冬の終わり告げるサクラのように

 永い旅路に咲いた奇跡よ


 いつもいつの日にも 輝きながら

 僕の心を照らしておくれ

 明日(あした)も来年も100年先も

 君を見つめているから 」 キセキノハナ/Lyrico

作詞 : Lyrico 作曲 : Senoo

「スーパーテレビ情報最前線」(1991年 - 2005年 日本テレビ)

エンディングテーマ


1997年1月31日、「ナゴヤドーム」完成。

ある男がこの完成に駆けつけた・・・。


1990年夏、突然病院に呼ばれ知り合いの医師から告げられた・・・

妻の命はもって一年か二年・・・


白血病だった・・・。


その日、自分がどうやって家に帰り着いたのか、

全く覚えていないという。


仕事を辞めて看護に専念しようか・・・

そう考えたこともあった。


でも、俺に何が出来る・・・俺に出来るのは・・・・・・



今年の夏、


" 申し訳ないの一言。 "


こう語ったその人は・・・星野仙一。


「スーパーテレビ情報最前線」

「激情の裏の孤独 星野仙一・男の真実」(2002年 日本テレビ)より


中日監督時代 ――

1997年1月31日の朝、妻・扶沙子(ふさこ)さんが天国へ旅立った。

妻を看取った星野さんは訃報を公けにせず、ドームに駆けつけた。

闘病を支えて7年あまり・・・

この日、星野さんは涙を見せなかった・・・。


阪神監督時代 ―― 


" 俺が今、阪神の監督をしているのを見たら、

 女房はなんて言うかな・・・ " ・・・


お二人が知り合ったのは学生時代、

2歳年上の扶沙子さんは慶応大学の3年生だった。

和菓子を手土産に野球部の合宿場を訪ねたのが馴れ初めと言う。


プロ1年目のシーズンが終わった1969年12月に結婚。

契約金の殆どが世話になった野球部などへの寄付に消えており、

新婚生活はつましく始まる・・・


やがて、二人の娘にも恵まれて幸せな家庭が築かれていった。


妻の病を知ったのは中日の監督に就任して4年目(1990年)の夏・・・


" 俺に出来るのは野球だけ・・・

 チームが勝てば女房も生きる励みになるはずだ・・・ "


星野さんはユニフォームを脱がなかった。

それは扶沙子さんの望みでもあった。


病院のそばには神社・・・扶沙子さんは体調が良い時には

神社に足を運び、チームの優勝を祈願していた。


何よりも、まず夫・・・。

扶沙子さんはそんな人だった。


当時、扶沙子さんの祈りを胸に刻んだ男がいる・・・

島野育夫さん(1944年 - 2007年)。

星野さんにも伝えられなかったと言うあること・・・


" 島野さん、日本一の胴上げを

 主人の胴上げを見てみたい 日本一の胴上げを、

 島野さん見せて・・・ "


闘病7年、扶沙子さんは優勝を見ることなく帰らぬ人となった・・・。

妻を看取ったその日、ナゴヤドームへ駆けつけた星野さん。

今にも泣き出しそうな表情のその下で星野さんは誓っていた・・・


" 扶沙子、俺は必ず優勝してみせる!

 ・・・見ていてくれ。 "


2年後の1999年、中日ドラゴンズ セ・リーグ優勝。

宙を舞った星野さんのポケットには扶沙子さんの遺影が入っていた。


阪神から監督就任を求められた時、

悩む星野さんに娘たちが言った・・・


" パパはファンの人たちに喜ばれる野球をして来た人。

 それがママの口癖だったから、私たちは賛成よ。 "


妻が愛した娘の言葉は、

妻の言葉だった。

けれど、星野さんを待っていたのは、

ひとりぼっちの戦い・・・。


ある時の移動中、星野さんの携帯が鳴った。

着メロは「どんなときも。/槇原敬之」


" どんな時も諦めないってことだよ。"


―― 1947年1月22日、岡山県倉敷市に生まれた星野さん。

母親が星野さんを身ごもっている最中に父親が病死。

そのため星野さんは父親の顔を知らない。


豊かとは言えない家庭環境で、

諦めるな!と自分に言い聞かせ続けた少年は、

やがて野球に才能を開花させることになる・・・。


父を知らない少年が、ちょうじて日本一の親父と呼ばれる不思議。

1968年プロ野球ドラフト会議、

「君を指名する。」と約束しながら巨人は星野さんを取らなかった。

中日ドラゴンズに入団した星野さんは、打倒巨人に闘志を燃やす。

中でも長嶋茂雄さんには気合いを込めて

一球一球叫びながら投げ込んだという。


1974年中日ドラゴンズ セ・リーグ優勝。

星野さんは見事胴上げ投手の栄光に輝いた・・・だが、

生涯最良の時に待ち受けていたのは、

なんとも皮肉なめぐり合わせ。同じ日に・・・

長嶋茂雄 現役引退。

翌日のスポーツ紙は長嶋さん引退を大々的に取り上げ、

中日優勝の立役者、星野さんにスポットライトは当たらなかった・・・。


父を知らずに育った男は、


" 頑固親父、カミナリ親父、この存在でありたい。

 (一人暮らしは)寂しいですよ。

 寂しいですけど、選手いますからね。

 野球ありますからね。

 今の家族ですね。まー(野球)好きだからね。 "


こう語ります。


また星野さんは「 (俺は)仮面だらけだよ 」

とも言いました。


" 「 俺は小心者なんだよ。」

 だから自分を駆り立てるために仮面を着ける・・・

 己の弱さを知る男・・・星野仙一。 " ・・・・・・



1999年、中日ドラゴンズ優勝。
この時涙を拭く星野さんの姿がありました。


誰もが口を揃える・・・

「 星野さんは愛妻家でした。」

1997年2月2日 連れ添って27年

星野仙一 50歳 初めて人前で声を震わせた・・・


" 素晴らしい女房でした・・・妻でした・・・

 素晴らしい母親でした・・・そして・・・

 素晴らしい娘達を教育してくれました・・・。

 ・・・寂しいです!悲しいです!悔しいです!

 私には直接申しませんけども、娘達には、

 

 「 ナゴヤドームでパパの胴上げ見たいね。

  もう一回、胴上げを見て死にたいね。」

 

 そんなこと言ってたみたいです・・・。" 星野仙一


1947年1月22日 日本 - 岡山県

元プロ野球選手、元プロ野球監督、野球解説者、

阪神タイガースオーナー付シニアディレクター(2008年現在)