学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや
論語
学んだことをたびたび復習する、楽しいことだねって意味である。
「勉める」ことを「強いる」二つ合わせて「勉強」という。
だから何かの為になかば強制的に学ぶことを勉強という。
テストのため、受験のため、仕事のためなどで学ぶことは勉強である。
強制的であるから苦痛が伴う。
だから非常につまらなく思う。
だが学問とは本来、知りたい一心で、一銭にもならないが、向学・向上の心から、楽しんで学んで、面白いからもっと知りたいのでどんどん質問する。
「先生!何故そうなるのですか?」
「先生!ここはどうなんですか?」
このような姿勢を「学び」そして「問う」二つ合わせて「学問」というのである。
師曰く、これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。 これを好む者は、これを楽しむ者にしかず。 論語
先生が言われた。これを知っててやってる人は、好きでやってる人にはかなわない。これを好きでやってる人はこれを楽しんでやってる人にはかなわない、って意味である。
だから常に創造的であるために勉強ではなく学問でなければならない。
性は相い近し、習えば相い遠し 論語
人が生まれたばかりの頃はそんなに差はないが、教育によって雲泥の差が出来る、って意味である
「習う」と言う字を解字してみると、「白」の上に「羽」と書く。
「白」は鳥の胴体で「羽」をバタバタとしている様子を象形化したものである。
即ち雛鳥が親鳥の真似をして飛び方を練習しているのが「習う」という字なのである。
そして「慣」を解字してみると、「りっしんべん」は心と云う意味があり、「貫」は貫く(つらぬく)。
だから「習」ったことを「貫」く「心」を持つ。
これが「習慣」の意味である。
つまり習慣そのものが教育なのである。
この手本となるのが親である。
「親」を解字してみると、「木」の上に「立」って「見」るという字である。
木の上に立てば周囲がよく見えて遠くまで見渡すことが出来る。だから子供に
「そっちは穴があるから落ちるなよ」
「そっちは狼がいるぞ」
「そのまま真直ぐ行け」
と高い視点から子供を導く、またそうでなければならないって云うのを「親」と云う字が教えてくれる。
以上のように我が国の教育は、字の意味即ち「字義」を通して人は如何に生きるべきか、如何にあるべ
きかを示し、人が本来持ってる「徳」を教え「育」む「徳育」を教育と云った。
我が国の文化は、儒教によって人としての理想像を教え、苦しみ悩みからの救いを仏教に求め、人生の
無事安全を神々に祈る、実に調和のとれた文化なのである。
このような文化的土壌から我が国独自の教育論が形成されているのである。
これが日教組(日狂組)やフェミニストに言わせると
「価値観の強制だ!」
「子供にも人権があるんだ」
「自由と個性が大切だ!」
「自分のことを、そうである『べき』だなんて自己規定するなんて良くないわ」
となる。
日本で生まれた日本人である以上、その価値観を教えるのは当然じゃないか?
子供は人じゃなく人の卵なのである。だから成長して「成人」することを「人」と「成る」と書くのである。人権がどうのこうのは後の話である。
自由と個性の前に、人としてあるべき規範を教えるのが先である。
人は「こうである『べき』だ」と自己規定出来るぐらいの意志の強さがないから。秩序が乱れ犯罪が増加するのである。
まったく以て本末転倒甚だしい。
自由と個性を主張し、自己規定出来ない意志の脆弱さが「女にモテなかったから」といってあの秋葉原
事件での惨劇が起きたのではなかろうか?
