第4回 新たな住まい (仏教の流行) | お試しブログ

第4回 新たな住まい (仏教の流行)

1453年 / 日本は室町時代、
琉球国の5代目・尚金福 王が亡くなる。

尚金福 王の である志魯(しろ) である不理(ふり)が王位継承権を争い「首里城」が炎上しました。そして「志魯不理」ともに戦死しました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/志魯・布里の乱


琉球国の5代目・ 尚金福 王(5男)の「」ともに亡くなったので、弟(6男)の弟(7男)である越来 (ごえく) 王子が琉球国の6代目・尚泰久 王として即位しました。

(・・? それは‥棚からぼた餅?‥
ような お話にも見えます。



ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中




琉球国の6代目・ 尚泰久 王 (もと越来王子) は、今の沖縄市にある越来 (ごえく) 城から那覇市にある首里 (すい) 城に拠点を遷しました。

当時、首里城が本店⇔ 越来城が支店という関係でした。

越来城主(越来王子)時代の 尚泰久 には、文と武の二人側近がいました。文の側近が内間金丸(かにまる)⇔ 武の側近が鬼大城(大城勇)で、越来王子が琉球国の6代目・尚泰久 王 (首里城主) として即位すると同時に鬼大城(大城勇)が越来城主になりました。
首里城主・ 尚泰久 ⇔ 越来城主・鬼大城

実は、 越来城主時代の 尚泰久は、 文の側近・内間金丸(かにまる)を 志魯不理の乱」が起きる前に首里城に送り込んでいました。見方を替えると? 隠密(おんみつ / スパイ)のようにも? 見えます。


ー(・・?ー・ー


このお話はとても複雑ですが、
越来城主時代の 尚泰久は、陰謀に「いんぼう」を重ねて王になりました。  http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11535380082.html  その陰謀(いんぼう)は、首里城主(琉球国王)になった後も続きます。

志魯不理の乱」から5年後の1458年8月、今度は「護佐丸阿麻和利の乱」が勃発した。護佐丸は 尚泰久の妻の父親阿麻和利は 尚泰久の娘婿という関係で政略結婚でした。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/護佐丸・阿麻和利の乱

尚泰久の父親・尚巴志が 北山国 ⇔ 中山国 ⇔ 南山国 3つ三山国に分別していた琉球を統一しましたが、当時まだ、北山国の残党がはびこる不安定な時代でありました。


尚泰久が 首里城主、鬼大城が越来城主護佐丸は座喜味城主、阿麻和利は勝連城主という関係で、すべて元・中山国の範囲で元・北山国の残党を警戒していました。 越来城は 座喜味城と勝連城の中間地点にあり、双方を監視しつつ北山国の残党を警戒していました。


尚泰久が 首里城主(琉球国王)になると、 護佐丸は座喜味城 ~ 中城 (なかぐすく) 城に拠点を遷しました。 中城城は、首里城と越来城のちょうど中間に位置していました。

通例、城の門は警戒地に向ける事が多いのですが、 護佐丸の 中城城の門はなぜか?南(首里城)に向いていました。

1つ説として、
中城城の門が南(首里城)に向いていた事に 驚いた  首里城主・尚泰久は、勝連城主・ 阿麻和利 中城城主・ 護佐丸を討たせました。そして、越来城主・鬼大城に →勝連城主・ 阿麻和利を討たせました。今では信じられないお話でありますが、兄弟どうし身内どうし亡ぼし合う時代でありました。

陰謀に「いんぼう」を重ねて王になり、その後も自分の権力を脅かす岳父 護佐丸 と娘婿・ 阿麻和利を失った 尚泰久は、後ろめたさ、怨霊信仰から仏教に帰依しました。 尚泰久は 歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥しました。

記録に残るだけでも三十口ほど、梵鐘が短期間で大量に鋳造され、わずか一時期、一地域でこれほどたくさんの梵鐘が鋳造されたのは、日本の歴史上に比べてもきわめて希有な時代でありました。


その梵鐘 (ぼんしょう) の中には、通称・万国津梁の鐘 (かね) と呼ばれ、首里城の正殿に掛けられた鐘も含まれていました。


その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれていました。

碑文(漢文)の鐘銘を書いたのは、 京都五山僧の 渓隠安潜(けいいんあんせん)と禅僧、鐘を造ったのは、藤原国善という鋳物師でありました。



ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中




内容は複雑になってきましたが、
琉球国の5代目・尚金福 王が亡くなり、志魯不理の乱」が起きた1453年 ~ 3年後の1456年に大量の梵鐘が造られました。

(・・?  少し気になるお話として?

