新しい職場にも大分慣れてきました
チームワークなので、、「しゃばり方」のさじ加減が大事だと思うのですが、なんとなくつかめてきたというか、先輩たちもまかせてくれるようになってきたというか、、
とにかく、仕事が少し楽しくなってきたところです
ところで、沢村貞子さんという女優をご存知でしょうか。
以前、歴史時代小説家「植松三十里(うえまつみどり)」さんが書かれた『時代を生きた女たち』という連載エッセイで、沢村貞子さんについて書かれた回を読んだとき、ものすごく感じるものがあって、「わたしもそんな風に生きることができたら、、」と夢のひとつに加えたのです
そのエッセイが書かれた雑誌(オルビス化粧品の『hinami』)を大切に取っていたのですが、転居の際に置いてきてしまったか、処分してしまった。。
なので、ネット上に書かれていた文章でご紹介したいと思います。
沢村貞子は、1908(明治41)年、狂言作者・竹芝伝蔵の次女として浅草に生まれた。その若い頃の人生はNHKの朝ドラ「おていちゃん」としてドラマ化された。日本女子大在学中に「働く人たちがみんな幸せになるための運動」に生きがいを感じ、築地小劇場の研修生になり左翼活動も行う。
戦前は軍国主義に抗して闘い、1932(昭和7)年に治安維持法違反で逮捕された。取り調べの際、素っ裸にされるなど、ひどい獄中生活を送っている。沢村貞子は、仲間を裏切りたくないと黙秘を通していたが、先輩の裏切りを知り、以後、政治運動から身を引く。
その後、日活に入社。映画やテレビで名脇役として活躍。溝口健二、成瀬巳喜男、小津安二郎など名だたる監督たちの映画に出演、その演技により数々の賞を受賞している。兄は歌舞伎役者で映画俳優の四代目・沢村国太郎、姉はヘレン・ケラー賞を受けた矢島せい子(民俗学者、福祉運動家)、弟に俳優の加藤大介がいる。
文章にも優れ、エッセイストとして10冊以上の本を上梓、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
女優であり、随筆家でもあったんですね~
貞子が一つ年下の映画・演劇評論家、大橋恭彦と正式に結婚したのは六十歳の時である。
それまで二十二年間の同棲、そしてその後の二十六年、二人は一緒だった。
八十歳を過ぎ、眠るまで寝床で手を握り合っていたという。
人気女優と新聞記者出身で収入も少ない地味な評論家。
妻が、家計も、夫が経営する映画雑誌社の人件費も、夫の元の家庭への送金分も、妻が経済的に支え続けた。
「ありていに言えばヒモですよ」
と貞子のおい、俳優の津川雅彦さん。
しかし、貞子は徹底して夫を立て夫に尽くす人生を貫いた。
恭彦がダメという仕事は断った。言いつけでCMには出なかった。食事の支度のため、泊りがけのロケに行かなかった。
スプーン一本「食べづらい」と文句が出ると買い替えた。
八十一歳の梅雨時、
「海が見えるところに住みたいなぁ」
と言われ、一晩考えて四十二年住んだ東京・渋谷からの引越しを決意した。
敗戦直後,女優と雑誌記者が駆落ちをし,無一文から2人の生活を出発させた。
数々の苦労を乗りこえ,ようやく楽しい老後を迎えたが,最愛の夫は先に逝ってしまった。
書斎から見つかった遺稿に書かれていたのは
—— こんなに幸せな老後を送ることができるとは思わなかった。
—— 聡明な貞子・・・ありがとう
幸せな老後かぁ。
いまどきの日本って、果たして幸せな老後なんて送られるのだろうかって思いません
でも、金銭的な安定だけが幸せじゃないんですよね。
そして、幸せっていうのは、自分が幸せになるより、自分以外の人を幸せにできたときのほうが幸せに感じるんじゃないかって、、
このことはこのエッセイを読む前から何となく思ってはいたんですけど
つまり、道を聞かれて教えたあとに感謝されたり、お年寄りに席を譲ってお礼を言われると、なんだかとてもハッピーな気持ちになるじゃないですか。
ほんの些細なことでも、自分の行為が誰かの役に立つってすごく嬉しい
だから、誰かが自分を頼ってくれたときは、むしろその人に「ありがとう」って思うようになったんですよね。
(とはいえ、その反対に、他人に非道徳的なことをされたりすると怒りまくるわたしです)
岡本太郎「若い太陽の塔」
海洋堂展@東急東横店のガチャでゲット
実は今日、仕事の帰りに
このことをブログに書こうと思いながら、電車の座席に座ると、
