桜の花が咲くと人々は
酒をぶらさげたり団子だんごをたべて
花の下を歩いて
絶景だの春ランマンだのと浮かれて
陽気になりますが
これは嘘です

なぜ嘘かと申しますと
桜の花の下へ人がより集って
酔っ払って
ゲロを吐いて喧嘩けんかして
これは江戸時代からの話で
大昔は桜の花の下は怖しいと思っても
絶景だなどとは誰も思いませんでした

近頃は桜の花の下といえば
人間がより集って
酒をのんで喧嘩していますから
陽気でにぎやかだと思いこんでいますが
桜の花の下から人間を取り去ると
怖ろしい景色になります




 


花の下では風がないのに
ゴウゴウ風が鳴っているような気がしました
そのくせ風がちっともなく
一つも物音がありません

自分の姿と跫音あしおとばかりで
それがひっそり冷めたい
そして動かない風の中につつまれていました

花びらがぽそぽそ散るように
魂が散って
いのちがだんだん衰えて行くように思われます

それで目をつぶって
何か叫んで逃げたくなりますが
目をつぶると桜の木にぶつかるので
目をつぶるわけにも行きませんから
一そう気違いになるのでした。

坂口安吾「桜の森の満開の下







幼いこども時代のワタシの家の庭には桜の木があったんだけど、それはカンヒザクラ

ソメイヨシノをはじめとする本州を代表する桜とは異なり、
花びらは散らないし開花期間も長いので、儚さとは対象のたくましい存在だった(笑)

ワタシは庭の桜の木が大好きで、幼い眼差しでよく観察していた。

濃いピンク色の花が咲けば見惚れていたし、
花が終わって小さな新しい緑が芽吹くのを見るのも好きだった。

やがて小さな紅い実がつくと、サクランボだといって喜んで口にしていた。
 
その実は全然美味しくはなかったけれど(笑)
家の庭に実った小さな味わいを口の中に感じることで、なんだか幸せだった。




小学生になるとテレビか何かで桜餅というものを知ったワタシは、
母にお願いして庭の桜の葉を使って桜餅のようなものを作ってもらったんだけど。。。

残念ながらその味わいは期待を裏切るものだった(笑) 
料理が不得意な母には、ハードルが高かったんだろうな💦 

そんなこんなでワタシの中にある桜って、けっこう大きな存在感を放っている。

こども時代を象徴するような存在。

そんなワタシはやがて、沖縄の桜と本州の桜が全然違うものだということを知るようになる。

ソメイヨシノは儚くて、風が吹くと花びらがヒラヒラと散るというのだ。




え。。。?!
桜吹雪ですって??




沖縄の桜は花が終わるとボトっと落ちるのに対して、
ソメイヨシノは風に舞って花びらが散るのかぁ。。。

桜吹雪、見てみたい❗





沖縄から出て本州に暮らしたいと思った事なんて無かったから、
ソメイヨシノをはじめとする本州の桜を
この目で見ることになるなんて思わなかったけれど。。。

2019年、令和元年の今年、
なんとホンモノの本州の桜をワタシはこの目で楽しむことができたんだ〜✨




代々木公園でケイコちゃんと





沖縄帰省から東京に帰った翌日、
忙しい中ケイコちゃんが時間を作ってくれて、代々木公園に連れ出してくれた!

代々木公園のお花見といえば、報道番組とかで毎年見てた風景。

その光景が目の前に広がってるのが不思議だった。





沖縄では本州のように、桜の木の下で宴会をするなんてコトはしない。

桜の名所というのはあるけれど、クルマで通って見たりする程度。

なぜ本州の人たちは桜の木の下で宴会をするのだろうと不思議に思っていたけれど、
桜には人間の狂気を呼び覚ます力があると何かで読んで腑に落ちた。

それが冒頭の坂口安吾の物語。

カンヒザクラにはない不思議な力がソメイヨシノにはある。

それを知ったとき、なんだか嫉妬めいた感情を自分の中に感じたのを覚えている。





六義園の茶室で楽しんだお抹茶と和菓子





日が暮れる頃、代々木公園をあとにしてケイコちゃんが連れてってくれたのが六義園

HPによると、
1695年に、五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が綱吉から賜った地に下屋敷を造り、そこに造成した庭園
とある。

