思想を右とか左とかで分けるのは嫌いなんですけど
わたしの勤め先に『真の右翼』とも呼ばれている方がいます。


つまり、愛する日本のために信念を持って闘っていらっしゃるのです。


わたしが異動になる前は、直接お話をする機会が多々あったのですが
ざっくばらんで裏表がなく、子どものように無邪気なところが素敵だなぁと思っておりました(と、わたしが言うのもおこがましいのですが。。汗


取材や出張が多く、テレビの収録がある日も遅刻ギリギリまで研究室に籠って資料を作成されていました。

そんな先生のインタビュー記事がダイヤモンド・オンラインに掲載されていて、「素」の先生が垣間見えるとともに、思わず「うんうん」とうなずけることをおっしゃっているので、転載したいと思います。

☆特に「ホンマやねんびっくり」と思うところは、ピンク色にしてあります(*´・ω・`)




なぜ日本人は交渉で負けるか
世界が認めた国際交渉人が語る「失敗の本質」


外国人相手の交渉となると、なぜか弱いイメージがつきまとう日本人。かく言う筆者も、外国人相手と言わず交渉ごとはすべて苦手である。

うまくいく交渉と失敗する交渉の違いはどこにあるのだろうか?

捕鯨交渉などでアメリカ・ヨーロッパの反捕鯨国から「タフ・ネゴシエーター」と恐れられ、米ニューズウィーク誌の「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた、元官僚で政策研究大学院大学客員教授の小松正之さんに、国際交渉における失敗の本質について伺った。






四角日本が第二次世界大戦で負けたのは
四角「長期的な視野」がなかったから



――国際交渉というとやや大げさですが、外国人を相手にすると、なぜかいい顔をしてしまう日本人は多いような気がします。今回は是非とも、タフ・ネゴシエーターで知られた小松さんに、国際交渉のコツを教えていただきたいと思って参りました。


 コツと言われると、難しいですね。

 交渉力というのは、ちょっとやそっとの努力と勉強では身に付きませんよ。いつでも学ぶ姿勢を保って、何十年も取り組まないと。まあ、どこから始めてもいいのですが、だいたい、子どもの頃で決まります。親の生き方と教育方針でほぼ、わかりますから。


――親ですか……。


 いい大学・いい会社に入って、一生、楽をして暮らしなさいという親からは、交渉力のある子どもは育ちません。

 私が思うに「役人」を「官僚」と呼び始めた頃、公務員試験講座ができたあたりからおかしくなったと思います。給料が安くても国民全体のために奉仕しようというのではなく、一生楽して暮らしたい、と思う人間ばかりが役所に入るようになった。もっと人一倍、世のため人のために苦労をし、そこに生きがいを感じるようでないと国際交渉などできません。


――苦労を生きがいに、ですか?


 そう、それと大局観を持つこと。

 第二次世界大戦中、アメリカ軍はミッドウェー海戦の前から日本の占領政策を考えていたんです。個々の戦況とは別に、全体を見るセクションがあって、長期的な視野に立って戦略を練っていた。

日本は、いつの時代もその長期的戦略に欠けている。だから、交渉ごとで負けるのです。それと、基本は知識です。普段から蓄積した知識をより深めて、ここぞ、という場面で生かすことができるかどうか。それが交渉力です。ところが、今の若い人たちが求めているのは、単なるテクニックでしょう。そんなのは、ちっとも力にならない。


四角漁業大国ニッポン没落の背景に
四角「日米漁業交渉の失敗」があった



――いきなり話が大きくなっていますが、日本が長期的戦略を持たずに失敗した例と言いますと、たとえば?


 私が経験した例で言うと、1つは日米漁業交渉でしょうね。


――それはどんな交渉だったのでしょうか?


 ことのきっかけは1977年、私がちょうど農林水産省に入って水産庁に配属された年に起こりました。この年、アメリカと旧ソビエト連邦が相次いで200カイリの漁業水域を設定した。いわゆる、排他的経済水域と呼ばれるものです。これは、「カラスが鳴かない日はあっても、200カイリ問題が新聞に出ない日はない」と言われるくらい、日本にとっては大きな問題だったのです。

 というのも、それまで日本の遠洋漁業は他の分野に先駆けて海外に進出していましたし、技術的にも世界をリードしていましたから。


――そんなにすごかったのですか、日本の漁業は。


日本の漁船は世界中の海で魚を獲っていた。世界に冠たる漁業国でした。

 ところが、この200カイリ問題以降、状況がガラリと変わった。他国の200カイリ内で操業するには許可をとり、入漁料を支払わなければならなくなったからです。それだけじゃない。お金を支払っても、わずかな漁獲枠しか与えられなくなった。遠洋漁業を続けるためには、国際交渉が欠かせなくなったのです。


――どうして200カイリ内と決まったのでしょうか?


