こんにちは(*^▽^*)
『学校を創ろう!日本の教育に新しいカタチを創る』朋香のブログへようこそ!!
今日は、《コントロールと愛と教育》について私の考えをお伝えしようと思います。
(※この記事は4月に書いたものなので写真がチューリップです。)
私、公立の教員時代から好きではないものがありまして
それが挨拶指導です。
私はこれは、一つの洗脳(価値観の植え付け)なのだと思っています。
なので、教員として挨拶指導しなくてはいけない場面では、スルーできるところはスルーしてました。
(道徳の挨拶のところは読んで終わりとか、そもそもその単元やらない、とか。秘密ですけど。)
挨拶運動はどうしても威圧感がありありで、しかもなんと滑稽な運動なんだろうと思っていました。
でも、授業開始と終わりの挨拶はきちんと指導しました。なぜなら、公立に来た子供たちがこれから授業開始の挨拶が学校のルールに沿って上手くできないと毎年、毎日、次の先生に叱られることになるのがわかっていたからです。
できるだけ、無駄なことで子供たちが叱られるのを減らしたい。
公立の学校を選択したからには、ここでやっていくルールは身につけさせないと、との思いだけでした。
廊下歩行も、行進、整列も全て。
どの教室にも貼ってある挨拶標語
あかるい こえ(笑顔)で
いつも
さきに
つ?なんだっけ?
とにかく、朝の挨拶や来客への挨拶は
笑顔で元気よく相手の顔を見て言うのが素晴らしい!!
と言う、学校は
《優等生的な挨拶》を良しとする社会で
学校の評価も、来客や保護者にどれだけ児童が挨拶できているか、だったりします。
で、私はいつも
これって不自然だよな、と思っていて。
朝から家で何があってモヤモヤしてたり元気がなかったり、心配ごとや不安、緊張してたり体調が悪かったり、人見知りだったりして相手を見るのや声を出すのが苦手な子供たちだっている。
そんな子供たちに
かなりの劣等感とプレッシャー
を与えるものだと思います。
そもそも、挨拶は自発的なもので強制的にさせるものではなく、相手と交流をする時に自分が相手と繋がるコミュニュケーション手段として使用するものです。
はっきり言って誰にでも
挨拶したくない相手(繋がりたくない相手)
もいるでしょう。
挨拶したくない相手に挨拶しなかった
自分の気持ちに正直に過ごすと
挨拶ができない子と言うレッテルが貼られたり、
ダメだと指導されてしまうのです。
毎月、息子の学校から父母の会のパトロール報告書のプリントがくるのですが、いつも
子供たちは挨拶ができない
と書かれていて
いやいや。
あなたに挨拶したくなかっただけじゃない?!
と突っ込んでいる私です。
社会人となった時に、気持ちの良い挨拶ができる人は相手に好感をもってもらうことができ、コミュニケーションもスムーズにいく事はよく分かります。
この社会は、誰もが相手に受け入れてもらいたい
敬意を示してもらいたい、と思うものなので。
だから学校で挨拶を重視するのですが、
挨拶=社会人としての正しいスキル=気持ちは置いといて、技術として身につける➡︎挨拶が上手にできる仮面を被る➡︎だんだん自分の気持ちが分からなくなる
と言う流れです。
褒めると言うことは、逆にそれをしないと褒められない、と言う二つの情報を与えます。
「挨拶が上手にできて偉いね。素晴らしいね。」
と褒めると、同時に挨拶が上手にできないのは良くない。褒められない。
と言うことも伝えているのです。
挨拶と言う小さなことから
正しい形を提示して(特に《挨拶》は繰り返し洗脳し続ける、、、。)いくことを積み重ねて、自分の気持ちより正しさを重視しているのが今の学校教育です。
学校は、教師はもちろん良かれと思ってやっていますが本当の本当に『挨拶』についてちゃんと考えたことあるのかな?自分達のしている挨拶教育について考えているのかな?
自分達がそういう教育を受けたからそういうものだと思って、よく考えずにやっているだけではないのだろうか、と思うのです。
長いしかも強烈な洗脳で
挨拶はするべき
挨拶は人としてのマナー、礼儀
挨拶ができる子は素晴らしい
挨拶ができない子は良くない
と植えつけられ、
人や自分をジャッジする材料となります
心からしたくてする挨拶から
しなくてはならない礼儀としての機械的な挨拶
に変わっていっているのです。
挨拶に限らず、教育という名の元で
同じように様々な〜すべき。〜が正解という洗脳が行われています。
これが素晴らしい!と思う事を子供たちができるようにする。素晴らしい形(モデル)が先にある。
これは、愛のようで実はコントロールなんです。
ええ。私も愛だと思って色々な指導をしてましたよ。
でも、相手を自分の意図通りに変えようとするのは全てコントロールなんです。それが良い形を教えるものでも。
じゃあ、どうやって挨拶指導するの!?
挨拶は大事!できるようになった方がいい!
との問いに
私は教師(大人)が見本を見せる
と答えます。
挨拶も、掃除も、整理整頓も
それが良いと言うものを教師が子供たちにやれ、と言うのではなく。自らが率先してやって気持ちの良さ、格好良さを子供たちに見せ、味わってもらい、子供たち自ら真似するようになれば自発的にやるようになります。教師(大人)は、自分がやる背中を見せるのです。
子供たちが自ら選択してやる
それが本当に子供たちの力になります。
挨拶ができない!掃除ができない!
と叱る時間はいらなくて
自分が誰よりも良いと思うなら取り組んで
挨拶も掃除もやると気持ちがいいね!!
と言う姿を見せるのですね。
それはコントロールではなく愛です。
子供たちが自分に必要なものは自分で考えて自分のタイミングで習得していくことを信じて待つ。
教育は一日ではできない。
気長にタイミングと成長を楽しみに待つものだと
私は学びました。その愛は必ず届きます。
自戒を込めながら。
ちなみに
フリースクールルアナでは、授業開始の挨拶は
『そろそろ始めるよ〜』
と言うゆるいものです。
愛とコントロールと教育と②に続く。