臣、その君を殺し、子その父を殺す。一朝一夕の故に非ず。その由って来たるところのもの、漸なり。これを早く弁(わきま)えることの早く弁えざるによるなり。 易経
臣下がその君主を殺したり、子がその父親を殺したりするのは急にそうなったのではない。徐々に徐々にそうなるのである。それを早く考えておかなかったからそうなったのだよ、って意味である。
仏教では心を大地に例える。そして、今自分の前で起こってるすべてのことが種である。それが縁に触れて花開き自分の行動となる。
だから善い種を蒔けば縁に触れて美しい花を咲かすだろう。
毒草の種を蒔いたら毒草しか咲かないのである。
だから親や教育者が善い種を出来るだけ沢山蒔いてやるのである。
こう云うことが分からないのが親をやってる場合が多い。
ちょっと前に本屋に行ったとき百人一首フェアなるものをやっていた。
それを見ていたとき、四・五歳ぐらいの女の子が
「わぁー、きれい」
と駆け寄ってきて百人一首の本を持った。
するとその子の両親が来て
「あ、まだこれは難しいからね。」
と言って本を取り上げてしまった。
何たる馬鹿親だ!
自分が難しいからって、子供もそうだと思うんじゃない!
こう云うときは、
「ほんとだね。何が書いてあるのか一緒に読んでみよう」
こう言って一緒に読んでやるべきだ。
子供は子供なりに考えるのである。
自分が馬鹿だからって子供も馬鹿だと思うな!
そうすればきっとその子は百人一首が好きになったろうし、また縁に触れて百人一首に出会ったときに本人は忘れてても、親と一緒に読んだ楽しかった印象気分が百人一首に興味を引かせるだろう。
せっかく子供が興味持ったのである。その「時」を掴むのである
これが種を植えると云うことである。
このようにまず親が、教育者が、学問を知らなければならない。
大道廃れて仁義あり 老子
正しい世の中が廃れてしまったからこそ、ことさら仁だの義だの云わなければならないのだ、って意味である。
この混濁の世だからこそ幼児から徳を育む教育が必要なのである。
勉強はそれからでも遅くはない。
故(ふる)きを温め、新しきを知る 論語
この幼児という大切な時期に英語なんかやってる場合じゃない。
大道はすでに廃れている。
教育の有り方を、親のあり方をよくよく見つめ直さなければならない。
(-_-メ
論語
学んだことをたびたび復習する、楽しいことだねって意味である。
「勉める」ことを「強いる」二つ合わせて「勉強」という。
だから何かの為になかば強制的に学ぶことを勉強という。
テストのため、受験のため、仕事のためなどで学ぶことは勉強である。
強制的であるから苦痛が伴う。
だから非常につまらなく思う。
だが学問とは本来、知りたい一心で、一銭にもならないが、向学・向上の心から、楽しんで学んで、面白いからもっと知りたいのでどんどん質問する。
「先生!何故そうなるのですか?」
「先生!ここはどうなんですか?」
このような姿勢を「学び」そして「問う」二つ合わせて「学問」というのである。
師曰く、これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。 これを好む者は、これを楽しむ者にしかず。 論語
先生が言われた。これを知っててやってる人は、好きでやってる人にはかなわない。これを好きでやってる人はこれを楽しんでやってる人にはかなわない、って意味である。
だから常に創造的であるために勉強ではなく学問でなければならない。
性は相い近し、習えば相い遠し 論語
人が生まれたばかりの頃はそんなに差はないが、教育によって雲泥の差が出来る、って意味である
「習う」と言う字を解字してみると、「白」の上に「羽」と書く。
「白」は鳥の胴体で「羽」をバタバタとしている様子を象形化したものである。
即ち雛鳥が親鳥の真似をして飛び方を練習しているのが「習う」という字なのである。
そして「慣」を解字してみると、「りっしんべん」は心と云う意味があり、「貫」は貫く(つらぬく)。
だから「習」ったことを「貫」く「心」を持つ。
これが「習慣」の意味である。
つまり習慣そのものが教育なのである。
この手本となるのが親である。
「親」を解字してみると、「木」の上に「立」って「見」るという字である。
木の上に立てば周囲がよく見えて遠くまで見渡すことが出来る。だから子供に
「そっちは穴があるから落ちるなよ」
「そっちは狼がいるぞ」
「そのまま真直ぐ行け」
と高い視点から子供を導く、またそうでなければならないって云うのを「親」と云う字が教えてくれる。
以上のように我が国の教育は、字の意味即ち「字義」を通して人は如何に生きるべきか、如何にあるべ
きかを示し、人が本来持ってる「徳」を教え「育」む「徳育」を教育と云った。
我が国の文化は、儒教によって人としての理想像を教え、苦しみ悩みからの救いを仏教に求め、人生の
無事安全を神々に祈る、実に調和のとれた文化なのである。
このような文化的土壌から我が国独自の教育論が形成されているのである。
これが日教組(日狂組)やフェミニストに言わせると
「価値観の強制だ!」
「子供にも人権があるんだ」
「自由と個性が大切だ!」
「自分のことを、そうである『べき』だなんて自己規定するなんて良くないわ」
となる。
日本で生まれた日本人である以上、その価値観を教えるのは当然じゃないか?