次の駅で荷物をたくさん持った初老の女性が乗ってきたのですね。
で、「どうぞ」と立ち上がったら
少しとまどった表情をされたので、「あ、お若い方だったのかな?」と思いきや
「ありがとうございます」とおっしゃって座られたのでホッとしたところ
次の駅で彼女の隣の席が空いたんです。
そうしたら「あなた、ここにお座りなさい」とおっしゃってくれたのですが
その空いた席の前には、やはり微妙に初老の男性が立っていたので譲ろうとしたのに、その男性も「どうそ、どうぞ」とおっしゃってくれたの。
なので、ありがたく隣に座ったら、マダムが話しかけてきたんですよ。
「実はね、夫が食道ガンになって、お見舞いに行ってきた帰りだったんです。
もう3ヵ月毎日通っているんだけど、クタクタで本当に助かりました」
「夫はね、最初のころは『そんな毎日来ることない』って言ってたんですけど、最近は、私の行くのが少しでも遅れると、看護師さんに『今日は遅刻だな』って筆談で言うんですって(手術して、声が出ない状態のようです)」
そうして、息子さんからの旦那さんの病状に関する携帯メールを見せてくれたり、「覚悟している」みたいなことまでお話してくださって。。
「そう。○○に住んでいらっしゃるの。夫もね、元気なころはよくその街に行って、買い物をしたものよ。陶器とかいいものが売ってるから……」
「でもね、今はもうモノなんていらない。モノなんて何の価値もないことがわかったわ」
マダムはその先をおっしゃらなかったけれど、おっしゃりたかったことは痛いほどよくわかりました。
旦那さんが元気になって以前のような普通の暮らしができたら。。
「3ヵ月間、毎日こうして電車で通っているけど、席を譲ってくれたのはあなたが初めてだったのよ」
そうか。。
それで、一瞬戸惑われたのか。
お別れの時間がやってきました。
旦那さまの回復とマダムが身体をこわさないことを心から願って電車を降りました。
わたしたちは、まだ「老後」というには早いですが
メメントモリ
いまの時代、明日にはどうなるかわかりません。
なので
つねに死を意識しながら、幸せに生きてゆきたいと思っています。
岡本太郎「青春の塔」
まさに『青春ラプソディ』の最終回にふさわすぃ
チームワークなので、、「しゃばり方」のさじ加減が大事だと思うのですが、なんとなくつかめてきたというか、先輩たちもまかせてくれるようになってきたというか、、
とにかく、仕事が少し楽しくなってきたところです
ところで、沢村貞子さんという女優をご存知でしょうか。
以前、歴史時代小説家「植松三十里(うえまつみどり)」さんが書かれた『時代を生きた女たち』という連載エッセイで、沢村貞子さんについて書かれた回を読んだとき、ものすごく感じるものがあって、「わたしもそんな風に生きることができたら、、」と夢のひとつに加えたのです
そのエッセイが書かれた雑誌(オルビス化粧品の『hinami』)を大切に取っていたのですが、転居の際に置いてきてしまったか、処分してしまった。。
なので、ネット上に書かれていた文章でご紹介したいと思います。
沢村貞子は、1908(明治41)年、狂言作者・竹芝伝蔵の次女として浅草に生まれた。その若い頃の人生はNHKの朝ドラ「おていちゃん」としてドラマ化された。日本女子大在学中に「働く人たちがみんな幸せになるための運動」に生きがいを感じ、築地小劇場の研修生になり左翼活動も行う。
戦前は軍国主義に抗して闘い、1932(昭和7)年に治安維持法違反で逮捕された。取り調べの際、素っ裸にされるなど、ひどい獄中生活を送っている。沢村貞子は、仲間を裏切りたくないと黙秘を通していたが、先輩の裏切りを知り、以後、政治運動から身を引く。
その後、日活に入社。映画やテレビで名脇役として活躍。溝口健二、成瀬巳喜男、小津安二郎など名だたる監督たちの映画に出演、その演技により数々の賞を受賞している。兄は歌舞伎役者で映画俳優の四代目・沢村国太郎、姉はヘレン・ケラー賞を受けた矢島せい子(民俗学者、福祉運動家)、弟に俳優の加藤大介がいる。
文章にも優れ、エッセイストとして10冊以上の本を上梓、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
女優であり、随筆家でもあったんですね~
貞子が一つ年下の映画・演劇評論家、大橋恭彦と正式に結婚したのは六十歳の時である。
