藤原頼長・後編 ~俺の悪左府がこんなに可愛いわけがない~ | ~ Literacy Bar ~

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※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

(CV:増山江威子)


の時間である。これを読んでいる小さなお友だちは今が何時でも直ちにベッドに入って眠って頂きたい。子供には大人よりもずっと夢を見る時間が必要だ。そして、現実に疲れた大人の皆さまには、これから紹介する藤原頼長のBLエレクトリカルパレードというささやかな夢の一時を味わって頂きたい。尚、本稿を拝読されるに際しては、予め、前編の『藤原頼長 ~私が支持されないのはどう考えても世の中が悪い~』 にも目を通して頂けると幸いである。


藤原頼長の男色ネタの源はいわずと知れた『台記』である。頼長の日記として名高い『台記』であるが、そもそも、当時の貴族の日記と現在の日記を同列に扱ってはいけない。現在の日記とは、


ヤン・ウェンリー「死後、公表されることをねらって、他人の悪口を書き連ねておく文章」


である(?)が、当時の日記とは何かと口伝や秘伝の多い宮廷行事の詳細を綴る備忘録であり、公にできない朝廷の出来事のルポルタージュであり、自家の功績や交友関係の覚書であった。いうなれば自分の死後、子や孫が朝廷や世間で粗相を為出かさないように重大な事由を書き留めた我が家の危機管理マニュアルである。多くの貴族が困難に対した際に父や祖父、先祖の書き残した日記を参考にしたに違いない。しかし、頼長の日記は頁を捲れば、

「彼ノ朝臣、精ヲ漏ラス。感情ヲ動カスニ足ル。先々モ常ニ此ノ如キ事有リ」(原文ママ)

「遂ニ倶ニ精ヲ漏ラス。希ニ有ル事也。此ノ人、常ニ此ノ事有リ。感嘆尤モ深シ」(原文ママ)


などと、如何に翻訳を試みてもア○ブロの検閲に觝触するのは必至の文言が随所に記載されているのだ。危難に際した子孫が先祖の叡智に一縷の希みを託す気で『台記』を開いた時、上記の記述を見て心に何を思うのか、頼長は想像しなかったのか。

尤も、当時の日記と同様に、男色も現代のホ○・ゲ○・オ○マ・ニュ○ハ○フとは異なる価値観を有していたのも事実である。日本の近世以前における有力者同士の男色関係とは政治上、軍事上の紐帯と同義語であった。或いは女性を必要としない閨閥関係と称してもいい。頼長が結縁した貴族の多くは政敵の藤原家成の近親者であるが、これは頼長が家成の一門を(性的な意味でも)抱き込もうと計画した証だ。こうした男色で形成された派閥が隠然、時に公然たる勢力として当時の歴史を左右したのは歴史学者の五味文彦氏が、


「後白河院政下でおきた幾つかの政治的事件には必ずといっていい程、後白河院をめぐる男色関係が影を落としていた」(『院政期社会の研究』四三三頁より抜粋)


と評する通りである。同○愛嗜好を『どこか足りてない』『遺伝子の所為』と蔑むのは、やんごとなき方々の血統を悪しざまに罵る所業だ。頼長も自らの男色関係を赤裸々に書き綴ることで、イザという時は誰某が力になってくれるということを子孫に伝えようとした可能性はある。ただし、頼長も必要に迫られてのことではなく、嬉々として【アッー!】に励んでいたのは否定のしようがない。趣味と実益を兼ねた美味しい政治活動だ。しかも、頼長の男色相手はバラエティに富み、拙劣なギャルゲー&エロゲー&AVよりも遥かに面白い。以下、頼長と関係した主要な男性を列挙してみよう。


① 秦公春(はたのきみはる)


頼長の側近中の側近。随身(護衛官)で左近衛府生(下級武官)と官職は低いものの、頼長の寵愛が深かったのは『無二ニアイシ寵シケル随身公春』という『愚管抄』の文言からも明らかである。随身は貴人の傍に侍る役職上、容貌が重要視されるケースが多いが、公春も例外ではなかったようだ。公春も頼長にベタ惚れであったらしく、前編で触れたように頼長の腹心の仇討ちや藤原家成邸襲撃の指揮を執るなど、命令とあれば如何なる汚れ仕事であっても、

