今日の日差しは、全く春そのものの日差しでした。

いいですね~。

来週3日は旧正月、いよいよ春本番です。

梅も咲いてますよ。南部へ行こうかな。



さて、ブログの続き、「表象なき認知」


先回までに書かれた色々な表象の説明に、うんざりされた方も多いと推察いたします。

そんで今回は、残りの説明の多くを省き、結論とそれに対する批判を行ないます。批判はご存知のように、この論文をおとしめるものではない事は、哲学を少しでもかじられた方ならお分かりであると思います。


さて前回の折衷論に対して、詳細は省きますが、筆者は、

以上のように、エミュレータの導入によって、力学系的認知観を、最小限のデカルト主義的表象によって補おうとするクラークとグラッシュの試みは、失敗していると結論付けざるをえない。

と切り捨てます。


そして最後に、もう一つの力学系的認知観理論の紹介として、ケイゼル氏の行動系理論を紹介しています。

ニューロン相互のカップリング(内的制御パラメータ)によって形成されたネットワークの変化が、身体という上位の巨視的スケールにおける秩序を創発すると言う発想である。」という物です。


この事を一言で言えば、“ニューロンの活動が、身体活動を生み出す”といえば、荒っぽすぎる理解でしょうか。

でも私にはそうとしか理解できません。


“内的制御パラメータ”とか“創発”に対し説明は致しませんが、著者は

このアイデアは、まだ素描の段階に止まっているとはいえ、力学系的認知を発展させる一つの方向を指し示していると言えるだろう。」と擁護されています。


そこで、筆者の結論は

ヴァン・ゲルダーの力学系的認知観から始まり

ベクテルの表象三項関係

クラークの折衷論

ケイゼル氏の行動系理論

から、

「認知の説明は表象を必要としない」という穏当な経験的反表象主義を支持する

認知科学の正統的枠組みにたいして、コネクショニズムよりさらに徹底した代案を提示していると言える

表象は認知理論に不可欠なものではないかもしれない

と感想を述べられています。特に主張はありませんでした。

本論文はたぶん、多くの論文の紹介になっており、それに対する批判・擁護的感想を述べられています。

認知にはいかなる表象も必要ないと主張する反表象主義のうちの一つが、力学的認知観であり、その理論もまだ確立されていないと言うのがよくわかりました。


でも、

認知する、認識するのに表象が必要であるのか、必要ないのかがそのように重要なのかが、この論文からは読みてれませんでした。




私は、“認知科学が行動主義への批判から生まれた”のであれば行動主義のブラックボックス的考え方を排除し、雑駁ですが、


見えるとは聞こえるとは等の、感覚とは何なのか

人間にと言って認知とはどのように位置づけるべきか

認知とは何なのか

誰が認知するのか

記憶とは何なのか

決断とはどう考えたらいいのか

主体とは何なのか

活動とは何なのか

生命とは何なのか


等の脳関係情報全体の中で具体的事例を使い把握しないといけないと思います。

概念の思索ではなく、具体的な思索が求められるべきです。

ただ表象が存在すればいいとか、そうでないとか、表象にはこんな種類がありそうだなどは、何ら意味を有しない議論でしか無いように思われます。

これらの論文には以上のような具体的思索がかけているようです。


コンピュータ的表象が脳内に形成されたからといって、認識が完了したなど現時点では誰も思っていないでしょう。

脳はコンピュータ的システムでなく、さらにニューロコンピュータ的でもないでしょう、どちらも50歩100歩です。

しかし力学系的認知観の要求している、ダイナミックな神経活動、脳、身体、外界を絡めた情報(エネルギー)の流れは最低限でも必要です。


現時点では脳内の神経構造から、“認識・認知が理解できる”ほどその詳細を理解できていません。脳神経活動の活動パターンのデータ収集と解析が出来ていないのです。


しかし脳科学者たちはそれをやっています。現在、脳神経活動を観測・解析しているのです。

だから、脳、身体、環境の三者のカップリング、神経細胞活動の時間的空間的パターンの解析(力学的認知観の根拠の一つ)、情報の消費者などは当然大事であり、“いまさら言われなくてもわかっています”と、科学者たちは言うでしょう。


次に、

ここで特にわたしが強調したい事は、情報の消費者に関してであります。

情報とは物理的パターンであり、その情報を理解し利益を上げるというのが情報の基本的構造です。物理的パターンだけでは情報になりえません、情報の意味の理解者が要ります。


論文の中にある表象の三項関係、

表象の対象、

対象の代役としての(内的)表象、

表象の使用者

との関係は上の情報の基本的構造と同じように見えますが、



実際、論文において

ベクテルが言うように、ワット氏の調速機の引例で三項関係は

フライホイールの速度、主軸に取り付けられた腕の角度、絞り弁

となって“絞り弁”が情報の消費者であり、

また、クラーク」が言うように

行為者(認知の主体)は・・・情報を受け取る

とあります。

クラークはこれを「行為志向的表象」と言っています。行為者の立場を加味しています。

これらの消費者、行為者は全てシステム内の構成物です。



実はここで大事なのは

生命体・生物・人間にとっては特別であるという認識が絶対必要なのです。

情報の使用者、消費者の理解を間違えてはいけません。


生命体において、情報つまりその意味を自分でつくりあげるのです。現実の構成物が情報を受け取ったり、使用したり、消費したりするだけではないのです。その物理的動作に意味を作り上げる・創成することが絶対必要になります。


受け取ったり、消費したりするのは、人工システムの概念です。これは人間がその情報を利用・理解するのですから、横からみているだけでいいのです。


しかし生命体には、自分自身を設計し創ってくれた別の主体はありません。自分自身が自分自身を作り上げるという構成でシステムが出来上がっています。進化の圧力が為しえたのです。このことを理解すべきです。


すると情報の意味は自分自身が作り上げないといけません。そのためには

環境、

感覚器、

情報処理装置としての脳、

筋肉活動からなる身体

があって初めて意味が創成されます。


この意味の創生が認識の完成になります。


そしてこの意味の創生を、神経活動を中心とした生命体神経系に見つけることが、認知科学の具体的目的となるのです。