ハマー・ホラーは目で語る映画 | トンデモ・シネマの開祖

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ハマー・ホラーは目で語る映画



「僕はハマー・ホラーが好き」と云っても皆ポカーンとする。
別に嘘ついてるワケでなくイギリスのハマー・フィルム社が製作した一連のホラー映画の事。
当時はB級作品だったが、時間の流れ共に再評価されている。

50年代から60年代初頭に全盛期を迎えたユニバーサル・スタジオのドラキュラやフランケンシュタインを70年代向きにカラー化したハマーは当時子供だった我々にホラーの面白さや人生の教訓を教えてくれた。

ハマーの映画は多くが古典的な伝統を受け継いで、起承転結が明確である。
初めは身近に起きる謎の事件から発展し、それがやがて謎の解明に繋がる。
後半は解明されたはずの謎が恐怖に変化して加速する。



ハマーを代表する「フラケンシュタインの逆襲」では、ピーター・カッシング扮するフランケンシュタイン博士が死刑になる寸前で神父に告白する処から始まる。
子供の頃から生命の復活に執着する天才博士は、その性格が故に研究の為にモラルを失う。
知り合いの著名な教授を殺し、その脳を遺体とつなぎ合わせて生命体に生命を吹き込む。
しかし、生命体は怪物となり、暴れ回り、無惨な死を遂げる。
生命を弄んだ博士は逮捕され、死刑に処される。
という話で、一見、よくあるフランケンシュタイン伝説だ。

しかし、違うのは、その細やかな描写だ。
例えば、最初の教授を殺すシーンでは、実にリアルに殺人というものを演出する。
階段から老人を突き落とすが、その瞬間まで観ている我々でさえ、突き落とす事が予見できず、突然のように感じる。
しかし、その後、何の表情の変化を見せないフランケンシュタイン博士を観て、我々視聴者は全てを悟ると同時に恐怖する。

彼は冷酷な殺人鬼的一面を持つサイコパスなのだと一瞬で理解するのだ。



このピーター・カッシングの演技は、低予算と言われるB級ホラーに一流の演技を持ち込んだ最初の演出と言えるだろう。

本来、ホラーは当時、子供向きなので、分かりやすく説明されていた。
ユニバーサルのフランケンシュタインでは、すべて台詞を通して、自分の行動や心理を話してくれる。
しかし、ハマーのこの殺害シーンでは、セリフは一切使わない。

ただ、映像だけは雄弁に語りかける。

殺した後も瞬き一つしないフランケンシュタイン博士の顔にスーッと影が斜めに落ちてやがて全てを影が覆う。
コレはピーター・カッシングが後ろに下がっただけと思う人もいるが、心理描写の基礎なのだ。
ただ、演劇では照明を調整する事で演出するが、映画では照明に大げさな変化を入れると、リアリティを損なう為、あえてピーター・カッシングが行動する事で照明の効果を醸し出している。

勿論、カラー時代だから出来た演出で、ユニバーサルのモノクロ時代では、それをするにはフィルムは暗すぎるし、照明も大き過ぎたのだろう。
ハマーは基本、台詞芝居で舞台を撮影したような古典映画に、近代的なリアル志向のホラー演出を持ち込むのだ。



その後、80年代に入り「13日の金曜日」に代表される、より過激なリアルな殺人シーンをメインとしたスプラッターホラーが主流になり、ハマーは衰退する。

しかし、我々がハマー・ホラーを特別視するのは、映画の作り方だ。
今のテーマパークのような映画でなく、古典的な要素やストーリー展開を重視しながらも、映像で見せる演出を織り交ぜた職人技こそホラー映画の本質だと教えてくれるからだ。

単に視聴者の興奮度のみに執着し、派手な血だらけの近代ホラーとは違い、低予算でも、ギリギリの品質を重視して、役者の演技とそれに伴う演出が最大の見せ場になりうる事をハマー・ホラーは証明している。

最近では、コンプライアンスがうるさくなり、派手な血糊を嫌がる傾向にあり、ハマー・ホラー的な演出重視のホラーも増えているのは、喜ばしい。