「神、仰せの通りに……」


とか呟きながら、頼長の政敵を削除した。要するに恋人の邪魔をする存在には実力行使をも厭わない献身型のヤンデレであった。尤も、派手な活躍の割には蒲柳の質であったのか、平安貴族の職業病ともいわれる糖尿病を罹い、一時は小康を得たものの、恋人の快癒に狂喜した頼長との【ハッスルハッスル】が病みあがりの身体に響いたらしく、再度、病の床についたまま帰らぬ人となった。公春の死で絶望のズンドコに陥った頼長は一ヶ月も家に引き籠ると(当然、職務放棄である)


「あーん! 公春が死んだ! うっうっう……ひどいよお……ふえーん! この間『公春の病が癒えますように!』と祈祷したばかりじゃないですか! どーして、どーして? あれで終わり? 嘘でしょ!? 信じられないよおっ! 糖尿病ごときに殺られるなんてっ! 生き還りますよね? ね? ね? 泣いてやるぅ! 私はあのおそろしく身分の低い彼が(たとえ左近衛府生でもさ! ヘン!)大好きだったんですよっ! 公春ぅっ! 死んじゃ嫌だああああああっ!! 仏さまのカバッ! え~ん……くすん……美形薄命だ」


といった公春との思い出や祈祷を成就してくれなかった神仏への怨み節を日記に数十頁も書き殴った。百日以上にも及ぶ精進禁欲(含む男色)の願掛けが叶わなかった気持ちは判らなくもないが、余りにも士大夫らしならぬ愚痴の数々に呆れ返った花園天皇は、


「こうした事情で神仏への信仰を蔑ろにするのは如何なものか」


という反論の余地のない批判を浴びせている。とはいえ、昇殿を許された五位以上の官位を有する者しか人と看做されない時代にあって、下級官吏に愛情を注いだ頼長と、その愛情に応えようと己の手を汚し続けた恋人の献身は、身分の壁を超越した愛の物語という万人の共感を誘うシチュエーションといえよう。ホモでなければ。

② 源義賢(みなもとのよしかた)


頼長の男色の相手の殆どは大貴族の子弟であったが、当時の新興勢力である武家とも関係を結んでいた。武力と財力を求める過程で、武家と結縁する皇族乃至は貴族の例は決して珍しくはない。よく囁かれるのはタフマン×プルーンの【アッー!】な関係で、更にいえば双方の孫同士も【ウホッ!】な間柄であったとされている。

さて、頼長が男色の相手に選んだのは源義賢。源為義の二男で源義朝の異母弟。そして、あの木曽義仲の父となった武将である。義仲の父に相応しく、義賢は勇猛で荒削りな為人であった。殺人事件への関与疑惑や年貢の未納といった不祥事で幾度も解官や罷免を食らっては、頼長の元に転がり込むのが義賢のパターンである。頼長にとっては腕っぷしのみが頼りのヒモのような存在であったのかも知れない。

ただし、この点も実にヒモらしいというべきか、その道(当然、衆道)では凄腕のテクニシャンであった。通常、衆道では身分の高いほうがタチ、低いほうがネコを務めるのが礼儀とされているが、義賢は何の遠慮も躊躇もなく、翌年には左大臣に昇進する予定の頼長にネコを務めさせたのだ。


源義賢「それなりに経験はあるようだが、所詮は貴族のお坊ちゃまだぜ」

藤原頼長「やめて……乱暴にしないで……///」

源義賢「ふん、口で何をいおうが、こっちは正直だな」

藤原頼長「うう、悔しい……でも、感じちゃう……///」


何? 文章が卑猥過ぎる? 何いってんだよ!


