第 53回 『もう説』の東アジア史 (表玄関と裏玄関と → ) | お試しブログ

第 53回 『もう説』の東アジア史 (表玄関と裏玄関と → )


日本人に1度は訪れたい町、1位は京都府、7位くらいに奈良県が入っていました。

 ⇔ ところが!

ある方の本によると、日本人はなぜ?‥『大和魂とか大和撫子 (ヤマトナデシコ) 』とは言うものの ⇔『山城魂とか山城撫子』とは言わないのか?‥ そして、どうして?‥『ヤマト宮廷』ではなく ⇔『ヤマト朝廷』と言うのか?‥ 載っていました。


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ヤマト朝廷の主導豪族 (貴族 / 官僚) は、
葛城族 (賀茂氏など‥ ) → 大伴軍 (久米部と佐伯部) → 物部軍 (蘇我氏など‥ ) → 中臣氏 (後の藤原氏) → 続いています →

林屋辰三郎氏によると、
10代・崇神帝 (三輪王朝) が始まると、これまでの「葛城王朝 (初代~9代)」は、南の大和国から北の山背国 (南山城)に隠凄 (引越し) して、亡命政権を築いたといいます。

「日本書紀」には、
10代・崇神天皇の皇子 → 豊城入彦命を毛野国 (けぬこく / 後の上野国と下野国) に派遣し、その経営に携わったと伝えられ、 その子孫が上毛野氏 (かみつけぬうじ) で、古代に上毛野地域 (今は群馬県)を拠点とした豪族である‥ という皇別氏族伝承が記載されています。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12006957897.html 大和国 → 近江国→ 山城国の葛野郡とか愛宕郡とか? 葛城族と阿多の子 (久米部が多い) とか? http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11994656910.html 関連があったと思います。

やはり! そのカギを握るは 近江毛野 臣 (おうみのけな オミ) !



ー(・・? ー・ー



527 (継体21) 年
ヤマト朝廷 (26代・継体朝) の令により、軍事隊長・近江毛野 臣 (おうみのけな おみ) は、6万の軍勢を率いて 朝鮮半島南部の経営権 (鉄資源など) をめぐり朝鮮半島へ出兵しようとした。


ところが、近江毛野 臣 (ヤマト朝廷軍) の進軍を九州島を支配する筑紫の君・磐井が阻 (はば) みました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12002475559.html  

翌年 528 (継体22) 年11月、
ヤマト朝廷は、軍事隊長・物部麁鹿火 (もののべのあらかひ) を九州島に派遣し、九州島北部を支配する筑紫の君・磐井を鎮圧したという。*時の勝者・日本島 (物部軍) ⇔ 敗者・九州島 (磐井軍)、 この戦争を『磐井の乱』 と呼ばれています。



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九州島を平定したヤマト朝廷軍は、その後 → 朝鮮半島へと向かいました。


ヤマト朝廷は、朝鮮半島の南にあった伽耶 (加羅 / 任那) と同盟関係にあり、近江毛野氏、大伴氏、物部氏らが軍事面の指揮官となり新羅と戦い ⇔ 敗れました。


そしてヤマト朝廷は、朝鮮半島での経営権 (鉄資源など‥ ) → 最後の拠点であった伽耶 (加羅 / 任那) を失いました。

その時の政治問題で失敗した近江毛野氏と大伴氏は「衰退」して ⇔ 大連・物部氏と大臣・蘇我氏が『出世』して行きます→


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当時のヤマト朝廷軍を分析すると、
大伴氏と物部氏は武士 (エリート部隊) ⇔ 近江毛野氏は兵士 (前線部隊) であった。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12006957897.html

さらに、

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12075065160.html 大伴軍は 「海色」 ⇔ 物部軍は 「駒色」 をしていた。*大伴氏の後ろには久米氏 (旧勢力 / 海色) ⇔ 物部氏の後ろには蘇我氏 (新興勢力 / 駒色) がいた。

近江毛野 臣 (おうみのけな オミ) は近江国の人ではなく毛野国の人 → もとは毛野君 (キミ / 公) であったが近江国 (ヤマト朝廷の拠点) の臣下 (しんか) となって近江毛野 臣 (おうみのけな オミ) という名前になった‥ と、『もう説』を立てて見ました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12007925547.html  *当時のヤマト朝廷の拠点は大和国ではなく ⇔ 近江国

