■序章
カーン――…… カーン――……
株式会社TMマネキンの役員たちが、ひとりずつ順に鐘を鳴らす。
創業メンバーであり専務である轟、社長を慕っていた常務、社長にヘッドハンティングされて鮮やかな実務手腕を発揮した切れ者の部長。
厳かに五度、それぞれ異なる音色で響き渡る鐘は力強く、澄み渡り、あるいは小さくとも凛とたしかに株式会社TMマネキンの上場を告げた。
東証アローズのVIPテラスの鐘、長年使われてきただけあってその音色にも風格が滲む。背後では、ニュースでおなじみの株価を伝える電光掲示板が燦然と輝いていた。
しかし、その中には誰よりもこの日を楽しみにしていたはずの人間の姿はない。
「……前田。ついにここまで来たぞ」
沸き起こる拍手の中、一人じっと俯いていた轟はちいさく呟いた。大切な誰かに語りかけるような、痛みを堪えるような声。ややあって、ぐいと乱暴に目元を腕で拭った。
堰を切ったように、周囲の皆がそれぞれに嗚咽を洩らす。ある者は隠すこともなく、ある者は密やかに。それでも、胸に抱いた思いは共通していた。
■第一章
それは、八年前の秋のことだった。
「凄い。このプロジェクト、成功間違いなしだ……!」
たった今上がってきたばかりのマネキンの原型に触れ、前田貴一は隠し切れぬ興奮を宿した声を上げた。
スレンダーながらも日本人らしいボディラインの造形は特に美しく、垢抜けている。それでも若々しい親しみやすさがあって、事前に伝えてあったクライアントの新ブランド「CONEcT」のブランドコンセプトにぴったり合致していた。
「だろ? 特に、ここの細工は苦労したんだぜ」
このマネキンの生みの親、轟武。彼はにやりと口の端を上げて、土台とマネキンとのジョイント部分を指さした。ワンタッチで高さ調節できる金具は、一目見れば前田にも分かる。利用者の視点に立って、服の着脱をしやすいような工夫がなされていた。
前田は大きく頷いた。
「ああ。君は昔から才能があったもんな。大学の頃だって、賞を総ナメだったじゃないか」
「よせよ、褒め殺しなんて気色悪い」
轟は片手を振るが、なかなかどうして、まんざらでもなさそうだ。
すこし天井を仰ぐのは、轟の照れたときの癖である。
前田とは大学も同じなら入社も同期、はじめの頃こそ芸術家肌で分かりにくいやつだと思っていたが、付き合いの年数も片手を超えればいい加減わかってくるというものだ。
轟は、わざとらしく咳払いをした。
「ともかくだ。こいつはきっと、業界の常識を覆すマネキンになる。俺が太鼓判を押してやろう」
軽口のようなその言葉は、しかし、確信にあふれていた。
業界の常識を覆すマネキン。
一口に言ってしまえば簡単だが、前田が企画書を書いて轟が実現させたこの原型を目の前にすれば、ただの大言壮語などとは呼べまい。
前田が構想を抱いてから実現に至るまでには多くの時間を要した。
キングマネキン――マネキンの大手レンタル会社への入社当時からずっと考えていたこと、それは、会社にある型遅れの在庫品のマネキンをレンタルしつづけることへの疑問だった。
毎月下旬ちかくになると書店に平積みになる華やかなファッション誌を見るまでもない、当然ながら、アパレルショップの内装や商品といったトレンドは日々進化している。
それなのに、会社で貸し出すマネキンはいつまでたっても旧態依然とした時代遅れのシロモノなのだ。バブルの頃ならいざしらず、今日び外国人モデル体形のマネキンを展示に利用したところで、実際に服を購入する消費者の参考にはなりづらいだろう。
社内で作られる新作マネキンは契約上、特定の大手アパレルショップにしか卸せない。とはいえ、それ以外のお客様のショップの売り上げだって上げたい。
マネキンがそれに役立つことを前田はよく知っている。
そんな折、今回のプロジェクトリーダーへの抜擢は、前田にとってこの上ない好機だった。おまけに、マネキン制作部の側から同時に抜擢されたのは気心が知れている上に才能を高く買っている轟であるとなれば、気合も入るというもの。
「そういや、前田。パールドさんへのプレゼンの資料は進んでるか? 資料用にこのマネキンのデータをまとめた資料も送るわ」
「そうだな……ジョイント部分に関する仕様の説明と、マネキン自体の詳細な数値もあると助かる」
「はいよ、了解。じゃあ、あとでな」
ここからが再びいよいよ前田の仕事だ。
今回のクライアント、大手アパレルメーカーのパールドへのプレゼンは、このプロジェクトの成否を左右する大仕事だ。
「CONEcT」という新ブランド立ち上げの上でディスプレイに使うマネキンの契約を取れれば、一度にたくさんの受注が期待できる。
轟はマネキンの原型をたった三ヶ月で作り上げてくれた。おまけに、想像通り、いや、予想を超える素晴らしい造形で。
今度は、前田がその魅力をクライアントに伝える番なのだ。
きちんと魅力さえ伝えきれれば、必ず発注は取れる。
それだけの自信があった。
前田は深呼吸をひとつして、ふーっと息を吐く。気合十分、さっそく資料の作成にとりかかった。
◆
プロジェクターの前、いつも以上に熱のこもった説明を終えた前田は息を呑んだ。心臓は早鐘を打つ。クライアント「パールド」の担当者の表情を伺う。色白で神経質そうな担当者は、真剣な面持ちで何事か考えていたが、ひとつ頷いた。
「うん、イメージしてたよりずっといい。前田さんの所のマネキンに決めたよ」
一瞬、言葉に詰まった。
轟の造形したマネキンに自信はあったものの、それでも。やっとのこと、万感の思いで、
「本当ですか。ありがとうございます」
「初年度のCONEcT出店計画90店舗すべてに納入をお願いしたい」
表情の少ない担当者も笑顔を浮かべる。一拍遅れて、前田の表情にもじわりと笑みが広がった。
その夜、前田はささやかな祝いのためのケーキの箱を片手に、家路を急いでいた。
ちょっとした有名店で買い求めた、ベリー類を贅沢にあしらったショートケーキの数は三つ。
今日のことを報告すれば、きっと妻は喜んでくれるだろう。
プロジェクトリーダーとしての大成功。社に戻れば労いの言葉も待っているだろう。なにせ、それだけのことを成し遂げたのだ。
これまで新型のマネキンを投入してきた大手アパレルショップ以外のショップにも、新しい型のマネキンに需要があるということを証明する形にもなっている。
あるいは、今後もこれ以上に大きなプロジェクトを任されることがあるかもしれない。
しかし、一方で、前田の脳裏には全く別のことが浮かんでいた。
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