先週末、祖父の納骨のため家族で京都に向かった。

祖父が亡くなってからもうすぐ7年になる。

どうして納骨までにこんなに時間がたってしまったのか?

私には今この時期がタイミングだったように思う。


祖父はとてもやさしい人で

いつも厳しかった祖母より

私は祖父が好きだった。

両親は共働きで一緒にいた記憶はほとんどなく

いつも祖父と祖母と一緒にいた。


私は小2の時とても大きな交通事故にあった。

退院した後も歩くことができなかった私は

母が仕事に行くときに

祖父と一緒に病院へ送ってもらいリハビリをうけた。

母はとても早くから仕事に行っていたので

まだ病院は開いていなくて

祖父と一緒に病院の外で待っていた。

リハビリの後、祖父がバスで私を小学校までおくり


ちょうどいい時間のバスがない時は

少しでも早く私が学校に行けるように

タクシーで送ってくれたこともあった。

私を学校までおくると

祖父は自転車で家に帰っていく。

祖父の自転車は

母よりももっと早く家を出て仕事に行っていた父が

仕事前に祖父の自転車を小学校前におろしていった。

父が仕事で帰ってこれない時は

母が小学校によって自転車をおろして

私と祖父を病院までおくってくれた。


小学校がおわるころ

いつも祖父が校門前に待っていてくれた。

私を迎えにまた家から自転車でくる祖父。

私の実家はとても田舎なので

家から小学校まで歩いて50分くらい

自転車で片道30分はかかる。

冬は雪がたくさん降るとても寒いところで

雪が多かったり、道が凍ってしまうと自転車では帰れなくて

祖父は私を自転車にのせ

その自転車をおしながらゆっくり歩いて帰ったこともある。

毎日私を送り迎えするうち

祖父は体をこわしてしまった。

今度は祖母が送り迎えに来てくれた。

そしてまた体調が戻ってくると

祖父が迎えに来てくれた。



私が中2のとき

祖父は突然倒れ脳卒中になってしまった。

右半身が麻痺し、話すことも

自由に動くこともできなくなってしまった。

家族での介護生活がはじまった。


父は仕事でほとんど家に帰ることができず

母は仕事が忙しく夜も遅かったため

祖母と兄と私の3人で

祖父にご飯を食べさせ、排泄をさせ

おむつをはかせ

母が仕事から帰ってくると

お風呂にもいれ、寝かせる毎日が続く。


祖父と祖母はよくケンカをしていたが

祖父が悪くなってからもよくケンカをしていた。

私は中2だったこともあるが

祖父におむつをするのが恥ずかしかったり

祖母の機嫌をそこねないように

祖父の排泄や食事の面倒をみる日々に

とても疲れてしまった。

両親は仕事が忙しく

祖母は祖父の面倒をみながら愚痴をこぼし

女の子は家のことをするのが当然と言われ

兄も友達と遊びに行くが

私は祖母が怖くて家をでることができなかった。

いつ祖父と祖母がケンカをするかハラハラしていた。

あんなに大好きだった祖父なのに

心からお世話できなかったり

イライラしてしまったりする自分がいた。

物心ついたころからなぜか

大きくなったら看護婦になると

ずっとそう決めていた私は

誰かのために~という気持ちが

とても偽善に思えて自分が大嫌いになってしまった。

私みたいなのが看護婦さんになったらあかん。

もっと心から人のために~と思える人がなるべき。

私は幼いころからもっていた夢もなくしてしまった。


すごく絶望したが

そのおかげで

誰かのために~ではなく

自分がほんまに好きなことをしようと思えるようになった。


私が高校生になったころ

母方の祖父も介護状態になり、

その看病をしていた母方の祖母が体をこわし亡くなってしまった。

母はとても強い人であったが

自分の親が亡くなったのに

自分は親の面倒も見れず

嫁いだ先の親の面倒を見続け

祖母とのあつれきに苦しみ

一度だけ涙をながす姿を見たこともあった。

家族が崩壊する・・・そんな危機を毎日感じて暮らしていた。



私が大学生のころ

母が仕事を辞めた。

それまで母が家にいることがなかったのに

母がいることで

私はすっかり母に何もかも任せっきりになってしまった。

はじめて安心して暮らせるようになった。

アルバイトにばかりあけくれていたある日。

いつものように2階の自分の部屋で寝ていると

夜中に目が覚め

それから何度寝ようとしても寝れなくなり

この部屋では寝れない!