 数字に根拠など、ありません。ですから、日本が当初の12カイリにこだわらず、自分たちから50カイリでも提案していれば、状況は違っていたかもしれません。

 私が国際課で日米漁業交渉を担当するようになったのは、アメリカのエール大学に留学して帰国した翌年の1985年4月からです。アメリカ海域で操業する日本のサケ・マス船団とトロール船のために、漁獲枠の割当を確保するのが仕事でした。これは今から思うと、失敗の多い交渉でした。


――失敗と言いますと?


 それ以前の交渉で、日本はアメリカ200カイリ内でのサケ・マス操業と引き換えに、ベーリング公海でのサケ・マス操業を取りやめる約束を取り交わしてしまっていた。思えば、これは致命的なミスでした。

公海というのはそもそも「みんなの海」です。だから、そこで操業している分には、誰からも文句を言われなくて済むはず。なのに、日本はアメリカの200カイリ内にある優良な漁場に目がくらみ、みすみすその権利を放棄してしまった。

 アメリカから割り当てられる漁獲枠は毎年のように削られ、交渉をするたびに、その見返りとして技術支援を求められた。やれ、アリューシャン列島のダッチハーバーにすり身工場をつくれとか、そこにアメリカ漁船が漁獲し、運んでいったものを買え、とか、様々な条件を付けられました。

無茶苦茶な話ですけれども、相手の土俵で相撲をとらされているも同然ですから、こっちは言うことを聞くしかない。そうこうしているうちに、アメリカは自分たちですり身をつくる技術を身につけ、日本市場に向けて売るようにもなった。ですから、1988年には「もうお前らは必要ない」とばかり、日本船は事実上、アメリカの200カイリ内から閉め出されてしまいました。


――つまり、一連の交渉で、日本は遠洋漁業という産業を失ったばかりか、アメリカの漁業振興を手伝わされ、アラスカ沖でとれた海産物まで買わされることにもなった。


 それだけではないんです。じつは、アメリカ200カイリ内での操業を守ろうとして、日本は捕鯨をやめる約束まで交わしてしまった。結果、捕鯨も遠洋漁業も両方、失ってしまったのです。


――しかし、どうも解せません。仮にも、日本のトップエリートたる人々が交渉にあたっていたはずなのに、どうして、そんな無惨な結果に終わってしまったのでしょうか?


失敗した原因の1つは、短期的利益を優先するあまり、長期的な国益を見失ったということ。それと、我々には交渉に必要な手段(カード)が与えられていませんでした。

 交渉で勝つには、それなりの手段を持たないといけない。あの時、何が有効な手段だったかと言えば、日本の水産マーケットでした。

 日本では当時、水産物が畜産物の何倍も高い値段で売れたんです。水産物がそんなに高く売れるマーケットは、世界中、どこにもありませんでした。だから、アメリカが漁獲枠を盾にとって技術提供を要求してくるならば、こちらは日本の水産物マーケットを盾に「日本船を操業させてくれないなら、アメリカのすり身は買いませんよ」という交渉ができたはずです。しかし、実際にはできなかった。

 縦割り行政の弊害もありましたし、政治もそこまで真剣には漁業のことを考えていなかったということでしょう。


――要するに、「敵は内にあり」だった?


 まあ、そういうことになります。


四角現状維持が一番」の日本では
四角リーダーシップこそ危険な行為



 じつは、私が漁業交渉の担当官になったばかりの頃には、水産庁内にも何人か、国際交渉のプロがいました。遠洋漁業は国境を越えて操業しますから、水産庁はある意味、外務省以上に国際官庁だったのです。

 しかし、日米漁業交渉で負けた結果、日本の遠洋漁業は縮小と撤退を余儀なくされ、そうしたプロたちも次第に役所から退職したり、排除されてしまった。代わりに幅を利かせるようになったのは、ドメスティックな分野の人たちです。こちらは国際交渉の経験などなく、補助金をより多くとってくることが大事だと思っている。そこには、日本の漁業全体をどうにかしよう、なんていう大きな将来像と大局的ビジョンはない訳です。


――なるほど……。


 これは、役所だけの話じゃないでしょう。日本の、いたる組織で同じようなことが起きているんじゃないですか? 能力と実績は問われずに、保身、保身でトップになって、その座に居座り続けることだけが目的になっているような人間、多いでしょう?

