こります。二人は奇跡的に、大鳥神社のあたりでバッタリと出会い、どうにか互いの生を確認できました。しかし穴沢氏は、すぐに大宮の飛行場に帰らなければなりませんでした。

 そのために彼は、彼女と共に電車に乗りこみました。しかし電車は、空襲のあとで避難する人々で溢れかえり、あまりの混雑の息苦しさに、智恵子さんは池袋駅で電車を降りてしまいました。

 これが二人の最後の別れとなりました。

 それから一ヵ月後、彼女の元に穴沢氏から手紙が届きました。以下がその手紙です。

 

 二人で力を合わせて努めて来たが、終に実を結ばずに終わった。

 希望を持ちながらも、心の一隅(いちぐう)であんなにも恐れていた〝時期を失する〟と言うことが実現してしまったのである。

 去年十日、楽しみの日を胸に描きながら、池袋の駅で別れたのであったのだが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く情況は急転した。

 発信は当分禁止された。(勿論、今は解除)

 転々と処を変えつつ、多忙な毎日を送った。

 そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。

~中略~

 今は、いたずらに過去における長い交際のあとをたどりたくない。

問題は今後にあるのだから。

 常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。

 しかし、それとは別個に、婚約をしてあった男子として、散って行く男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。

「あなたの幸を希う以外なにもない」

「勇気を持って、過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」

「あなたは、今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の中には、もう存在しない」

極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起(せいき)する具体的な場面々々(ばめんばめん)に活かしてくれる様、自分勝手な、一方的な言葉ではないつもりである。

 純客観的な立場に立って言うのである。

 当地は既に桜も散り果てた。

大好きな嫩葉の侯がここへは直きに訪れることだろう。

今更、何を言うか、自分でも考えるが、ちょっぴり慾を言ってみたい。

1 読みたい本

  万葉、句集、道程、一点鐘、故郷

2 観たい画

  ラアフェル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」

3 智恵子、会ひたい、話したい、無性に。

 今後は明るく朗らかに。

 自分も負けずに朗らかに笑って征く。

昭和20年4月12日

智恵子様

福島県出身 中央大学卒

陸軍特別操縦見習士官1期

陸軍特別攻撃隊 第20振武隊

昭和20年4月12日沖縄周辺洋上にて戦死 23歳


 穴沢氏の特攻の日と手紙の日付は同じですから、この手紙は死の直前に書かれたものです。

 智恵子さんは、「いつも一緒にいたい」との想いから、自分が巻いていたマフラーを彼に贈っていました。どうやら穴沢氏は、そのマフラーを巻いて出撃されたようです。一番手前で、左手には日本刀を持つ侍が穴沢氏ですが、一人だけ首の部分に何か巻いているのが分かります。

 「神風特攻隊」という言葉を聞くと、暴力的にとらえてしまい、已むに已まれず特攻を行った侍を、まるで「狂人」か何かのように考えてしまう人もいるかもしれません。しかし、こうした自分をかなぐり捨てて戦う日本男児の不撓不屈の侍精神を見せつけることによって、『日本分割案』は消し飛んだのであり、そしてその特攻攻撃は、現代に生きる我々子孫に、「日本の未来を託す」という大きな意味が込められていたのです。

 真の侍にとって重要なことは、最後の決意です。

 豪華客船タイタニック号よりも巨大な戦艦『大和』、この戦艦『大和』には、様々なことが言われておりますが、しかし確かに言えることとして、「特攻精神」によって、沖縄県民を助けに行くために、救出に向かいました。あの時、戦艦『大和』の一室の黒板には、こう書かれてありました。

 総員、死に方、用意

 

 もう一度、言います。「特攻攻撃」は日本を守るのみならず、子孫である我々の「魂の記憶」に残すためにも行われたのです。

 

撫子たちの戦い

 特攻精神を持っていたのは、何も男たちだけではなく、女性たちも例外ではなありませんでした。

 先の大戦において、激しい戦場となった沖縄では、「ひめゆり学徒」、「白梅学徒」として、女学生まで兵隊の看護にあたり、戦闘に参加しました。この「沖縄戦」では、2万人以上の米兵が、PTSD、「戦争トラウマ」になりました。侍精神が強すぎたのです。

