ありがとうございます。
レイキ伝授とヒーリング
COCOIRO 白石庸子です。

「暮らしにレイキ」を合言葉に、
「使えるレイキ」を目指しています。



わたしたちは
生まれるときも
なくなるときも
なにももたない

けれど

同時に

すべてを与えられている

と感じています。




「無一物中無尽蔵」
(むいちもつちゅうむじんぞう)

だけど
わたしたちにんげんは、

なにかを所有することや
どこかに所属することや
だれかに承認されることを
つよく つよく 求めて
あがいてしまいます。

そこから「執着」を育ててしまいます。



 …


「所有」や「所属」や「承認」や

そんな
にんげんらしい欲求を
つきつめてゆくと
本当にほしいのは

「安心」や「安全」や「無事」という
生きる上での本能的な欲求なのかな

と思ったりするのです。


生きるベースとなる欲求を満たそうと
目に見える物質的なものによって
実現させてゆくのもよいと思います。

でもそこにばかり偏ってしまうと
本質を見失ってしまうかも…

いきものは
生まれたその瞬間から
その場所で

すでにそこにある与えられたものを
一時的にお借りして
生命活動を行います。

メアリー・ノートンの物語
床下の小人たちのように
わたしたちは「借りぐらし」をして
生活をしているのだから

借りたものはいつかはお返しするし
借りたものは丁寧に扱いたいですし
美しくお返ししたいものだと思います。


そう思えば
執着は
さほどつよく起こらないのでは
と思うのです。

執着は制限をかけてしまいます。

無一物(なにももたない)なかに
無尽蔵(無限にある)がある

執着が少ないとは
それだけ自由が広がるということ

必要な分だけの所有で
心が落ち着く居場所に所属し
互いに認めあえる関係性があれば

もうそれ以上は求めなくてよくなるし

さらに進めば

もうすてに満たされていることに氣づき
与えられていることに感謝できれば

なにもなくても
どこにいても
幸せなのだと思うのです。

 …




東京国立博物館で観ることのできた
楽焼初代長次郎「無一物」から
感じたこと、シェアします。

写真は、東京旅行後の茶道の稽古で
師匠に博物館での話をした折に
それでは…と出してくださった茶碗

長次郎「本覚坊」写(佐々木昭楽)











いつもありがとう。
靈氣とともに。
天意とともに。