県は、間違いに気付いていないかもしれない···

抑圧は、反対の行動に繫がってしまう

抑圧的表現が、引き金になっている可能性はないだろうか···

“県民に指示を出す”では、“反発を招いてしまう”ので、

“県民と同じ座標に立つ”へ。

人を操作する意識は無くし、県民の抱えている負担を少しでも、減らすような、

それは決して、公的機関が代わりに背負うということではなくて、

仕組みの説明を、相手の気持ちや状況を想像し、県民一人ひとりの不安・苦しみ・それらによって発生する怒りといった、感情の負担を減らすものに、

そういった対話が、とても必要な状況であると、私は感じています



ひどく聞こえてしまうかもしれませんが、差別視は、不安の軽減と相反すると思います

抑圧的表現は、不安や緊張を助長し、思考の混乱を招きます

新しい生活様式の影響、経済不安から、不安定な心理状態にありますが、

その不安の軽減ではなく、むしろ反対である社会的要請の仕方を、

 

一方向的な表現や、道徳観を掲げる権威的な表現である場合、

思考だけでなく、行動の問題にも繫がってしまうのではないだろうか

その一つが、差別視なのかもしれない


厳しいことを、書きました


県民と対話、県民の不安に寄り添う、強権は意図しない結果を生む
何か良い変化に繋がればいいなと、書かせていただきましたm(_ _)m