 そして本土の女性たちも戦っていました。

 藤井一少佐という侍は、陸軍飛行学校において、「真の侍たる軍人とは如何なるものか」と、武士道について教えていました。そして敗戦色が濃くなり、なんとしても日本を護り抜かんとして、特攻隊の神風が吹き荒れると、彼も特攻隊に志願したのです。なぜなら彼自身が、「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、和多志も必ず行くから」と生徒たちに侍精神を教えて、教え子たちと堅い約束を交わしていたからです。

 しかし彼には「妻子がいたこと」、彼が「長男であったこと」、そして彼自身が「パイロットではなかったこと」、これらの理由から、彼の特攻志願は二度にも渡って却下されました。

 藤井少佐は、仲間たちとの約束を破り、すでにこの世を去った仲間を裏切ることに耐えられず、自分が特攻隊になれないこと、侍として死ねないことに対して、悩み苦しみ続けました。

 そうした彼の苦しむ心を理解した妻・福子さんは、幼い二人の子どもを背負い、「一足お先に逝って待っています」と手紙を残して、荒川に入水自殺したのです。

 こうした経緯によって、彼の三度目の特攻隊の志願は、ようやく受け入れられました。

 死出の旅に出る藤井氏を囲んで、送別会が開かれましたが、参加した人々は皆、彼を気遣って誰も福子さんや子どもたちのことを口にする者はいませんでした。しかしけっして悲しい雰囲気でもなく、むしろ笑顔で、さわやかに、酒が酌みかわされたそうです。

 これと似た話が、『古事記』や『日本書紀』の神話にもあります。神代の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国に攻め入る時に、海の神が暴れて、波が荒れ狂い、船が危険にさらされました。その時、弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投げて、海神を鎮め、波を静めたのです。

 このように国の益荒男たちは、神話の時代よりずっと、強く美しい大和撫子たちによって支えられてきたわけです。

 1945年、敗戦が決まった翌日の同年8月16日、特攻の父・大西瀧治郎氏は割腹自殺して、仲間たちのもとに還りました。彼は遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、そして特攻隊員とその遺族に謝罪しています。

 

 特攻隊の英霊に

 

 

(もうす・まおす)す(神々などに使われる謙遜語)。

 善く戦ひたり

 

 

(しん)

 

 

(しゃ)す。 

 最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり、

 

 

(しかれ)れ共、

 

 

()の信念は遂に達成し得ざるに至れり。

 吾、死を

 

 

(もっ)て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす。

 

 また、大西氏はさらに次のように言葉を綴っています。

 諸子は國の寶(宝)なり。

 平時に處し(対処する)、

 

 

()

 

 

()

 

 

()く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡(つく)せよ。

 

 

無関心と間違った忍耐をやめるべき

 わたしは、日本の最大の敵は「無関心」と「間違った忍耐」にあると思います。

 「日本人」と「無関心」ということについて、かつてマザー・テレサは、日本にやって来て、こう述べました。

「日本は貧しい国です」と。

 インドのスラム街からやって来た一人の聖女が、「経済大国」と云われ、世界でもGDPでベスト3に入る日本を見て、「貧しい」と言ったわけです。

 それは当然のことながら、日本の経済や物質的なことではなく、精神のことであり、心のことです。

 「愛の反対は無関心です」と、そう言って(はばか)らなかったマザー・テレサ、その彼女が日本を「貧しい」と言った、これらのことからも分かるように、日本の最大の敵の一つは「無関心」です。

 すでに述べたように、今の日本では1日に300人もの人間が自殺し、今後、その人数が1日に千人に増える可能性があります。

 考えてもみてください。電車に乗り、バスに乗れば、かならず誰が隣に座ったり、隣で携帯電話をいじったりしています。また町を歩き、スーパーに行けば、名も知らず、顔も知らない人が通り過ぎていきます。それらの人がどこに向かい、どんな人生を生き、どんな夢を持ち、どんな悩みを持っているか、それは定かではありません。

 その自ら命を断つ人は、今日、電車で隣にいた名前の知らない人かもしれないし、あるいは小学校や中学校などで出会っていて、名前の知っている人かもしれないし、それは定かではありません。