 日本にはよくリーダーが出て来ない、と言われますがね、当然です。日本の組織でリーダーシップを発揮するのは危険ですから。


――危険?


リーダーの重要な役割の1つは、長期的に変化のない組織に変革をもたらすことです。しかし、日本でそれをしようとすると、必ず、足の引っ張り合いが起こる。

 ましてや、アングロサクソンを相手に交渉で勝つなんて、危険極まりない行為です。そんなことができる人間、そうはいない訳で、できない人たちは、「こいつがトップに立ったら、オレたちは立場が弱くなる」と不安になるでしょう。だから、できる人間を必死で排除しようとする訳です。


――ひょっとして、小松さんもそれで役所を辞めることになったということですか?


 農林水産省の大先輩が「こんな改革意識のないところにいてもしょうがないぞ」と言うもので、自分から辞めました。まあ、こっちが国際交渉で忙しく飛び回っている間、相手は要所、要所で自分たちに都合のいいような人事を固めて動いている訳ですから。


$La Vie de Paris



――国際交渉力を持つと組織内の基盤を失う、というのもなんだか解せない話で……。


 という訳で、私は今、大学でリーダーシップ論を教えているんです。この国では、リーダーを育てることも大事ですが、それを支えるフォロアーを育成することの方がもっと大事。自分がリーダーになれなくてもいいから、リスクを負おうとする人の足を引っ張るな、という教育をしないといけない。

 アメリカの組織でリーダーシップを発揮するのは、簡単なんです。リーダーシップを発揮することがいいことだという社会的なコンセンサスがある上でのことですから。ところが、日本ではそうはいかない。そもそも、現状に満足していて、今ある枠組みや仕組みを変えるなんてとんでもない、と思っている人が大半という状況の中で、どうやってリーダーシップを発揮すればいいか。4月にリーダーシップの会議があり、アメリカのエール大学で講義をした先生にそう質問したら、まともな答えが返ってきませんでした。


四角国際交渉に勝ちたいなら
四角自分の「手の内」を見せろ



――でも、アメリカにはないのでしょうか? つまり、醜い足の引っ張り合いは?


 あるでしょうね。ただ、日本ほど陰湿ではないと思います。

 私が付き合っている連中はたいがい、アメリカでもちょっと上流・上層階級の方ですから……。


――同じ人間だと考えれば、そう大きくは違わないのでは、と思う気持ちもありまして。


その点で言うと、国際交渉でも根回しは大事です。根回しというよりも、コミュニケーション。相談されれば、誰だって嬉しい。それは、外国人が相手でも一緒です。日本で言う“腹芸”とは違い、率直が一番です。

 根回しで、相手の意見が大きく変わることはほとんどありません。ただし、それだって意味はあります。その時すぐに変わらなくても、途中で反対だったのが中立になったり、賛成に回ってくれたり、ということはありますから。こちらの意見を事前に相手に伝えておくことは、とても大事なことなのです。


――それって、手の内を見せちゃうことにはならないのですか?


もちろん、あえて見せるんです。そうすると、相手も安心できる。イエス、ノーの軸を最初にはっきりさせておくと、相手も妥協点を見いだしやすくなる。反対に、安心できない相手と交渉していると、人間ですからつい、防衛本能が働いて、態度が硬化してしまいます。

 私が交渉担当者だった時にはよく、「小松さんは手の内がわかるから安心できます」と相手国の担当者に言われました。ほかの日本人が交渉相手だと、何を考えているのかわからない、と。こういう場合、決して良い結果にはなりません。


――多国間交渉と二国間交渉では多少、違いもあるのでは?


いや、基本は一緒です。ただ、多国間の場合は他国を巻き込む力が必要ですから、国にある程度の力がないとできません。

 そういえば、タイから来た学生の1人に「アメリカを相手に交渉する時は多国間交渉と二国間交渉、どちらがいいですか?」と聞かれたことがあります。その時は、「向こうが二国間交渉をしたがっていたら、多国間。多国間と言ったら、二国間だ」と答えました。相手の発する言葉はすべて自国の利益に基づいている、と考えれば、相手が嫌がることにこちらの利益がある。国際交渉というのはある意味、単純です。

 捕鯨交渉に関して言うと、アメリカは絶対に二国間ではやりたがりません。日本に理屈で負ける、と最初からわかっているからです。だから、利害が複雑に絡み合う多国間交渉に持ち込もうとする。日本人は、そういうことをすべてわかった上で、国際交渉に臨まないといけない。


※後編(8月28日公開)へ続く

「ダイヤモンド・オンライン」http://diamond.jp/articles/-/40491より


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