大伴軍 (海色) > 物部軍 (駒色) > 近江毛野軍 (一時的な軍事同盟) という格があったように思われます。*当時の日本は、一つの国」 ではなく ⇔『連なる邦』であった。



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ヤマト朝廷軍は、もともとあった内紛を抑えつつ、回り国群と同盟関係を結び 九州島 → 朝鮮半島へと向かっていました。

もともとあった内紛とは、
26代・継体天皇は、通例とは異なり大和入りせづ、越の国で即位し、その前の25代・武烈天皇が「日本書紀」で悪く記されていました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12005766027.html


26代・継体帝が亡くなった後、 短期間で27代・安閑帝 → 28代・宣化帝 → 29代・欽明帝と続きます →

あれほど!「日本書紀」で悪く記されている25代・武烈天皇の血筋 → 29代・欽明天皇に再び戻っている事に注目して見ました。

26代・継体天皇の父親は近江国の人、母親は越の国 (日本海) の人、后妃 (きさき / 妻) は尾張国 (太平洋) の人でした。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12006957897.html *26代・継体天皇には複数の后妃がいた。

25代・武烈天皇 (拠点は大和国) → 26代・継体天皇 (拠点は近江国) → 29代・欽明天皇 (拠点は大和国) になっていました。

ヤマト朝廷の拠点 → 大和国と近江国は海がなかったので、大和国+河内国 (瀬戸内海勢力) ⇔ 近江国+越の国 (日本海勢力) という仕組みがあったように思います。


*後ほど河内国は、河内国、摂津国、和泉国に分別しましたが、当時は一つ河内国で、瀬戸内海 → 河内国 → 大和国というルートがありました。

 ⇔ ところが!


http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12002475559.html 九州島を支配していた筑紫の君・磐井が『関門海峡』を封鎖しました。


25代・武烈天皇 (瀬戸内海勢力) → 26代・継体天皇 (日本海勢力) になった背景に通じるかもしれません。*25代・武烈天皇と26代・継体天皇の『烈と継』という文字は苛烈とか中継 / 引き継ぎ、など‥ 天皇の名前としては‥ と、云われています。



ー(・・;) ー・ー



マニアックな展開になりますが、
ヤマト朝廷の『表玄関と裏玄関』がありました。それだけでなく、西国と東国、海人と駒人、山人など‥ 登場して来ます。

29代・欽明帝の時代に、ヤマト朝廷と毛野国 (けぬこく) は戦争をしていました。さらに、物部氏と蘇我氏による『崇仏廃仏論争』が起きていました。

例えば、ヤマト朝廷と毛野国 (けぬこく) は武蔵国の統治権を巡って戦争をしました。

毛野国 (けぬこく) の古墳群から、

↑ こんな感じの埴輪 (はにわ) が出土している。

古くから埴輪 (はにわ) を作ったのは『日置族』だと思われます。*日置 (ひおき / へき) 族には、土師氏、菅原氏、大江氏、比企氏など‥ 阿多と思います。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12005766027.html

(・・? 武蔵国には比企郡がありました。そして、武蔵国の日高市には高麗神社があり、近くには飯能などの地名も見られます。

実は?‥ 高麗は『駒色』⇔ 日高は『海色』をしています。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12002475559.html そして、飯能とか飯田、大飯 / 大炊など‥ 多氏 (鉱山族) と関連しています。






むかし日向国は、南九州一帯にありました。

確か?‥ 日向 → 日高 → 日立 → 東へ → 海人は阿多 (アタ / 鵜) が常世の国 (東の国) へ目指す信仰がありました。*久米部 (南方の防人) は阿多族、日置族、多い。

ついでに、あの時 → http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12061956750.html  物部氏と蘇我氏による『崇仏廃仏論争』で難波の川に棄てられた仏様を拾った本田善光は信濃国飯田市の人で、飯田市には飯田市久米という住所がありました。

久米、日置、阿多、和田 / 倭太‥ 海色している。



高麗は駒色?‥


http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12075065160.html 大伴軍は 「海色」 ⇔ 物部軍は 「駒色」 をしていた。*大伴氏の後ろには久米氏 (旧勢力 / 海色) ⇔ 物部氏の後ろには蘇我氏 (新興勢力 / 駒色) がいた。

「物部氏」は「大伴氏」の上に立つため「蘇我氏」を利用し、次第に「蘇我氏」の力が強くなったので『崇仏廃仏論争』に通じたように思われます。