そう思いふとんを抱えながら下におりた。

なぜかその時

祖父の横にふとんをしき祖父の横で寝た。ぐっすり寝れた。

明け方、何やら騒がしくて目が覚めると

祖父は私の横で静かに亡くなっていた。


死因は肺炎による窒息死だった。

私が祖父の横に寝てからしばらくして息をひきとったと聞き

家族や親族の人たちは

祖父が私を呼んだ

と言った。

私もそんな気がした。


私は祖父の死から

ますます自分がゆるせなくなってしまった。

家族のみんなも近所のみんなも

祖父は孫である私を特別かわいがっていたと話す。

祖父が死んでから祖母から

おじいちゃんははあんたが保育園や学校に行くようになって

さみしくて泣いてたんやで

それぐらいあんたをかわいがってたんやで

と聞いた。

そして父や母から私が交通事故にあった時の話も。


私は祖父に何もできなかった。

何もしなかった。

母に任せっきりで

面倒くさがって逃げていた。

祖父が私にしてくれたことを思えば

申し訳なくて申し訳なくて・・・

私はなんて身勝手なんやろう。

祖父にかわいがってもらうようないい子なんかじゃない。

私は汚い卑怯者。恩知らずの情けない奴。

自分がゆるせない。

亡くなってしまった今、もう大好きだよとも言えない。

祖父に対する思いと自分を責める思いがまざって

涙がとまらなかった。


祖父が亡くなって半年後

私は家をでた。


自分の夢がみつかった。

一人でがんばる

そう思ってた。


祖父が亡くなってから

実家に帰るたび

仏壇にある祖父の写真に手をあわすたび

なぜだか波がとまらなかった。



そして最近、3月

パステル和アートのイベントのアシスタントをすることになった。

アシスタントをすると決まったときは

どんなイベントかは知らなかった。

後で「介護疲れを癒そう」キャンペーンだと知る。


「介護」と聞くと

祖父がでてくる。

祖父を思うと

いまだに涙がでてくる。


イベントでは直接介護の話をすることはなかったけれど

参加されたみなさんがパステルアートを

とても積極的に生き生きと描かれる姿を目にすることができ

この充実した時間を共に過ごせてすごく嬉しかった。


このイベントが「介護」をテーマにしていることで

私も「介護」について「祖父」について

あらためて考える機会をもらえた気がする。



私は祖父に対してずっと

「ごめんなさい」

と謝り続けていることに気づいた。

祖父からたくさんの愛をもらって生きてきたのに

私は祖父に何もしなかった。


こんな私でごめんなさい

こんな私が生きていてごめんなさい


祖父にゆるしを乞う懺悔の涙やったんや・・・


ようやく自分をゆるせるようになってきたのに

「祖父」の存在が私をゆるさない。


そんな思いがあるから

私は私を責めないと私をゆるしたら

祖父に申し訳ないから。

ずっと自分を責めることで

祖父に何もしなかった自分を罰していた

自分を罰しながらも

祖父にゆるしを乞うていたんだ。



そんな自分に気づき

申し訳なくて申し訳なくて

どんどん苦しくなった。



4月になり

今日から新年度。

そんな話を旦那さんと話すうち

祖父が倒れた日も入学式の朝だったなぁ・・・

気づけば私は祖父の話をしていた。

ずっと誰にもできなかった私の祖父への懺悔を

初めて話した。

涙がとまらない・・・


でてきたものは


おじいちゃん大好き・・・


小さな私。


にっこりほほ笑む祖父の顔。



私が言いたかったのは

「ごめんなさい」ではなくて


「大好き」

だったんだ。


思えば祖父はいつもニコニコしていた。


笑顔の祖父しか知らない。


悪くなってからも

私にはいつも笑顔でにこにこしてくれていた。

それがよけいに痛かったんだ。

だから思い出さないようにしていたのかもしれない。



「大好き」て言えない。


私はそんなこと言える資格なんてない。


ずっとそうやって自分を抑えてた。


でも私は祖父が大好き。


自分を責めないで

生きていることをわびるのではなく

これから生きて

自分を責めない生き方をしよう



次の日、私はなんだかすっきりしていた。

涙ながらに話す私を見届けてくれた旦那さんが

「うれしかった」

「ありがとう」

と言ってくれた。



4月6日。


この日ようやく祖父の納骨を終えた。


初夏のようなあたたかさの中


桜がやさしく微笑んでくれた


祖父のように。