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 若い頃の私は挨拶が嫌いだった。はっ、しゃらくさい、挨拶なんてなんでしなきゃならんのじゃ、ぼけと悪態をついていた。そして、社会の海に放り出されてからは毎日のように先輩という種族たちに叱られた。なんで挨拶をせんのじゃいと、こっぴどく打ちのめされた。
 いま思えば先輩という種族の人々はとても正しくて挨拶のある職場はやはり風通しもいいし仕事がやりやすかった。先輩という種族たちはそれを言いたかったのだなと今では納得して生きている。
 そして、問題が生じた。それはつまり、私が挨拶をしない若者に出会ったからである。若い頃、挨拶を嫌っていた自分としては彼らの気持ちは痛いほど理解できる。だが、怒られて知ったタイプの自分としては怒る事でしか彼らに気付きを与えられないのである。なんたることだろうか。呆然としたわたしは空を仰いだ。嫌われたくはないよ、私。若い人とも仲良くしたいもの私。注意して嫌われたらどうしよう。という思いがこころを散らす。
 他者に対して叱ること、気付きを与えることの難しさを36歳の私は惨たらしくも思い知った。そんな時Twitterで出会ったのが下記の言葉たちであった。なんだかここにこの問題の解答へ の道程がある気がする。

<エピクテトス曰く、人間は自分自身に専心しなければならない。神ゼウスが〈理性〉を与えることによって、人間を自分自身の手に委ねたからだ。この理性によって人間は他の全ての能力の使用を決定できる。従って我々は神によって自分自身に委ねられ、自分自身に専心しなければならない。-主体の解釈学-> byフーコー