『今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも景味あり。不快の後、初めてこの事あり』(『台記』久安四年正月五日)


こんな一文、他にどうやって訳せってぇんだよ! 俺が悪ぃーんじゃねーよ! 義賢と頼長が悪ぃーんだよ! このように主従逆転の結縁ではあったが、見事に義賢のハートをゲットした頼長は藤原摂関家から院政勢力への鞍替えを目論んでいた源氏との絆の再修復に成功したのである。しかし、肝心の義賢が源氏の御家騒動に巻き込まれた挙句、異母兄・源義朝の子で甥の悪源太義平に討ち取られてしまった。己の操を差し出してまで源氏を繋ぎ留めようとした頼長の献身は水泡に帰したが、しかし、守るべき何かのために自らを犠牲に捧げる誇り高い精神の持ち主が、アブノーマルな喜悦に堕ちる様子は団鬼六の官能文学に通じるエロスを感じずにはいられない。ホモでなければ。


③ 藤原公能(ふじわらのきんよし)


若い頃から『く○み○テクニック』さながらの性活をエンジョイしていた頼長であったが、意外にも結婚そのものは早かった。長承二年(一一三三年)に権中納言・藤原実能の息女を娶っている。時に頼長は十四歳。相手の幸子は二十二歳である。夫との年齢差、当時の平均寿命、美容技術、栄養摂取量を考えるに熟女と呼んで差し支えないが、頼長は終生、幸子を嫡室として敬重した。年齢的な事情からか、二人の間に子は授からなかったものの、彼女が四十四歳で病没した際は、時の執政である頼長が葬列に徒歩で同行したうえに『諸事、式法に任せて更に省略なし』と評されるほどに丁重に弔ったという。頼長は側室との間に四男一女を儲けているが、これは家系を絶やさないための当時の男の責務だ。男色関係も政治上の必要性に基く手段といえなくもない。それでも、頼長が妻に対して誠実であったかといわれれば疑問を抱かざるを得ない。頼長は夫として絶対に手を出してはいけない相手と懇になっていたのだ。


幸子の実弟の藤原公能である。


姉妹丼ならぬ姉弟丼とか……発想が斜め上にも程がある。初体験の相手であった幸子の若き日の面影を残したという点に頼長は惹かれたのかも知れない。しかし、亡き妻を偲んでの已むに已まれぬ思いであれば兎も角、頼長が公能に手を出したのは幸子の存命中である。外道。或いは政治基盤の脆弱な頼長には妻の実家との紐帯を少しでも強めておきたいという思惑があったのかも知れないが、幸子の死後、頼長が朝廷で失脚すると藤原実能はアッサリと婿殿を見捨てた。色々と救えねェ。それでも、近【自主規制です】姦モノはエロゲー&AVの鉄板であり、愛妻と血を分けた存在との密事というシチュエーションは今日でも充分に通じるジャンルと思われる。ホモでなければ。


④ 藤原隆季(ふじわらのたかすえ)


悪左府の【アッー!】ネタをネットで検索すると高確率でヒットするのが『受領讃』『大僕卿孝標』と呼ばれる人物である。これを藤原家成の子の藤原隆季と結論づけたのは先述の五味文彦氏だ。五味氏は男色ネタに全く興味のない方にも拘わらず、頼長の研究では【アッー!】な逸話を嫌でも熟読しなくてはいけなかった影響で『院政期社会に興味を失った時期もある』と漏らしておられたが、その五味氏でさえも『頼長の男色関係で最も精彩を放つ』と評したのが藤原隆季である。

元々、隆季は全く男色のケがなかった。しかし、その美貌と血統が頼長の目にとまったのが運のツキ。その日を境に頼長の猛烈なアタックが始まった。まずは頼長は隆季宛のラブレターを何通も書いた。隆季からは一切の返信がなかった(『雖通書、全不返報』)が、それでも頼長は執拗に手紙を送り続けたらしい。更に隆季を攻める足がかりとして、隆季の従兄弟で義理の兄弟にあたる藤原忠雅を性的な意味で抱き込むと、二人で隆季の元に押しかけてチュッチュラブラブな雰囲気を見せつけて、君もコッチの世界においでよとモーションをかけた。それでも隆季が自分に靡かないと知った頼長は遂に神頼みに走る。陰陽師の安倍泰親から譲り受けた祈祷符を手に自らの愛が成就するように願を掛け続けたのだ。花も蕾の女学生であれば、恋占いを気にする程度の健気な話かも知れないが、あの悪左府が祈祷符を握り締めながら、


