しばらくぶりに、若者心理分析の書『なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか』という本を出す。(祥伝社、来週くらいには書店に並ぶはずだ)
便所飯という現象は、要するに、一人で食事をしている姿を見られたくない、友達がいないことを知られたくないために便所で弁当を食べる現象らしい。
昼食を一緒に食べる間柄というのは、親友とは言い切れない。むしろ、それとはほど遠い存在であることが多いかもしれない。実際、昼ご飯を一緒に食べ、職場のことやタレントのゴシップのような当たり障りのない会話をするだけだ。実際、二人でお昼を食べるより数人のことが多いし、また仕事が終わった後に飲みに行く文化もめっきりと減った。
便所飯をする人たちは、親友がほしいというより、そのレベルの浅いつきあいすらできない自分が恥ずかしいということなのだろう。
私自身、実際に便所飯現象があるのかどうかはわからない。都市伝説だという話も聞いたことがある。
ただ、私は都市伝説であっても、都市伝説ののほうがむしろ、若者とか大衆心理の動向を考える上で役立つと思っている。
要するに、あまり突飛だとか、いくらなんでもウソ臭い話は都市伝説にはならないからだ。
たとえば、運動会で手をつないでゴールというのも都市伝説だという説が強い(実際に見たという話も聞いたことがあるが)。でも、今の子供たちを傷つけない、競争をさせないという教育が蔓延している中で、「ありそうなこと」と思われているから都市伝説が広がるのだろう。
今回の便所飯話も、それだけ友達がいないことが恥ずかしいという文化が共有されているから、ありそうなこととして伝わっていくのだろう。
子供たちに競争をさせるのは、負ける子供の心が傷つくから可哀そうという話になると、まず学校で成績の順位を貼り出すのがやめられる。
それでは、スポーツができない子も可哀そうではないかという話になって、運動会で順位をつけるのをやめる。
芸事ができない子供がかわいそうなので、学芸会での主役を決めるのをやめたり、集団劇にしたりする。音楽会でも独演をやめる。
そして、みんな仲良くすることがいいことになり、友達が多いほどいいという話になると、ほかの競争がすべてなくなるのだから、友達の数で序列が決まる。これには学校の教師も文句は言えない。
内申書でも、観点別評価になって、ペーパーテストの点数が4分の1にしかならなくなったり、コミュニケーション能力もその観点に入ると、やはり友達のいないコミュニケーション能力の乏しい子供には地獄だ。
私の信頼する教育評論家、森口朗氏の著書『いじめの構造』では、スクールカースト現象が詳しく解説されているが、人気者の一軍(イケメンとも呼ばれる)、そのフォロワーの二軍(フツメンともいう)、そして、それに入れない仲間はずれの三軍(キモメンと呼ばれることもあるらしい)というカーストのようなものがクラスにできる。
二軍の子供たちは三軍に落ちるのが怖くて、必死で、みんなと合わせようとする。KYを過度に恐れる心理もここで醸成される。
人間性重視の教育が人間性をどんどん奪い、表面上のつきあいに汲々する子供世界を作る。
実際、成績で順位がはっきりつく塾の中でのほうが本音もいえるし、人間臭い人間関係ができるのである。
私としては、かなり今の若者文化と、それを取り巻く集団心理について言いたいことを言ったつもりだ。
面白いとか、当たっていると思ってもらえるかどうかはわからないが、私が何を危惧し、何を考えているのかに興味を持ってくれる人にはぜひお勧めしたい本である。
あるいは、自分の生きづらさをわかってもらえた気分になる人も少なくないはずだと信じている。
便所飯という現象は、要するに、一人で食事をしている姿を見られたくない、友達がいないことを知られたくないために便所で弁当を食べる現象らしい。
昼食を一緒に食べる間柄というのは、親友とは言い切れない。むしろ、それとはほど遠い存在であることが多いかもしれない。実際、昼ご飯を一緒に食べ、職場のことやタレントのゴシップのような当たり障りのない会話をするだけだ。実際、二人でお昼を食べるより数人のことが多いし、また仕事が終わった後に飲みに行く文化もめっきりと減った。
便所飯をする人たちは、親友がほしいというより、そのレベルの浅いつきあいすらできない自分が恥ずかしいということなのだろう。
私自身、実際に便所飯現象があるのかどうかはわからない。都市伝説だという話も聞いたことがある。
ただ、私は都市伝説であっても、都市伝説ののほうがむしろ、若者とか大衆心理の動向を考える上で役立つと思っている。
要するに、あまり突飛だとか、いくらなんでもウソ臭い話は都市伝説にはならないからだ。
たとえば、運動会で手をつないでゴールというのも都市伝説だという説が強い(実際に見たという話も聞いたことがあるが)。でも、今の子供たちを傷つけない、競争をさせないという教育が蔓延している中で、「ありそうなこと」と思われているから都市伝説が広がるのだろう。
今回の便所飯話も、それだけ友達がいないことが恥ずかしいという文化が共有されているから、ありそうなこととして伝わっていくのだろう。
子供たちに競争をさせるのは、負ける子供の心が傷つくから可哀そうという話になると、まず学校で成績の順位を貼り出すのがやめられる。
それでは、スポーツができない子も可哀そうではないかという話になって、運動会で順位をつけるのをやめる。
芸事ができない子供がかわいそうなので、学芸会での主役を決めるのをやめたり、集団劇にしたりする。音楽会でも独演をやめる。
そして、みんな仲良くすることがいいことになり、友達が多いほどいいという話になると、ほかの競争がすべてなくなるのだから、友達の数で序列が決まる。これには学校の教師も文句は言えない。
内申書でも、観点別評価になって、ペーパーテストの点数が4分の1にしかならなくなったり、コミュニケーション能力もその観点に入ると、やはり友達のいないコミュニケーション能力の乏しい子供には地獄だ。
私の信頼する教育評論家、森口朗氏の著書『いじめの構造』では、スクールカースト現象が詳しく解説されているが、人気者の一軍(イケメンとも呼ばれる)、そのフォロワーの二軍(フツメンともいう)、そして、それに入れない仲間はずれの三軍(キモメンと呼ばれることもあるらしい)というカーストのようなものがクラスにできる。
二軍の子供たちは三軍に落ちるのが怖くて、必死で、みんなと合わせようとする。KYを過度に恐れる心理もここで醸成される。
人間性重視の教育が人間性をどんどん奪い、表面上のつきあいに汲々する子供世界を作る。
実際、成績で順位がはっきりつく塾の中でのほうが本音もいえるし、人間臭い人間関係ができるのである。
私としては、かなり今の若者文化と、それを取り巻く集団心理について言いたいことを言ったつもりだ。
面白いとか、当たっていると思ってもらえるかどうかはわからないが、私が何を危惧し、何を考えているのかに興味を持ってくれる人にはぜひお勧めしたい本である。
あるいは、自分の生きづらさをわかってもらえた気分になる人も少なくないはずだと信じている。