行基の足跡 →その4
「お兄さん、
わたくしも、
鎌倉駅に、
入れては、
もらえませんか‥」
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- 1185年 (元暦2年)、
壇ノ浦(だんのうら)で平家を亡ぼした弟・源義経 (よしつね)は、兄・源頼朝 (よりとも)に、ひざまづきました。しかし、兄は弟の鎌倉入りを許しません。
『腰越駅』の近くにある満福寺(まんぷくじ)には、弟・源義経 (よしつね)が兄・源頼朝 (よりとも)の許しを請うため切々と記した嘆願文→「腰越状」を書いた寺として有名になりました。
結局、弟・源義経 (よしつね)は、鎌倉入りを許されづ、京都に戻り、奥州藤原氏のもと、東北地方へと逃げました。その後、兄・源頼朝 (よりとも)との仲はさらに悪化し、ついには、弟・源義経 (よしつね)捕縛命令が出される。義経は逃亡の果てに奥州藤原秀衡を頼るが、秀衡亡き後、頼朝を恐れた秀衡の子・泰衡に攻められ自刃した(1189年(文治5年)4月30日)。
最期(さいご)は、首だけの姿となって『腰越』の満福寺に戻ってくることになりました。満福寺には「腰越状」の下書きが今も残されているとされ、鎌倉でも最も古い寺院の1つで、創建は 744年、 開基は 行基、 本尊は 薬師如来になっているという。
ー(・・?ー・ー
そこで少し‥気になる部分がありました。
弟・源義経 (よしつね)は、鬼退治したにも関わらづ『おに』になっている事もそうですが、萬福寺(まんぷくじ)の創建は、奈良時代の744年、開基は、東大寺・大仏建立時の労力を集めた行基(ぎょうき)でした。そして、腰越駅には『こし』が2つ隠れていました‥その後ろには『百』があるような気がしました。
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神奈川県川崎市麻生区百合丘という町に、小田急・百合丘(ゆりがおか)という駅がある。
百合丘の語源は、まだはっきり解らないとされていますが⇔その中一つに、100人が力を合わせて作った丘→百合丘という説があります。自分もしばらくの間、その町に住んでいて、坂道が多い町であるため、「丘」がついていると思いました。しかし、少なくとも、200人、300人は、間違いなく住んでいました。
やはり‥その後ろにも別の『百』があるような気がしました。
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百合丘駅のとなりに、小田急・新百合丘駅がある。しかしその地名は、神奈川県川崎市麻生区万福寺になっています。
その、新百合丘という駅名は「あだ名」で⇔『本名』は万福寺(まんぷくじ)だという事を紹介してみました。
万福寺(まんぷくじ)の正式名称は、萬福寺(まんぷくじ)です。万福寺/萬福寺は、全国各地にある。そして、萬福寺の本店は京都にありますが有名な萬福寺は鎌倉にあります。
万福寺/萬福寺も、『お茶』に関する寺です。
そのほか、百合丘と万福寺は、高石と接しています。この「高石」は『こし』と関係しているのでは ? と‥思う事がありました。
また、百合丘はいま、川崎市麻生区百合丘になっていますが、その昔は川崎市多摩区百合丘になっていました。またまた、多摩区はむかし、橘樹郡(たちばなぐん)と呼ばれていました。 http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E9%83%A1
むかし、今の川崎市の西側は橘樹郡(たちばなぐん)⇔東側は荏原郡(えばらぐん)』と呼ばれていました。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8F%E5%8E%9F%E9%83%A1
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そこで再び‥あの時の http://ameblo.jp/yuukata/entry-11764023941.html 続きをしてみます。
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行基の行う本当の社会主義をお手本として、聖武天皇は東大寺・大仏建立を行いました。聖武天皇の后(つま)が光明皇后でありました。その、聖武天皇の后・光明皇后の母親の名前は→
県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなみちよ)さん、で元は橘(たちばな)氏でありました。
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668 (天智7 )年
河内国大鳥郡蜂田郷家原で、行基(ぎょうき)は生まれました。
父・高志才智、母・蜂田古爾比売といい、母方の家原(えばら)寺で行基は育ちます。
行基が生まれた時の河内国は、まだ1つ国で、その後、河内国は「和泉国、摂津国、河内国」の3つ国に分別しました。その3つ国の境界線が、今の大阪府堺市家原にあったといいます。 *その頃の河内国には、百済系・漢人(あやひと)がたくさん住んでいました。-
行基の生まれたのが、家原(えばら)寺で近くには、大鳥社がありました。
