白黒思想 →その4 | お試しブログ

白黒思想 →その4

2013年11月1日

微かな記憶で、儒教についてブログを更新しました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11661183467.html

大きな間違いがあったので『訂正』する事にしました。


ー・↓間違い記事↓・ー


『秦国』は、景教のほか、儒教を用いて中国統一を目指しました。儒教の利点は、人々を一つにまとめる→『統一』する力を持っている反面⇔白黒思想が含まれていました。

中国を統一した『秦国』は、白黒思想が強すぎて、たったの15年で崩壊しました。儒教には、少しタルムード思想→白黒思想的な部分が含まれていました。それ以来、中国島では、儒教のほか、仏教や道教など‥取り入れました。


ー・↑間違い記事↑・ー



儒教は時の権力者により弾圧を受け続けた歴史を持ち、秦の始皇帝時代に儒者は『焚書坑儒』という 実用書以外の書物を焼き捨てさせ、生き埋めの刑に処されました。理由は新政権を始める場合、古を重んじる儒者と法治国家を目指す始皇帝の間に溝が生じたことが原因とされ、穴埋めにされた儒者は400人以上にものぼったとされています。

古くから中国において儒教は『宗教』というよりも『学問』の色が強く、科挙(国家公務員試験のような)にも導入され、古来中国では高級官僚になるには儒教を学ばなくてはなりませんでした。宗教としては『道教』が機能していたようです。

道教には、現世利益など‥吸収する作用があるので、仏教やキリスト教、マニ教など‥さまざまな宗教が含まれていました。仏教は『死後』の世に対して⇔道教は『不死』の生命を持つ仙人など‥道教は『球』⇔仏教は『苦』の宗教でありましたが⇔すでに中国の仏教は本来の『苦』から『救』へと変化しつつありました。死生観では、仏教は輪廻『転生』、儒教は招魂『再生』、道教は不老『長生』を説いたという。

ー(・・?ー・ー

本来の儒教の意味とは違う、儒教の中に進入した『世界の中心』という人民を『思想』ではなく⇔『統制』する手段に用いられる場合もありました。

中華のみなもと→中原の夏(カ)→当時、中央から外れた国々を「東夷・西戎・南蛮・北秋」といい⇔4つの野蛮の地とされていました。中央→「夏」の西外れ→戒(かい)と呼ばれた野蛮の地から「秦」は、始まりました。

秦の始皇帝は、中央を目指し、金融システム→銅貨と冊封体制、中華思想をつくる。その時、もっとも中央を目指すことに反発していたのが「楚の国」の人々でありました。彼らは根強い道教思想を持っていました。

賑わう、貧しい、財産、貯金、購買、賃貸、質屋、経費などには「貝」が登場する。「銅貨」以前の「貨幣」は、貝(カイ)であった。銅貨が流通すると「貝殻」は価値を失う。それまで「貝が主」⇔「稲は従」の人々は、稲作適地を求めて各地へと引越しする←という「貝の道」がありました。



…―…―→


もとは、「楚」と「秦」は、同じく「西戒」の地でありました。秦は、中原の夏(カ)→中央を目指していました「楚」は中央に進む「秦」に反発していました。

稲作の民→「呉」は「越」に亡ぼされ⇔「越」は「楚」に滅ぼされていました。そのため、「楚」の中には、稲作の水、太陽、蛇信仰を含む西戒の地には、「犬飼い、鵜飼い」のみなもと さまざまな「龍信仰」が含まれていた。彼らは、着物に『しっぽ』をつけて、わたしたちの祖(おや)は犬だ‥と言っていました。彼らは、東西南北⇔吸収と分散をして行きました。

本来の儒教の意味とは違う、儒教の中に進入した『世界の中心』→『世界の警察』という人民を『思想』ではなく⇔『統制』する手段に用いられる場合もありました。

という事でした。

しかし、今回の訂正ブログも、間違いかもしれないけど、また更新しました。



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