「隆季! 隆季! 隆季! 隆季ぇぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん! あぁああああ……ああ……あっあっー! あぁああああああ! 隆季隆季隆季ぇううぁわぁああああ! あぁ、クンカクンカ! クンカクンカ! スーハースーハー!スーハースーハー! 藤原隆季たんの髪をクンカクンカしたいお! クンカクンカ! あぁあ!  間違えた! モフモフしたいお! モフモフ! モフモフ! 髪髪モf【中略】 俺の想いよ、隆季へ届け! 左京一条三坊十三町の隆季へ届け!」


とか叫んでいる姿を想像すると当事者の隆季ならずとも気が遠くなりそうである。キモイ。完全にストーカーじゃねーか。ちなみに安倍泰親とは、あの安倍晴明から数えて五代目の子孫だ。まさに人材の無駄使い。しかし、この祈祷符が利いたのか、藤原忠雅を交えた三人の会合という名目で隆季を呼び出すことに成功。当然、頼長は忠雅に途中で席を外すように因果を含めておいた。全ては思惑通り。


藤原頼長「ようこそ……『男』の世界へ……」

藤原隆季「俺の傍に近寄るなァーーーッ

鸚鵡「グェー! グェー! グェー!」バタバタバタバタ


こうして頼長は宿願を果たした。殆ど騙し討ちに近い結縁であったが、驚くべきことに騙されたほうも【ウホッ!】な道に目覚めてしまったようで、


藤原隆季「お…恐ろしいッ! 俺は恐ろしいッ! 何が恐ろしいかって、頼長! 【禁則事項です】が痛くないんだ! 快感に変わっているんだぜ―――ッ!」


とかいいながら、頼長に忠雅抜きでのデートを申し込んだり、他の男と自分の媒(なかだち)をして欲しいと頼み込むようになったという。尤も、釣った魚に餌を与えないのが頼長の流儀であったのか、隆季が頼長のツテで羽林(近衛少将)の職を望むと、口では何とかするとかいいながらテキトーに返答を引き延ばした挙句、結局は二人の関係諸共、有耶無耶にしてしまった(※)。事実、久安四年以降、隆季と思しき人物の名が『台記』に記載された形跡はない。交際から二年弱の破局であった。目的達成のためには手段を選ばない執拗さと、恋人を利用しても利用されないという確固たる意思。政治でも私性活でも妥協という言葉を知らない頼長の姿勢には近代のハードボイルドものに共通する硬派な雰囲気が漂っているように思えてならない。ホモでなければ。


(※)尤も、隆季は出世の望みを詩歌に託して伝えたため、そっち方面に疎い頼長が全く気づかなかった可能性はある。この残酷なまでの朴念仁ぶりは平安時代のワンサマーさんと呼ぶに相応しい。ホモでなければ。


⑤ 源成雅(みなもとのなりまさ)


この名前を御記憶の方もおられるのではないか。そう、前編に登場した藤原忠実の寵臣である。この時代、誰某の寵臣と呼ばれる場合、十中八九、主君と男色関係にあった考えて差し支えない。鳥羽法皇と藤原家成&藤原成親、後白河法皇と藤原信頼&藤原成親が好例である。名前が被っているように見えるが気にするな。私も気にしない。深く考えたくない。

成雅の名を覚えておられる方は、頼長が彼を厳罰に処したことも御記憶かも知れない。康治二年正月一二日。源成雅は藤原頼輔と殿上で乱闘騒ぎを起こした。別段、深刻な政治上の対立ではなく、自らの美貌に絶対の自信を抱く成雅が『鼻豊後』と陰口を叩かれるほどに独特の形状をしていた頼輔の鼻を嘲弄したことに端を発した純然たる私闘であった。常日頃から成雅を、


「あのウコ野郎(尾籠物也)!」


と蔑んでいた頼長は事件を聞いて大・激・怒! 即刻、成雅に解官(馘首)を申し渡したのであるが、この頼長の措置に、


「成雅の君とて、知足院入道大殿(藤原忠実)、寵し給ふ人に御座す」(『今鏡』)