子供は人じゃなく人の卵なのである。だから成長して「成人」することを「人」と「成る」と書くのである。人権がどうのこうのは後の話である。
自由と個性の前に、人としてあるべき規範を教えるのが先である。
人は「こうである『べき』だ」と自己規定出来るぐらいの意志の強さがないから。秩序が乱れ犯罪が増加するのである。
まったく以て本末転倒甚だしい。
自由と個性を主張し、自己規定出来ない意志の脆弱さが「女にモテなかったから」といってあの秋葉原
事件での惨劇が起きたのではなかろうか?
臣、その君を殺し、子その父を殺す。一朝一夕の故に非ず。その由って来たるところのもの、漸なり。これを早く弁(わきま)えることの早く弁えざるによるなり。 易経
臣下がその君主を殺したり、子がその父親を殺したりするのは急にそうなったのではない。徐々に徐々にそうなるのである。それを早く考えておかなかったからそうなったのだよ、って意味である。
仏教では心を大地に例える。そして、今自分の前で起こってるすべてのことが種である。それが縁に触れて花開き自分の行動となる。
だから善い種を蒔けば縁に触れて美しい花を咲かすだろう。
毒草の種を蒔いたら毒草しか咲かないのである。
だから親や教育者が善い種を出来るだけ沢山蒔いてやるのである。
こう云うことが分からないのが親をやってる場合が多い。
ちょっと前に本屋に行ったとき百人一首フェアなるものをやっていた。
それを見ていたとき、四・五歳ぐらいの女の子が
「わぁー、きれい」
と駆け寄ってきて百人一首の本を持った。
するとその子の両親が来て
「あ、まだこれは難しいからね。」
と言って本を取り上げてしまった。
何たる馬鹿親だ!
自分が難しいからって、子供もそうだと思うんじゃない!
こう云うときは、
「ほんとだね。何が書いてあるのか一緒に読んでみよう」
こう言って一緒に読んでやるべきだ。
子供は子供なりに考えるのである。
自分が馬鹿だからって子供も馬鹿だと思うな!
そうすればきっとその子は百人一首が好きになったろうし、また縁に触れて百人一首に出会ったときに本人は忘れてても、親と一緒に読んだ楽しかった印象気分が百人一首に興味を引かせるだろう。
せっかく子供が興味持ったのである。その「時」を掴むのである
これが種を植えると云うことである。
このようにまず親が、教育者が、学問を知らなければならない。
大道廃れて仁義あり 老子
正しい世の中が廃れてしまったからこそ、ことさら仁だの義だの云わなければならないのだ、って意味である。
この混濁の世だからこそ幼児から徳を育む教育が必要なのである。
勉強はそれからでも遅くはない。
故(ふる)きを温め、新しきを知る 論語
この幼児という大切な時期に英語なんかやってる場合じゃない。
大道はすでに廃れている。
教育の有り方を、親のあり方をよくよく見つめ直さなければならない。
(-_-メ