1450年に芥隠承琥 (かいいんしょうこ) という京都五山派の僧侶が琉球国(沖縄島)に来ていました。https://kotobank.jp/word/芥隠承琥-1064256

1453年の志魯不理の乱」、
1458年の「護佐丸阿麻和利の乱」が勃発した時代よりも前の時代 (1450年) に芥隠承琥 (かいいんしょうこ) は来沖していた事が気になります。

芥隠承琥 (かいいんしょうこ) は、京都南禅寺の臨済宗(禅宗)の僧侶で、はじめ薩摩の川辺にあった宝福寺に一時滞在したあと、琉球に来た‥と、文がある。

ー↓ー

遂(つひ)に景泰年中、海を踰(こ)え漠を越え、遠く慈(こ)の土(くに)に来たり、法求人と為る。始め‥‥‥」と、いう文章を残しています。

景泰年間( 尚泰久の時代 )に建てられた鐘(かね)のある寺院は、すべて開山・ 芥隠承琥(かいいんしょうこ)、 開其・尚泰久という具合で、鐘の鋳造がどこで行われていたかは定かではなく、鐘の銘文の作者はすべて 渓隠安潜(けいいんあんせん)でありました。

渓隠安潜は、琉球の「相国寺」の住持でありました。実は、京都の五山にも「相国寺」という同名の寺院があった事から、何らかの関係があったという説もある。

その時代は宗教文化はもとより、外交まで「五山僧」が指導的地位を占め当時の僧侶は、宗教家であると同時に、政治家、外交官など‥役割をしていました。



━↓─━ドア─扉─ドア━─↓━



室町幕府の初代将軍・足利尊氏もまた、最も仏教に帰依した一人でありました。

足利尊氏は何度も自害を図ろうとしていました。それは、足利尊氏が亡ぼした後醍醐天皇の怨霊に悩まされていたからです。

秘密のお話として、
室町時代~江戸時代まで、藤原北家(北朝)⇔ 明治時代~藤原式家(南朝)に交替しました。室町時代の前に京都の室町幕府(足利尊氏)が「北朝」⇔奈良の吉野朝(後醍醐天皇)が「南朝」という南北朝時代がありました。足利尊氏(たかうじ)の本名は、足利高氏(たかうじ)といい、後醍醐天皇の即位前の呼び名 → 尊治親王の「尊」を引き継ぎました。

足利高氏 → 足利尊氏は、明治時代(南朝復古)以降に『逆賊』と呼ばれ室町時代に通じる「西陣織」という織物も『逆賊織』と呼ばれた時代がありました。それは、足利尊氏が後醍醐天皇を亡ぼし、後醍醐天皇(尊治親王)の「尊」という名前を使用していたから?‥思われます。しかし、見方を替えると、足利高氏(たかうじ)ではなく ⇔ 足利尊氏(たかうじ)として生きたのは、 後醍醐天皇(尊治親王)の「尊」という名前を引き継いでいた‥亡ぼした霊魂(たましい)を背負って生きた‥と、いう風にも見えます。また、足利尊氏が怨霊信仰 →「謝罪の心」を持っていた事が明治維新 (南朝復古)にも通じています。その危険なお話は、ずっとづっと →「ゆめ」のままで → http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11324674320.html


ー(・・?ー・ー


話は飛んでいますが、
足利尊氏が帰依した僧侶の名前は、 夢窓疎石(むそう そせき)という僧侶でした。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/夢窓疎石

夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧でした。


ー(・・?ー・ー


これまでの文章を振り返ると?‥とても気になる事が1つ、2つあります。当時の沖縄島と日本島は違う国でありました。

また、折口信夫(しのぶ)氏によると、琉球国の5代目・尚金福 王→6代目・ 尚泰久 王の父親・尚巴志 王の祖(おや)は『名和氏』という説があります。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/第一尚氏

鎌倉幕府を亡ぼそうとした後醍醐天皇は、一時鎌倉幕府の北条氏によつて「隠岐の島」に流されました。その 「隠岐の島」から後醍醐天皇を脱出させて、奈良の吉野に隠居させたのが『名和氏』でありました。

名和氏は、その時の恩賞として伯耆国八代~肥後国八代に遷りました。そこで、菊地氏と衝突し、宇土→九州島の佐敷→沖縄島の佐敷に拠点を遷したといいます。つまり、尚泰久の祖(おや)→『名和氏』は「南朝」の人です。


ー(・・?ー・ー


再びあせる話は飛んでしまいましたが、
渓隠安潜が住持していた沖縄島の「相国寺」と日本島の「相国寺」が通じていた?‥と、すると‥琉球は北朝なのか?南朝なのか?疑問が登場します。

その後も、不思議な出来事が続きました→

越来城主( 越来王子)時代の 尚泰久 には、文武の二人側近がいました。武の側近が鬼大城(大城勇)⇔文の側近が内間金丸(かにまる)でありました。何かが?‥交替します→

ー・ー

その前の時代を見ても、日本列島、朝鮮半島、中国島など‥「大転換期」が起きていました。日本列島では南北2つの朝廷、朝鮮半島では王氏高麗~李氏朝鮮、中国島は元~明という時代で、平家の落人、南朝の落武者、亡命高麗人、漢民族など‥乗った船がありました。

内側だけ見ると気づかない事、

視野を広げて見ると、

やはり、「光と蔭」が通じていた事が解るような?‥そんな予感がしました。

しかしあせるそれは‥