きのうは初七日だった。
思えば1週間前に父から電話で危篤の知らせを受けて、
東京から沖縄に急いで帰ってきたんだっけ。。。
あまりにもいろんな出来事がありすぎて。
それに伴う感情の浮き沈みも激しくて。
1週間がほんの数日にしか感じられない (^.^;
沖縄の現在の葬儀の形は、
本来の風習と本州から入り込んだものとがミクスチャーされたものになっている。
「ちゃんぷるー」に代表されるうちなーんちゅの絶妙な感性は、
古いものに新しいものを取り入れるのを得意とするけれど、
葬儀にもその精神は発揮されているのだ!
昔は人が亡くなると、ユタがすべてを取り仕切っていた。
村の男みんなで集まって棺桶をつくり、女達は縫い物をし、
ユタの指示で一つ一つ、みんなでつくってあの世に送り出していた。
ところが数十年前あたりから、
見た目に立派な仏教の形式による葬儀を求める人々が増え始め、
現在ではユタの出番はすっかり失われている。
とはいえ、ちゃんとした仏教の形式にすり替わったのではなく、
人々の記憶に残る昔ながらのやり方も残っていて、
ちゃんとしたやり方を知っている人から見ると、奇妙に映る独特な形となっている。
例えば枕飯。
仏教では、故人の為に用意されるこの世で最後の食事なのだけど、沖縄の風習では49日間、
故人は家族と同じように一日に3度の食事をするとされている。
故人に供えた食事は捨てずに、家族みんなで分け合って食べる。
これをウサンデーというのだけど、
沖縄の現在の葬儀では奇妙なことに、枕飯と3度の食事が両方供えられるのだ(@_@;)
こんなことは枚挙に暇がない。
これに沖縄の土地柄、門中独特の様式も加えると、
家族の分だけ異なる葬儀の形があるといっていいほど。
つまり、ちゃんとしたやり方があって無いようなものなのだ。
これは大げさではなく、混乱しか招かない。
実際に、いろんな人がいろんなコトを無責任にいうものだから、
現場のあちこちで感情の衝突が起こる。
みんな自分の知ってるやり方が正しいと思っているから、衝突するのも当然だ。
この大なり小なりの感情の衝突こそ、人を真に疲弊させるもの。
一体何のための葬儀なのか。。。
これを思うとき、心が痛くなる。
家族の中でも衝突はあって、
本当に些細なコトが深刻な軋轢を生む。
故人に対する思い入れがあればあるほど、衝突は激化する傾向にある。
旦那としての思い
こどもとしての思い
兄としての思いなど、
思いが強ければ強いほど、ぶつかる要素を孕んでいるようにワタシには見える。
一方で自分の思いに執着せずに、
やるべきコトを淡々とやる美しさに感動するのも葬儀の現場だったりする。
きのうの初七日には、離れて暮らすワタシの三男も参加してくれた。
これを許してくれた元旦那さん、そのご両親には頭が下がる思いしかない。
離婚後、ほとんど断絶状態であったにも関わらず、
母の死を知って告別式にも参列してくれた。
これは、誰にでも出来ることではない。
それに比べてワタシの両親は、
様々な理由を並べては離れて暮らすワタシの子供たちに、
祖父母としてやるべきことをやらずにいた。
改めて、人間の器の大きさの違いを感じたワタシ。
また、実家のご近所さんで交流が無かったにも関わらず、
きのうの初七日に来てくれた方もいた。
付き合いを損得勘定でしか捉えられない人、
一方で損得勘定抜きで動くことができる人。
このように、普段は見えないその人の有り様というものが、
如実にあぶり出されたりするのも葬儀の現場なのだ。
愚痴や不満が多いほど、
その人間の未熟さが露呈されるとはよくいうけれど。。。
ワタシ自身を振り返っても、反省すること多しだ💦
こうあるべき!
こうでなければないならない!
といったものにこだわりすぎて、情に冷たい態度を取ることが多かったワタシ。
これは特に、がんばりすぎて余裕が無くなってるときに顕著になる。
一人で勝手に背負い込んで、
余裕が無くなってるのにまったく気づいてないときほど、
他人に対する愚痴や不満が多くなる。
他人のユルさが目について、イラついてしまう。
自分だけが惨めなほどにがんばってるのに、
それを誰も分かってくれないと自己憐憫に浸ってしまう。
今目の前にいる弟が、まさにこの状態。
目の前の他人が許せないのは、
自分の中の受け容れられない部分をその人に見てるから。
この真理が思い浮かぶ。
他人の欠点に見える部分は、間違いなく自分の中にも同じものがある。
これを認めて受け入れられたとき、他人の欠点に反応しなくなる。
人の振り見て 我が振り直せ
自分と自分の関係がすなわち家族間の関係であり、
親戚間の関係であり、ひいては社会との関係なのだ。
変えたければ、自分を変えるしかない。
修行は続く。