竜馬がゆく(一) (文春文庫)
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●尾道の千光寺公園の展望台が美しかった
こんにちは、ゆっちです。
旅日記4日目の記録です。
4日目は、2泊したSEENをチェックアウトして、まずはじめに、前日行けなかった因島の水軍城へ。
村上水軍の歴史を勉強できました。
そのあと、本土の尾道に向かい、有名な千光寺公園の展望台に行きました。
この展望台が、かっこよかった!
●生口島の平山郁夫美術館へ
こんにちは、ゆっちです。
旅日記の続きです。
3日目の午後、タオル美術館でちいかわに癒やされた後、今治から、また、しまなみ海道を本土に向かい戻りました。
空が晴れてきた!
ちなみに運転はずっとダー様。私は助手席。
タオル美術館を出る頃、もう15時過ぎてますので、私のボディ充電池はかなり減っている〜。元気がでない〜。
だけど、一つくらいは島観光をしたいな〜。したいよ〜。
というわけで、生口島で、高速を降り、平山郁夫美術館に寄りました。
それは、彼がこの島の出身者だから。
こんなのどかな港町に生まれ育ったのですね。羨ましい。
が、しかし、そんな彼に世にも不幸な出来事が降りかかります。
広島市内の中学に進学したため、そこでなんと被爆。(涙)
被爆したはとても不幸なことですが、彼の人生に大きな影響を与え、作品にも影響を与えていることは、間違いなさそうです。
絵が好きだった平山少年は、東京美術学校に進学。
成績2番で卒業(ちなみに一番は、当時同級生の奥さまだったって)。
被爆のため、体調の悪さを抱えながらの創作活動。
でも、とっても多作で作品数が多い!
2009年暮れに79歳で亡くなられているのですが、その年も院展に出展してらっしゃいました。(毎年院展に出品していた)。
晩年でもなお、引退もすることなく、エネルギッシュに創作活動を続けていたのですね。すごい。
こちらの美術館は、撮影オッケーの美術館なのに、疲れていた私は、一枚しか写真をとってませんでした。
亀老山から見た来島海峡大橋です。
平山画伯といえば、シルクロードで有名ですが、しまなみ海道界隈の風景もたくさん描いてらっしゃいます。
しまなみ海道の橋は、全部描いてらっしゃるそうです。
さて、美術館では、画廊ちっくなスペースもあり、平山作品の版画を販売していました。
ダー様は、一枚の小さな木版画に釘付け!
本人の落款がある、生前に刷られた木版画です。
1989年、院展に出品された「高野山奥の院」という作品です。
ダー様ってば「欲しい!買う!」とのたまうのです。
実はダー様、絵が好きなのです。
我が家には2つほど、ドイツの作家の素描と版画があります。飾ってます。
美術館の販売の方も、「この人、買いそう」とわかるらしく、これがいかに貴重な版画か、グイグイセールストークしてきます。グイグイ。
お値段66万円。
あー、これは買っちゃうな〜
って思ったけど、まずは私、
「カフェでいったん落ち着いて、お茶を飲みながら決めない?」
と、ご提案。
腹ペコアオムシだった私は、カフェでついつい瀬戸内名物のレモンケーキ食べちゃった!
ダー様は島名産のオレンジジュースをぐいと飲み干し、
「じゃ、買ってくる!」
と、落ち着いて考える間もなく(笑)、意気揚々と画廊スペースに戻っていきました。
ええ、お買い上げです。
実は、作品が描かれた1989年は、私達が結婚した年なのです。
「記念になるでしょ?」と、ニコニコ言われちゃいました。
あ〜、ダー様、嬉しそう。
販売員さんは、ダー様以上に喜んでくれて(笑)、カフェの代金2000円ほどを「手前どものサービスです」無料にしてくれ、なおかつ島名産のオレンジジュース2本をお土産にくださいました。
ダー様はそのあともずっと「絵を買えて嬉しいな、嬉しいな」と嬉しそうでした。
こんなに喜んでいるなら、いい買い物だね。
平山郁夫美術館で、販売してるんだから、まさか偽物ではないでしょうし。
それにしても、サイクリング旅行だったら、ナガノ展や美術館には到底寄れなかったはず。
サイクリングを諦めたからこその、経験や出会いがありました。
無計画だからこその出会いも、楽しいね。
だけど、いつかサイクリングしたいよ〜。(サイクリングは、山同様、計画&準備必須ですね)
続く
●しまなみ海道で、サイクリングは、、、できなかったけど、ちいかわに会えた。
こんにちは、ゆっちです!
旅日記の続きです。三日目のお話です。
今回の旅の目玉は、しまなみ海道サイクリング!
のはずでしたが、、、
時間的にも体力も「かなりきびちい」と、3日前には判断して断念。あは〜。
車で今治往復になりましたあ〜。
また、いつか、しっかり準備してチャレンジしたいです。
車で、宿泊地の向島から、因島、生口島、大三島、伯方島、大島と
しまなみ海道を走り抜け
●尾道は、向島のSeasidevilla_SEENに滞在
こんにちは、ゆっちです。
旅日記の続きです。
鞆の浦を15時半頃出発し、尾道へ。
尾道では、本土で良き宿が見つけられず、島で宿を取りました。
向島にあるSeasidevilla_SEEN!