 しかしたしかにそうした日本の誰かが、1日に300人も自ら命を断ち、その誰かはの数は今後、たしかに増えていく悲しき可能性があるのです。

 一言で、「1日300人、年間10万人」と口にするのは簡単なことです。しかしその1日300人、年間10万人の人々には、それぞれの人生ドラマが、300人分、10万人分もあるのです。

 自ら命を断つ人が、最後に何を想うのか、それは定かではありません。小学校の遠足の思い出か、中学校の修学旅行の思い出か、高校の初デートの思い出か、あるいは小さい頃に、両親に連れられていった動物園や遊園地の思い出か、それは定かではありません。もしかしたら苦しみや悩みに七転八倒していて、何も思い出さないのかもしれません。

 しかしたしかに言えることが、和多志たちと同じ言葉を話し、同じようなものを食べて、同じようなものを見て育ったすぐ近くにいる隣人が、1日300人、年間で10万人も自殺しているのです。

 そして「愛の反対は無関心である」と言って憚らなかったマザー・テレサが、「日本は貧しい国」と述べたように、今、和多志たち日本人は、この悲しき現実に対して、「無関心」になっているのです。

 だから和多志は強く訴えているのです。

 和多志たちは「無関心」をやめなければなりません。

 そして何度も、何度も述べますが、和多志たちが意識を変えて、無関心をやめて、政治に真剣に取り組んでいく時、日本はお金では悩まない時代に突入することができるのです。そういった意味では、日本人は自殺する隣人に対する無関心のみならず、政治や経済に対する無関心をもやめてなければならないのです。

 なぜなら今から百年ほど昔の1930年、経済学者のジョン・メイナード・ケインズという方は、『孫の世代の経済的可能性』という論文の中で、次のようなことを述べていたからです。

「およそ100年後には、ほとんどの経済的問題

 

 

(・・・・・)は解決されてしまい、人々の悩みは余暇をどのように使うか、ということになるだろう。」

 

 「余暇をどのように使うかに頭を悩ませる」、これはつまり「時間をいかに使うかが悩みになる」ということであります。それは「人生の悩みが、お金のような物質的なものからは解放されて、人々の悩みは精神的なものへと変わっていく」、ということです。

  「信じられない」、そう言いたくなるかもしれませんが、本当に和多志たちが意識を変えて、「無関心」をやめて、「間違った忍耐」をやめていけば、和多志たち自身が「お金の苦しみ」から解放されていきます。

 しかし逆に、和多志たち日本人が、このまま「無関心」を続けて、そして「間違った忍耐」を続けていけば、年間の自殺者は10万人から、20万人、30万人と増えてしまうことでしょう。

 それはつまり、ある意味において、あくまでもある意味において、和多志たちがこのまま「無関心」を続けて、「間違った忍耐」を続けていけば、和多志たちが隣の誰かを死なせてしまうことになり、それは過激な表現を使えば、和多志たちが誰かのことを「無関心」と「間違った忍耐」によって、知らぬ間に殺してしまっているのかもしれません。

 和多志たちは「無関心殺人」という罪を重ねることを、やめるべきなのです。

 いや、むしろ和多志は、自らをこそ殺す中に、真実の生き方があるのではないかと考えます。

 戦前まで、日本人が持っていた侍精神、この精神を人々に授けていたのは、「武士道」という教育でした。

 そして「武士道」というものは、日本の神道、中国で始まった儒教、仏教で興った仏教、これらの神儒仏が融和することによって完成したものです。神道が日本人に「神仏への信仰心」と「和の心」を教えました。儒教が「人間が生きるべき指針」、「人としての生き方」を教え、仏教が「転生輪廻を始めとする生命観」、すなわち「霊的人生観」、「悟り」を与え、こうして侍精神というものが人々に授けられていたのです。

 この中でも、儒教には「殺身成仁」、すなわち「己の身を殺して仁を成す」という考え方があります。自分を犠牲にしてでも仁を成し遂げていく、それが侍精神です。そしてこの儒教より授かった精神を、より強くしていたものが、神道が日本人に授けた神仏への信仰心であり、さらには仏教が日本人に与えていた「霊的人生観」であり、「悟り」であったのです。

 ですから和多志たち日本人は今、「無関心」となり、「間違った忍耐」を続けて、他人を殺すのではなく、むしろ武士道・侍精神を取り戻して、自己犠牲の精神を思い出して、重くて厚い時代の扉を開けていくべきなのです。