それまで二十二年間の同棲、そしてその後の二十六年、二人は一緒だった。
八十歳を過ぎ、眠るまで寝床で手を握り合っていたという。
人気女優と新聞記者出身で収入も少ない地味な評論家。
妻が、家計も、夫が経営する映画雑誌社の人件費も、夫の元の家庭への送金分も、妻が経済的に支え続けた。
「ありていに言えばヒモですよ」
と貞子のおい、俳優の津川雅彦さん。
しかし、貞子は徹底して夫を立て夫に尽くす人生を貫いた。
恭彦がダメという仕事は断った。言いつけでCMには出なかった。食事の支度のため、泊りがけのロケに行かなかった。
スプーン一本「食べづらい」と文句が出ると買い替えた。
八十一歳の梅雨時、
「海が見えるところに住みたいなぁ」
と言われ、一晩考えて四十二年住んだ東京・渋谷からの引越しを決意した。
敗戦直後,女優と雑誌記者が駆落ちをし,無一文から2人の生活を出発させた。
数々の苦労を乗りこえ,ようやく楽しい老後を迎えたが,最愛の夫は先に逝ってしまった。
書斎から見つかった遺稿に書かれていたのは
—— こんなに幸せな老後を送ることができるとは思わなかった。
—— 聡明な貞子・・・ありがとう
幸せな老後かぁ。
いまどきの日本って、果たして幸せな老後なんて送られるのだろうかって思いません
でも、金銭的な安定だけが幸せじゃないんですよね。
そして、幸せっていうのは、自分が幸せになるより、自分以外の人を幸せにできたときのほうが幸せに感じるんじゃないかって、、
このことはこのエッセイを読む前から何となく思ってはいたんですけど
つまり、道を聞かれて教えたあとに感謝されたり、お年寄りに席を譲ってお礼を言われると、なんだかとてもハッピーな気持ちになるじゃないですか。
ほんの些細なことでも、自分の行為が誰かの役に立つってすごく嬉しい
だから、誰かが自分を頼ってくれたときは、むしろその人に「ありがとう」って思うようになったんですよね。
(とはいえ、その反対に、他人に非道徳的なことをされたりすると怒りまくるわたしです)
海洋堂展@東急東横店のガチャでゲット
実は今日、仕事の帰りに
このことをブログに書こうと思いながら、電車の座席に座ると、
次の駅で荷物をたくさん持った初老の女性が乗ってきたのですね。
で、「どうぞ」と立ち上がったら
少しとまどった表情をされたので、「あ、お若い方だったのかな?」と思いきや
「ありがとうございます」とおっしゃって座られたのでホッとしたところ
次の駅で彼女の隣の席が空いたんです。
そうしたら「あなた、ここにお座りなさい」とおっしゃってくれたのですが
その空いた席の前には、やはり微妙に初老の男性が立っていたので譲ろうとしたのに、その男性も「どうそ、どうぞ」とおっしゃってくれたの。
なので、ありがたく隣に座ったら、マダムが話しかけてきたんですよ。
「実はね、夫が食道ガンになって、お見舞いに行ってきた帰りだったんです。
もう3ヵ月毎日通っているんだけど、クタクタで本当に助かりました」
「夫はね、最初のころは『そんな毎日来ることない』って言ってたんですけど、最近は、私の行くのが少しでも遅れると、看護師さんに『今日は遅刻だな』って筆談で言うんですって(手術して、声が出ない状態のようです)」
そうして、息子さんからの旦那さんの病状に関する携帯メールを見せてくれたり、「覚悟している」みたいなことまでお話してくださって。。
「そう。○○に住んでいらっしゃるの。夫もね、元気なころはよくその街に行って、買い物をしたものよ。陶器とかいいものが売ってるから……」
「でもね、今はもうモノなんていらない。モノなんて何の価値もないことがわかったわ」
マダムはその先をおっしゃらなかったけれど、おっしゃりたかったことは痛いほどよくわかりました。
旦那さんが元気になって以前のような普通の暮らしができたら。。
「3ヵ月間、毎日こうして電車で通っているけど、席を譲ってくれたのはあなたが初めてだったのよ」
そうか。。
それで、一瞬戸惑われたのか。
お別れの時間がやってきました。
旦那さまの回復とマダムが身体をこわさないことを心から願って電車を降りました。
わたしたちは、まだ「老後」というには早いですが
メメントモリ
いまの時代、明日にはどうなるかわかりません。
なので
つねに死を意識しながら、幸せに生きてゆきたいと思っています。
まさに『青春ラプソディ』の最終回にふさわすぃ