小生も大好きで、独眼竜で有名な戦国武将“伊達政宗(ダテ マサムネ)”
この“伊達”という字の読み方については、政宗公がローマ法皇に当てた手紙には“idate”と記されていたことから、当時は“イダテ”と読まれていたことはわかっているのですが、小生にはまだ釈然としない点があるのです…
その昔、伊達家の所領とその近隣の地名は次のように呼ばれていました…
(そのうち政宗公が誕生した頃の伊達家の直轄領地は、置賜郡・信夫郡・伊達郡)
伊具郡(イグゴオリ)
伊達郡(ダテゴオリ)
安達郡(アダチゴオリ)
ここであれ?と思ったわけです。
“伊達”と言う字が当時“イダテ”と呼ばれていたのならこの“伊達郡”という地名も“イダテゴオリ”と呼ばれていたのでは?
そもそも伊達家は、この伊達郡を治めたことから始まっています。
そして、お気づきの方もいるかと思いますが、伊具と安達に挟まれた場所が両方の字が当てられ(逆もしかり)“伊達”となっています。
伊具はおそらく“イグ”と呼んでいたと思うので「伊」はそのまま「イ」と読むのだと思います。
あ、それならやっぱり隣の伊達郡も“イダテ”だったんですね!
…て、ちょっと待ってください!
その隣の“安達郡”の読みは??
今の“アダチ”という読みのままであれば、“伊達”との整合性が取れないんですよ…
この流れでいくと、“安達”という字は“アダテ”と読まれていたのか…
はたまた“伊達”という字が今とは全く異なる“イダチ”と読まれていたのか…
謎は深まるばかりです(^◇^;)
余談ですが、よく“伊達者”とか“伊達巻”は伊達政宗が語源という説がありますが、上記からそもそも伊達政宗の伊達は当時“ダテ”とは読まれておらず、おそらく京辺りで派手という意味でダテという言葉があり、ダテモノや、ダテマキなるものは既にあったように思います。
そして、そのダテという言葉の意味と伊達政宗の立ち振る舞いが重なり、ダテという言葉に“伊達”を充てて、イダテ政宗の伊達も“ダテ”と読むようになっていったのではないか…というのが小生の考察です。