とにかく沖縄とは歴史の深さが異なる東京。

沖縄戦で焼け野原となった沖縄の歴史建造物は、ほとんどがレプリカ。

昔から現存する建物というのはあるにはあるけれど、数がめちゃめちゃ少ない。

沖縄観光の名所である首里城も、
ワタシが高校生の頃にレプリカで建造されたもので、
うちなーんちゅの心に沖縄を象徴する建物として存在しているかというと、
残念ながらそんなことはない。

建物に使われている建材も近代のものだから、
歴史の重みというものが感じられないのが物足りないところ。

でも東京や京都で見た歴史的建造物には、
有無を言わさない歴史の重みというものが感じられる。

六義園の庭園も、その美しさだけじゃなく歴史の重みを感じる素晴らしい所。

庭園を見渡せる茶室で楽しんだお抹茶と和菓子の味わいは上品で、
これが日本の首都東京なんだなと心底感服した。








代々木公園&六義園のお花見の2日後、
今度は千鳥ヶ淵にお花見に行こうと誘ってくれたケイコちゃん。

代々木公園の桜とも六義園の桜とも異なる桜がそこにはあって、
桜の名所だらけだという東京の底力をまざまざと感じた。







そこで思い出すのが、坂口安吾の描いた桜の狂気。

確かにワタシも実際に満開の桜の下で、独特の高揚感を感じた。

綺麗といって済ませるにはいかない何か不思議なモノが、確かに桜の木にはある。

人々を魅了してやまないのは、美しさよりもその不思議な力なんじゃないだろか。。。







強風が吹き荒れてたこの日、
千鳥ヶ淵でワタシはうまれて初めて桜吹雪なるものを体験した。

風が吹くたびに、ヒラヒラと薄いピンク色の花びらが宙に舞う。

ときには、その花びらが吹雪となって空間をピンク色に染めていた。

それはそれは、とても美しい光景だった。

沖縄で宙を舞うものといえば、何があるだろう。。。

雪もふらなければ花びらも舞うことがない沖縄の植物たちは、とにかくたくましい。

儚さとは対極の世界。

ありがたいコトに一年中、同じような景色が広がっている。

昨年一年間、東京で初めて四季を体験したワタシは、
時間がものすごい勢いで過ぎ去っていくように感じた。

春が過ぎれば夏がきて、
夏が過ぎれば秋になり、
そして長い冬がくる。

過ぎ去っていくものに後戻りはできず、
だからこそ今この瞬間を大事にしたい。

東京に来てしみじみ、そして強く、
瞬間に集中して生きる事の大切さを感じる。







桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません
あるいは
「孤独」というものであったかも知れません

なぜなら男はもはや
孤独を怖れる必要がなかったのです

彼自らが孤独自体でありました

彼は始めて四方を見廻しました
頭上に花がありました
その下にひっそりと
無限の虚空がみちていました
ひそひそと花が降ります
それだけのことです
外には何の秘密もないのでした

ほど経て彼は
ただ一つのなまあたたかな何物かを感じました
そしてそれが
彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました

花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて
ほのあたたかいふくらみが
すこしずつ分りかけてくるのでした

彼は女の顔の上の花びらを
とってやろうとしました
彼の手が女の顔にとどこうとした時に
何か変ったことが起ったように思われました

すると
彼の手の下には降りつもった花びらばかりで
女の姿は掻き消えて
ただ幾つかの花びらになっていました

そして
その花びらを掻き分けようとした彼の手も
彼の身体も
延した時にはもはや消えていました

あとに花びらと
冷めたい虚空が
はりつめているばかりでした