昨日は二日酔いぎみ
お酒が体から抜けなかったよう。
それで朝起きれなかった。
一昨日、京都で遅くまで飲んでたからね。
今日はあさから元気だよ。
でも昼から
雨が降るみたい。傘を持って出よう。
さて、今日のブログは引き続き広松先生の「新哲学入門」を追っかけます。
前回は、外界の認識方法として三項図構造を提示されました。
この認識構造は「近代哲学が、一二の例外こそあれ、ほぼ共通の了解事項としている知覚的意識の構図」だそうです。
具体的には「対象的事物から認識主体へと刺激が到来し、その到来した刺激が知覚心像というかたちで結像するという仕組みで成立するものだ、」でも「結像しただけではまだ不十分なのであって、内なる像を心・意識の作用(はたらき)が“見る”とでもいうか条件が加わってはじめて知覚的意識成立する」ということになり、
それは
「意識対象―意識内容―意識作用」という三項図式で示されます。
先生はこの三項図式(近代的意識感の根本的ヒュポダイム)を再検討すべき大問題であるとの認識で問題提起をされているのです。
認識は上に書かれたような構造になっていないと主張されます。
まず、問題の取り掛かりとして、知覚心像の存在に焦点を当てています。そんなものが本当にあるのかという事です。
通常知覚心像は認識主体の内部に存在するとされているのですが、知覚事態は外部に覚知されます。するとこの体験的事実を説明するために考えだされたのが、
「知覚像投射説」と
「先験的内在説」なのだそうです。
前者の投射説は、知覚的心像は主体の内部に形成されるが、本来のあり場所に投射・貼付される、らしいのです。ちょっと信じがたい説で、先生も「射撃の名人も顔色無しです」と揶揄されています。
後者の先験的内在説は、知覚風景界全体は写真像であって、情景全体が“写真の画面内”での布置にすぎないという物ですが、
先生がおっしゃるには「本当にそうでしょうか」と。つまり「ここに見えており触ることもできる生身の「この私」も・・一つの“知覚心像”にすぎないとされるに至っている」と不満を述べられています。
その不満は、先験的カメラ機構とやらが具体的に提示されない限り、ダメだという事です。この具体的がどういう具体的なのかが私には良くわかりませんが、
前者も後者も含めて「色・匂・肌触りのある“この身体的存在=私”をも含めて、そのまま客観的実在でなく知覚相にすぎない」のがよくないようです。これも不満の一因です。
私にはこの不満がどうしても理解できないのです。自分自身も知覚心像であってどうしていけないのか。具体的機構が示されなくても受け入れられるのではないのかと、いぶかります。私が私を知覚して何が悪いのでしょうか。
そこで、先生は従来のカメラ・モデルに依る三項図式じゃだめだと主張されています。このあたりの論の進めかたは、哲学屋さん的で私にはよくフォローできませんでした。でも、実は先生が誤っているのではないかと密かに思っています。
心像が、外界に存在物を知覚する、自分自身をも含め知覚することが、哲学的に大問題なのだろうか。この本が出版された当時の理解がこの程度であったのだろうか。現在では誰もこのような事を問題にしていないのではないだろうか。(私の寡聞で勉強不足のせいかも知れませんが。)脳内において知覚を情報として把握すれば、知覚主体と知覚自身のありかたを情報的に操作することにより、なんの問題なく解決出来そうに思います。痛みがての指先にあるなど。
しかし、先生は話の力点を転換されます。何故だかわかりませんが、問題は
「否認の力点は、投射・貼付というところにあるのではなく、むしろカメラ式の内部的結像ということ、写像的心像が一旦知覚主体に在ること、この心像内在説の部面に懸かります。」と変わりました。つまり、「内部的心像」が本当にあるのかという問題に。「ここに決定的な落とし穴がある」と言うのです。
その落とし穴はいわゆる、脳内小人を存在させなければならないからという物です。ホムンクルスです。今ではホムンクルスが、どうのこうのという時代ではありませんが、当時では真面目に取扱いされていたようです。
この脳内小人論はナンセンスに陥っている次第だと先生はおっしゃられまして、この話の最後に
「神経生理学的・脳生理学的に立論しようと言うのであれば、しかじかの神経生理学的状態のとき、かくかくの知覚的意識状態が現成する、」また「結像という事を強いて言いたいのであれば、意識にとっては、知覚は意識内部ならざる、知覚風景的空間内部のあれこれの定位置に“結像”する、ということのなります」といわれています。
前半は知覚意識状態の物理的側面の記述であってすごくわかり易いのですが。
後半の知覚風景的空間内部については全くわかりません。そこで先生の説明は続きまして、
「知覚風景なるものが装置内部にある心像界ではないこと、神経生理学的身体機構の外部にまでひろがって存在すること、知覚とはそういう定位的な現相覚知(知覚風景に登場しているこの身体の内部的位置への定位、例えば、歯痛や腹痛をも含む)であること、このことは敢えて申し添えるまでもありますまい。」といわれています。
以上の内容は、私には全く理解できません。どのように論理的につながっているのか。不思議です。
この「知覚心像の取扱い」が引き続き以降に述べられるのです。上述の知覚的空間内部(知覚的風景情景)の説明も少しあります。
長くなりましたので以降は次に回しますが、このあたりの理解を間違えると先生のいいたかったことが理解できないように思われます。心像の取扱いです。