と記された成雅の上司で恋人の藤原忠実、即ち、頼長の父親も大・激・怒! 普段の親馬鹿ぶりをかなぐり捨てて、頼長に自らが住まう宇治への参向を許さなかったという。男色の縁は時に肉親の情をも凌駕する紐帯であった事実の好例といえるが、或いはコトはそれほど単純な話ではなさそうだ。何故ならば、この事件から十年弱を閲した久安六年、頼長は成雅と【アッー!】な関係を結ぶに至るのである。仮にも父の恋人で嘗てはコ野郎と毛嫌いしていた相手と懇になるとは、如何な悪左府でも尋常な経緯があったとは思えないが、実は頼長には成雅に愛憎半ばする感情を抱く必然があったといえなくもないのだ。

頼長には実母の記憶が殆どない。彼の母親は忠実の側室で、その父親は家司(執事)として忠実に仕えた藤原盛実である。如何に白河法皇の御手つき&コブつきとはいえ、忠実の継室で六条右大臣と称された源顕房の息女の師子とは身分に雲泥の差があった。前編で触れたように頼長も『台記』で自らの母親を『(身分の)賤しき』と記述している。その『賤しき』母親も頼長が幼少の頃に死去した。しかし、筆では『賤しき』と記しているとはいえ、否、記しているからこそ、頼長の母親への強い拘りを感じずにはいられない。賤しいという表現の裏には母親に対する執着があったのではないか。しかし、父親の忠実は身分賤しい側室の存在を忘れたかのように新しい愛人に奔った。それも自分と同年代の若い男にである。タダでさえ、パパッ子の頼長が成雅に快い感情を抱く道理がない。


「あんな奴が父さんの恋人だなんて……俺、絶対に認めないよ!」


そんなホームドラマさながらの感情が頼長の胸に渦巻いていたのではないか。その反面では父の恋人≒擬似母親という公式も充分に成立する。成雅への罵詈雑言は実母に対する『賤しき』という表現と同じく、やり場のない感情の裏返しであった可能性も否定できない。そして、父の恋人を寝取る行為には擬似母【自主規制です】姦という禁忌、且つ甘美な悦びがあったのではないか。頼長の成雅に対する感情はエディプス・コンプレックス エレクトラ・コンプレックス に近い心理が作用していたのかも知れない。ともあれ、藤原公能の項目でも触れたように血の繋がらない近親者との【アーン♪】は恋愛or官能文学の古典であり、それが父親の愛人とあれば尚更といえる。藤原頼長は父親の愛人に母親の影を追ったリアル光源氏であったのだ。ホモでなければ。


他にも頼長の男色相手として確認されているのは、某やんごとなき方の愛人で頼長の初恋の人とされる藤原為通、先述した隆季の兄弟の藤原家明、同じく、隆季の兄弟で鳥羽院と後白河院の両帝に性的な意味でも仕えた藤原成親が挙げられるが、如何にそっち方面に偏見の少ない私でも、あまりに【アッー!】関係のネタばかりに触れているのは色々な意味で危険と判断したため、この辺で頼長の男色に関する話題は差し控えさせて頂きたいと思う。


尤も、ガッカリするには及ばない。


頼長の真の魅力、面白さは実は男色ネタばかりではないのだ。かくいう私も、大河ドラマ『平清盛』が始まるまでに頼長を題材に歴史記事を書いていたら、上記のホ○ネタで〆ていたと思うが、昨年の『平清盛』感想記事に頂戴した様々な方々のコメントで、それまでの頼長の印象を覆す多くの逸話を知るに至った。真に幸甚の極みです。以下、私自身が見つけてきた&様々な書籍から抜粋した&皆さまのコメントから引用した『台記』の抜粋で頼長の意外な一面を紹介したい。

① やっぱり猫が好き


康治二年八月六日「子供の頃、飼っていた猫が病気になった。写仏をして『十歳まで生きさせて下さい』と祈願したら、途端に病気は快癒。そして、本当に十歳まで生きた。死んだ時は衣にくるんで櫃に入れて埋葬してやった」


もしも、猫が喋ることができれば、鸚鵡の役目は猫が担うようになった気がする。この敬虔な信仰心が秦公春の死後も続いていればねぇ。


② パパ、大好き


保延二年十月三十日「パパが治療のために灸治をする。容態で心配で仕方ない。今日は物忌で外出禁止の日……でも、そんなの関係ねぇ! すぐにいくからね、パパ!」


『フルハウス』とかだと『パパも大好きだよ』とハグしそうな場面であるが、山本耕史さんと國村隼さんの画では想像したくない。


③ 大河の元ネタ?