ホテルではなく、キッチン付きの1LDKです。
●坂本龍馬LOVEだった、生きづらかった高校生の私を思い出す
こんにちは、八馬ゆみ、ゆっちです。
実は私、高校生の頃は、大の坂本龍馬ファン!
きっかけはこの本。
本好きの父(高校では図書館部で、当時は全国大会もあったとか?)のおかげで、壁一面が本棚になっているほどに、我が実家にはたくさんの本があったのでした。
司馬遼太郎さんの本は全部揃っていて、その中でも、この「竜馬がいく」が、私のお気に入り。
面白くて読むのが辞められず、当時は寝不足の状態になってました。
それが続いて、テニス部を辞めたほど。(笑)
そして「龍馬研究のため、高知大学に行こうか」と一瞬考えたりもしたのでした。
それほどの竜馬ファンだった私ですが、龍馬の有名な「いろは丸事件」の交渉の舞台が、この鞆の地であったことは、す〜っかりす〜っかり抜け落ちていたのでした。
いろは丸沈没事件とは、1867年江戸末期、紀州藩の大型蒸気船が、龍馬の小さな蒸気船いろは丸と瀬戸内海で起した衝突事故が発端となった事件。
龍馬が万国公法を盾に、土佐藩や薩摩藩、世論も味方にして、粘り強い交渉の末、紀州藩から莫大な損害賠償を勝ち取ったのです。
その最初の交渉場所が、事故現場近くのこの鞆の港だったわけ。
幕末とはいえ、まだ江戸時代。
有名人とはいえ、脱藩浪人が、大藩に「そちらが悪いから、損害賠償を払え」と訴えたのですから、そりゃすごいこと!
当然命を狙われますので、こんなふうに屋根裏の隠し部屋に隠れていたそう。
↑これは、鞆の浦にある「いろは丸展示館」に再現された部屋ですが、実は、実際のお部屋も残ってます
龍馬が宿にしていた桝屋清右衛門宅。当時の豪商です。
この家には、ずっと「龍馬の隠し部屋がある」と伝承されていたそうですが、部屋が見つかったのは、龍馬の死後100年以上後の1989年。
天井板が一箇所だけ外れる箇所があり、
その奥にこの屋根裏部屋が!
部屋の真ん中の文机には、竜馬が、京都の寺田屋の女将あてに書いた手紙の複製が置かれてます。
当時の私の高校生視野では、「鞆の浦に行ってみたい」とは、思いもしなかったです。
時間はあってもお金はなかったし。
自分が「行けるとは思えない箱の中」に住んでいたと思う。
自由に憧れていたからこそ、自由な龍馬があれほど好きだったのかな。
高校時代の私は、アラカンの私に比べ、50倍くらい生きにくかったなあ。
でも、当時の私は、そんな箱の中に息苦しく住んでいたとは、気づかなくて、それが普通だと思っていました。
当時は、朝、目が覚めると「なんで、私は生きてるんだろう」と、ハラハラ涙が溢れてきたほど、生きづらさを抱えていたんだよ〜。
ぶっちゃけ、受験勉強のしすぎだっただけですが、「優秀でなければならない」「良い大学に受からねばならない」に囚われすぎていたんですね。
でも、まだ17年しか生きていない、幼い高校生の私には、「受験勉強はほどほどに」という選択肢がありませんでした。
苦しかったあの頃の私、ハグハグぎゅ〜です。
そして、今はどうだろう?
今は「とんでもなく、生きやすく幸せ」「愛され楽ちんワールド」と思っているけど、もしかしたら、まだ、透明な箱の中にいるのかもしれない。
「生きやすい」とか「愛され楽ちんワールド」も、もしかすると「制限」かもしれない。
安全で、居心地の良い幸せな制限ではあるけれど。
なんか、60代からは、想定外のコンセプトやライフスタイルがやってきそうな気もしています。
龍馬のゆかりの地で、久しぶりに高校時代の生きづらさを思い出し、今の幸せをありがたく感じるとともに、この気持ちとダー様を「安全基地」として、さらなる先に翔び立てそうな気がしてきました。
龍馬&ダー様、ありがと〜。
ちなみに鞆の浦には「いろは丸」という連絡船があります。
鞆の浦は一泊だけ。
2日目は、尾道に向かいます。
続く。
●【旅日記】1日目は、ポニョと龍馬の港町へ
こんにちは、ゆっちです。
1日目の目的地は、広島県福山市にある鞆の浦でした。
「日本一癒やされる港町」とも言われています。
また、宮崎駿監督が、長期滞在し「崖の上のポニョ」の構想をねった場所でもあります。
ポニョはこれ!
宮崎駿監督のアイデアで蘇った古民家カフェ&宿「御舟宿いろは」。
坂本龍馬が、いろは丸事件で紀州藩と交渉した魚屋萬蔵宅を再生しています。
二階のステンドグラス、外から見てもきれいです。
ポニョの恋人(?)宗介のうちのモデルとなったと言われる赤い屋根のおうちがこちら。