今回は他の人の意見に対しての、私のコメントを書きます。
永井俊哉ドットコムにある
論文「意識とは何か」についてのコメントを。
2005年の論文ですから、少し古いので著者の考えも変わっているかも知れませんが。
http://www.nagaitosiya.com/a/consciousness.html
以下引用は著者・永井先生の文
「私は一つのわかりやすい基準を提案したい。あるシステムに意識があるかどうかは、そのシステムが行為を選択する際に迷うことができるかどうかによって決まる。私たちは、食事のメニューを選ぶ時に迷うけれども、食べたものを消化する時、胃から胃液を出そうかどうか迷うことはない。だから食事のメニューを選ぶ行為は意識に上るが、胃液を出す行為は意識に上らない。」
意識の有無判断に行為選択時の迷いを使って判断しようとされています。
ここで永井先生が取り上げられている「意識」とはどういうものかが書かれていないし、「迷い」を使って判断できるかどうかの根拠が全くないのでコメントを付けづらいのですが、少し忖度し、試みます。
例を一つ、
ロボットが行為を選択する場合、判断基準が多すぎて行為を決定できないという状況に陥るという話を聞きます。迷いは沢山ある選択肢から最適と思えるものを選ぶときに発生する問題でフレーム問題と言われています。
また、判断基準が決まってない場合、多くの判断基準があってどの判断基準を使うべきかを選択するのにも時間がかかります。
また、考えられる多くの行為による結果・結論の評価をするのに時間がかかります。行為を行なう前に結果を想像するのは、ロボットでも行ないます。現実将棋のソフトでも次にどの手をさすのかの選択に時間がかかります。
迷いは選択行為に必ず必要であって、選択するのに時間がかかるので迷ってると思われますし、
選択した結果を想像して決定に誤りがあるかどうかの評価に時間がかかり、ここでも迷いが生じていると考えられます。
実際は、もっともっと複雑な処理がこめられているはずですが。
これらの処理はロボットで行われています。でもロボットには意識がありません。
それとも、マイコンの処理中には意識があると強弁されるのでしょうか。
それとも、このロボットは迷っているふりをしているのでしょうか?
また、人の場合、行為が出来ない状態の人について。
朦朧としてなにも出来ない人。
朝めざめ、起きたての人。
行為選択に迷いのない状況の人には意識がないのでしょうか。有りますよね。
頭を叩かれ痛いと感じ、次の攻撃を避けるため逃げる場合を想定しますと、
迷いなどありませんよね。
この場合の痛みは意識外でしょうか?
そもそも、迷いとは何なのでしょうか。
意識がない場合の迷い。
ロボットの迷い
意識がある場合の迷い。
迷いのない時の人の行動に対する意識をどう考えるべきか。
以上の簡単な例で先生の考えが誤りであると考えられます。
あなたは、どのように思われるでしょうか。
もう一つ先生からの引用。
「もしロボットが、複数の選択肢のうちどれを選択することが目的の達成に最適かを比較し、かつ選択する基準を固定的せずに、経験と学習によって変化させるのであるならば、そのロボットには意識があるといえる。」
永井先生のこの仮定は全く、受け入れられません。
経験と学習のよって選択基準を変化させるロボットは世の中いくらでも有ります。学習ロボットなど珍しくありません。
そうではなく、私は意識があるロボットは、最低でも意識を生み出す情報処理がなされていないといけないというのです。
ただ比較、選択、評価基準の経験、学習だけで意識が表れるなどとても考えられません。
どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。
意識は自動的に、雰囲気だけでは生まれてきません。
適当なシステムには生まれてこないと考えるべきです。
意識は、「意識を生み出すべく処理された情報のなかに」、はじめて生まれてくるのです。
それは、意識は独立した情報世界の中でしか生まれてこないという事です。意識はあくまでも脳システム活動に起源しています。脳システム活動は物理パターンを活用し実行されています。物理パターンは情報その物です。
物理パターン単独では意味は起こってきません。
トランジスタがオンであってもそれだけでは意味は見当たりません。
しかし、人工システムの場合は物理パターン単独で意味を持たせられます。
トランジスタがオンであれば“痛い”と約束・定義できるのですから。
明るい、痛いという情報はロボットのデータ処理中では意識になりえません。
なぜなら、明るいとか痛いという約束の下で信号を振り分けているのですから。
約束が変われば痛いと明るいは、簡単に交換できます。
上に書いたとおりです。
そうではなく、
意識は脳システム全体の活動のなかで、
総合的、相互的、有機的に配置された全体で、
意味が固定される状況の中で生まれてきます。
外部からの多くの入力信号群に対応する脳神経細胞グループ活動、
神経活動の物理的継続による“記憶”、
神経活動パターンの特殊パターンによる筋肉活動の誘起、
これらトータル活動の中に生まれてくる情報の意味、
この情報の意味が有機的・総合的に組み合わされた脳内情報世界、
脳内情報世界は、外部物理世界を写し取っています。
脳内情報世界は、外部物理世界とは次元を異にしています。
脳内情報世界は、独立世界で、その意味は外部から観察できません。
その意味な脳システム全体の中で割当てられるのです。
脳内情報世界全体に意味が割当てられています。
生き抜こうとする、生命固体の意志があって出来上がる情報世界の意味。
この意味が逆コペルニクス的転回によって意識になるのです。
逆コペルニクス転回とは、脳内情報世界の「意味が意味その物になる」という事です。
「痛いという意味」が、「痛いというその物になれた時」、“痛い意識”が生まれてきます。
「痛いという意味」が、「意味その物になれた時」、“痛い意識”が生まれてきます。
だから、「意識の主体は意味その物」となります。
このようなことが、現実脳内で起こっているからこそ、意識が生まれているのです。
ただのロボット処理、人工知能からは意識は生まれません。
意識はそれなりの処理があってこそ生まれてくるのです。
以上永井先生の仮説に対してのコメントですが、