久安三年三月二十七日「もうすぐ、パパンの誕生日♪ おめでたい詩を贈りたいけども、僕は和歌が大の苦手……そうだ! (崇徳)上皇さまに代作して貰おうっと!」


贅沢ってレベルじゃねーぞ! 『平清盛』では主人公は西行に恋歌の代作をお願いする場面があったが、もしかして、これが元ネタ?


④ いい人


康治二年六月六日「乳母の備後が死んだ時、彼女の息女の但馬を宜しく頼むといわれたが、消息不明でどうすることもできなかった。そのことを考えると毎晩、夢で魘されたものだ。でも、今日、但馬の消息が掴めた。これで備後の遺言を果たすことができる。毎年、米五十石を送るように手配した。母親のいない私を育ててくれた備後の恩を思うと、その百万分の一にも当たらないが、私の誠意をしめすにはこれしかない」


赤文字部は引用文ママ。素敵やん。えぇ話やん。


⑤ スノーホワイト


保延二年十二月四日「雪! 雪! 雪! 雪が積もった! イヤッホゥー! たーのしーい!」


このまま、雪遊びに夢中になり過ぎて、一食抜いたのを忘れてしまったらしい。五日後に内大臣昇進を控えた藤原頼長(十七歳)の意外な素顔である。


⑥ 厨二病の本音と建前


康治二年九月九日「不味ッ! 酒、不味ッ! 俺は下戸だっつってんじゃねーか! 唇濡らすので精一杯だっつーの!」


仁平三年九月九日「フ……菊酒などと……この俺は不老長寿なぞ望まぬわ!」


不老長寿を望まないとかカッコつけているが、昔、自分が酒が飲めない理由を書いていたのを忘れてしまっていた頼長君でした。



⑦ 友情とは『友の心が青臭い』と書く


某年某月某日「友人の高階通憲(信西入道)が病に倒れた。心配で心配で陰陽師に祈祷させたが、本人に知られると照れ臭いので、皆には黙っておくように因果を含ませた」


その信西に葬られるに至った悪左府。知らせておけば検死解剖は免れたかも知れない。


⑧ 食後の一服?

某年某月某日「一発キメたあと(勿論、男色)の読書は最高! 特に難しい本ほど読みたくなるぜ!」


私も読書好きではあるが、流石に自前の図書館を保有する頼長の発想はスケールが違う(?)と認めざるを得ない。悪左府さん、パネェッス。


⑨ 夢と現実


久寿七月某日「内覧に復帰する夢を見た! きっと正夢だ! 明るい未来が俺を待っている!」


どう見ても滅亡フラグです。本当にありがとうございました。


⑩ 前途有望?


某年某月某日「養女の多子が入内した帝(近衛天皇)の元に遊びにいった。御二人共、十歳を過ぎたばかりの遊びたい盛り。御要望に応えて、御二人とお馬さんごっこをした。ヒヒーン」


何とも子煩悩な頼長である。しかし、幼い帝に四ツん這いになれよと命じられた時、頼長が何を感じたのかを知る由はない。性的な意味で。


他にも『台記』には『死んだ公春と夢で出会えて嬉しい』とか『公春に捕まえて貰った雀がとっても(×2)可愛い』とか『職場が暑過ぎて皆とカキ氷食べたいという話題で盛りあがった』とか『今日、朝廷でオシッコ漏らしそうになった』とか、


何、この謎の面白生物


といいたくなる文章がビッシリと書き込まれているのだ。頼長のことを理想化肌のインテリ政治家変態陰陽師と思い込んでいた私は、これらの事案を知った時、


「こんなの悪左府じゃない。俺の悪左府がこんなに可愛いわけがない」


と思ったものである。教科書に記載されている事項や有名な逸話ばかりが歴史上の人物の全てではない。そんな当たり前の、でも、ついつい忘れがちになることを私は頼長と読者の方々のコメントから学ばせて頂いた。


