日記R6年4月8日(月曜日)曇りのち雨

 

胃カメラに行った。

痛かった。でも母の苦痛に比べればなんて事ない。

危篤で駆けつけた時、母は気道へ筒を入れて空気を送られてた。

口元からは血が出てた。それを鼻から管を入れて、

吸引しながら心配蘇生が行われてた。

血は筒を入れる時に口の中が傷ついたからとの説明を受けた。

もし意識が有ったらかなり痛がると思うと主治医が仰ってた。

痛みだけじゃない。

血液や痰が気道に詰まり窒息によるかなりの苦痛も有ったはず。

 

経鼻胃管栄養は長くてもひと月以内に留めて自宅に連れ帰り、

通院透析の時だけ経鼻胃管栄養を摂り、

後はアイス等で少しずつ口から通常通り食べれる様に持っていくべきでした。

口から食事を摂らなくなった主な要因は入院という環境に有ったと思います。

嚥下力の低下で無く精神面に依るものだったと思います。

 

経鼻胃管を抜かぬ様に拘束着を着用させられ、

ミトンをはめられ手がグーに拘縮してしまう程にもなりました。

身体を自由に動かせず食の楽しみも味わえず、

可哀想な晩年を強いらせてしまいました。

 

「重病人だから退院させられません」

「退院させるなら命に関わるから警察に通報します」

と主治医から言われたけど退院させるべきでした。

昔、広大病院で一時期、母の主治医だった横山先生が

広島赤十字原爆病院で腎臓内科部長をされてるから

横山先生を頼って掛かれば良かった。

 

入院中はあれ程、強く退院に反対されてたのに、

仏さまになった途端に直ぐに葬儀社へ連絡して退院させて下さいと言われました。

お金が余り無いのでなるべく安くお願いしますと葬儀社に電話すると

「朝になってから移送する方が安いですよ」と言われたのでその旨を看護師に伝えると、

「朝まで居させられません」と断られました。

こんなにもあっさりと退院を促すなら生前に言って欲しかった。

 

母の荷物を手早く段ボール箱に積み込まれて夜中の11:30過ぎに母をストレッチャーに乗せて阿弥陀如来の絵像が飾られてる霊安室に運ばれて夜勤当番されてた副院長と看護師が母にお辞儀して直ぐに霊安室前で待機してた霊柩車へ積み込まれました。霊安室に居たのは1分くらい。まるで流れ作業。

家族にとっては一大事でも医療関係者にとっては日常茶飯事の事だからなのかも知れません。

 

もう何もかも遅い。

日赤病院では腰の固定術を2002~2003年頃に大賀先生にしてもらった縁や、

1955年に日赤病院の屋上で祖父が佐々木禎子さんと一緒に写真を撮った頃に母が、

入院中の祖父(舅)におはぎを持って仕事帰りに面会してたという、

エピソードの有る病院でも有ったから、

あの時に主治医の制止を振り切り経鼻胃管を外して点滴と口からのアイスだけにしてでも

日赤で通院透析しながら日々を在宅で介護してれば母の最晩年を、

健やかに幸せを味わいつゝ過ごせただろうにと思いました。

例えそれで寿命が短くなったとしても。