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今の東京都大田区には、『鵜の木駅』があり、近くに古くから残る『光明寺』があります。そして、鵜の木駅近くでは、全国・鵜の木祭りが開催されている。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8F%E5%8E%9F%E9%83%A1
- 東京都大田区は昔、荏原(えばら)郡の中にあり、また大田区には、大鳥居駅という駅もあります。
鵜の木祭りは、『白鳥伝説』に通づるお祭りです。家原(えばら)と荏原(えばら)大鳥 ? 光明 ?橘氏 ? ⇔ 行基の足跡が見られます。
むかし、今の川崎市の西側は橘樹郡(たちばなぐん)⇔川崎市の東側と東京都大田区は荏原郡(えばらぐん)』と呼ばれていました。
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- 日本古代史と朝鮮 (講談社学術文庫 (702))/講談社
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金達寿氏の「日本古代史と朝鮮」という本によると、行基の父・高志(たかし)氏は、古代朝鮮の百済から渡来した王仁(わに)系氏族で、王仁氏を祖とする有名な氏族には河内国を拠点とする西文(かわちのふみ)氏のほか、来栖氏、武生氏、桜野氏、古志(こし)氏→和泉の高師(こし)、今の大阪市高石市を本拠地としていた高志(こし)氏族もその一つで、ここには今も、王仁氏を祖神として祀る高志(こし)氏族の氏神・高石神社がある・・もしかすると??関係しているのでは?と・・記されていました。- 日本古代史と朝鮮 (講談社学術文庫 (702))/講談社
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関係しているかは?
川崎市の百合丘と万福寺に接する高石にも「高石神社」があります。
http://ameblo.jp/yuukata/entry-10756018621.html
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話は飛んでしまいますが、
万福寺/萬福寺(まんぷくじ)の本店は、京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。
日本の仏教各派の中では新しく、黄檗宗の中心寺院で、明の僧・隠元(いんげん)を開山に請じて建てられた中国色をした宗派で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。いんげん豆のインゲン豆は、明の僧・隠元(いんげん)の名に由来するという。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E7%A6%8F%E5%AF%BA
万福寺/萬福寺の開山・隠元隆琦は、中国・明時代の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。
隠元(いんげん)が明代の福建省福州府から招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。
当初3年間の滞在で帰国する予定でありましたが、いろいろ引き止められ、隠元も日本に留まることを決意し、結局日本に骨を埋めることになった。
万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍・徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、幕府によつて山城国宇治 (現・京都府宇治市)に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。寺の名前は、故郷・福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられた。 *江戸時代の事である。
京都府宇治市には、今も、黄檗(おうばく)駅など‥名残があるといいます。
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- 江戸時代と鎌倉時代と奈良時代と現代と、だいぶ離れているかと?思われますが⇔とても近くに近づいています。そして今、100の足跡を消す動きが・・http://ameblo.jp/yuukata/entry-11732946949.html ・・あちこちで見られます。
- 「和服」を売っているお店は『呉服』になっていました‥
http://ameblo.jp/yuukata/entry-11085322714.html - 和の前の呉は、そのむかし「百越」と呼ばれていました・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
↑いま→むかし←遠く↓近い
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↑どこでも→ドア←ありました↓
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- ここは・・どこ?
わたし真夜中に『お茶』を