それでは、藤原頼長のもう一つの顔を紹介して、この記事を〆ようと思う。尤も、これは『平清盛』でも取りあげられていた有名な逸話であるから、御存知の方も多いかも知れないが、しかし、藤原頼長の記事を〆るに、これに勝るものはないとも確信している。出典は勿論、仁平三年(一一五三年)九月十七日付の『台記』。宮仕えを始める息子の兼長と師長に向けた頼長の訓戒である。


「兼長、師長、倶に八座(参議)に登る。今日以降は公家上日の多少を論ずべし。

愚の子息等、年齢の長幼を論ぜず。好悪の浅深に拠らず、任官の時は上日の多き者を推挙すべし。奉公の忠なくして、其の挙に預からざるの時、曾つて我を怨む勿れ。

衣服の美を求めず。僮僕の少きを顧みず、忠勤を存じて人の嘲を慙ずべからず。そもそも、奉公の忠を尽し、唯、名を後代に遺さんことを憶い、敢えて君の恩報を求めざれ。忠を尽して恩を求むるは古賢の誡むる所なり。努力々々(つよめよや。つよめよや)

我、終沒の後、魂、若し霊あらば、将に陣・結政の辺に在らんとす。恋慕の時は縦い公事なくも朝服して斯の処に詣れ。凡そ、至孝の志ある者は能く王事を勤め、以て我が恩に報いよ。後世を訪ろうに至りては望む所に非ざる者なり。

両息、謹んで此の状を守り、敢えて違背する勿れ」


「我が子、兼長と師長が朝廷に仕えるに際して、廷臣としての心構えを諭した。

どちらも朝臣として平等に扱う。親とか子とか兄とか弟とか、家庭の序列を持ち込む気はない。誰かを推薦する際には真面目に出勤しているかどうかが最優先事項だ。好き嫌いで人事を図るな。おまえらが推挙した人間、或いはお前ら自身が出世できないとしても、それはキチンと仕事をこなしていないからだ。俺のコネやツテで出世できると思うな。

華美な衣服を着飾るな。供回りの人間の多さを自慢するな。他人に石頭と罵られても真面目に仕事に励め。そもそも、忠節とは報いを求めて尽くすものではない。後世の歴史家に評価されることが士大夫の本懐である。努力せよ。努力せよ。大事なことだから二回言ったぞ。

この父が死んでも、我が魂は常に朝廷と共にある。父が恋しい時には念仏を唱えるのではなく、我が魂が宿る朝廷に参内せよ。そして、仕事に励め。それが何よりの供養だ。

これが父との約束だ。必ず守れよ」


兄・忠通との確執を棚にあげて職場に家庭の事情を持ち込むなとか、誰の所為で真面目に出勤しても報われない社会になったのかとか、男色閨閥を築こうとした奴が好き嫌いで人事を決めるなとか、まさにおまえがいうなのオンパレードではあるが、しかし、発言の内容は正論というしかない。今日の政治家にも見習って欲しいくらいである。


自らの信じる正義と現実の齟齬に対する自覚のなさ。


少なくとも主観的には忠節の士であった頼長の人生が悲劇に終わった要因が、この『遺訓』ともいうべき文章に凝縮されているように思えるのは気の所為ではあるまい。これは頼長の志そのものであり、同時に彼の末路を暗示する内容でもあった。


尚、鎮魂よりも仕事に励むことが何よりの供養であると息子たちに訓戒した頼長であるが、安元三年(一一七七年)、延暦寺による強訴、京都大火、鹿ケ谷の陰謀といった災異・騒動に脅えた朝廷は、これらを亡き崇徳上皇と悪左府の怨霊の仕業と定義。それまでは配流先の地名から讃岐院と呼んでいた上皇に『崇徳院』の号を奉り、頼長の霊には正一位太政大臣の位を追贈した。要するに頼長の鎮魂を図ったのである。もしも、頼長の霊魂が実在したとすれば、


「死んでから太政大臣になっても意味ねーんだよ! 生きている間にポストを呉れよ!」


と怒り狂ったに違いない。それを裏づけるかのように、頼長の霊に太政大臣の位が追贈されたのちも二条・六条・高倉の三帝、建春門院滋子(平清盛の義妹で後白河院の寵妃)、藤原基実(忠通の息子)といった朝廷の要人の逝去が相次いだ。全く、藤原頼長とは死んでからも勤勉で苛烈で粛清好きの男であったようだ。


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