今回、ご紹介するインタビューは金春流能楽師の山井綱雄さんです。

 

筆者は、今まで能楽とは全く無縁でした。昨年の11月に、横浜の久良岐(くらき)能舞台で、山井師にインタビューをさせていただきました。さらに、昨年の年の瀬もおし迫った29日にお会いして、じっくりとお話を聞いてきました。山井さんは、NHKの大河ドラマ「真田丸」や「江姫」などでの振り付けもされた方です。江姫のオープニングでの上野樹里さんが手を合わせて舞いをす終える振り付けといえば、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

 

多分殆どの人は、普通、能楽を見たことは一回あるかないかでしょう。正直に言って、筆者もそうでした。能楽とは縁遠い生活を送ってきた人生でした。しかし、山井さんにお話を伺うと、能に抱いていた精神的なハードルを取り除いてくれました。今回、山井さんは、全く能楽に触れたことのない、所謂、初心者にも分かるように、説明していただきました。

 

能楽は、マインドフルネス

人間には、人間らしく生きるために必要なものがあると思います。医療が発達して寿命が延びていますが、こころを見つめ直しリフレッシュさせることが、現代では、置き去りになってしまっています。

 

「高砂」という演目があるのですが、主人公は住吉大社の神様のことです。能楽の中でも古い様式のものです。高砂は、ストーリーやドラマ性を楽しむものではありません。しかし、見終わった後に、モヤモヤ悩んでいたことやストレスがスッキリし、心が洗われるような感覚を感じていただけます。

 

能にはそういう作用があります。それが、他の芸術との決定的な違いです。これは能のルーツが神様や仏様に捧げるものであったというところにリンクしています。もちろん、能は新興宗教ではありません。遙か古からの人々の祈り、シャーマニズム原始宗教から繋がっているというところで、結果としてそうなっているのだと思います。

 

亡くなられたアップルのスティーブ・ジョブズやフェースブックの創始者のザッカーバーグは、日頃から座禅を組み瞑想をしている、というのは有名な話です。それは人間にとって、人間らしくいるために必要な時間だと彼らが認識していることに他なりません。今、世界の脳神経外科では、そうすることをマインドフルネスと言うそうです。能は、マインドフルネスを体験できる演劇なのです。

 

しばらく前に、NHKを見ていた時、日本の脳神経外科の第一人者の教授が、「公園などを散歩して、難しいことなど考えずに、景色を楽しみ、風や空の美しさを感じるだけで、それで十分マインドフルネスなのです。」と、仰っていました。その番組の最後に、その先生が、「日本には昔からマインドフルネスが存在していました。能やお茶など、あれはまさにマインドフルネスです。しかし現代の日本人はそういう事を忘れてしまっているのです。」と話されました。わたしは「やっぱりな」と、手をたたいて納得しました。能を知らない方が、たとえ舞台でやっていることが、全て理解できなくても、見終わった後に、なんとなく心がスッキリする・・・能にはそういった心を浄化する作用があります。

 

 

能は周りに迷惑をかけなければ、居眠りしても良い

 

そもそも能は眠くなるようにできています。夢現(うつつ)の世界を具現化していて、一種の催眠状態にするため、笛も地謡というコーラス隊も耳に聞こえない音をたくさん出している、と解明されています。出演している人もアルファ波が出てトランス状態になり、そういうのが客席にも伝わり眠くなります。実は舞台で、後見の人や地謡(コーラス)をしている人も眠くなります。眠くなってはいけない、ということはありません。

 

ある観客の方は、居眠りをしながらふと目を開けた時に、「ああ、能をやっているな」と舞台を見て、夢うつつを味わいながら、こっくりこっくりするのが至福の時間だと言われます。また、あるお客様によると、「不眠症の方は能を見ると一発で効く、よく眠れる。」と言います。「能楽堂に寝に行きましょう」などと言って、他の方を誘ってくださる方も実際にいます(笑)。必ず最後まで起きて見なければならない、というのは現代人の考え方です。ひとつの瞑想状態で、普段とは違う波動や空間に身を置くことができます。まさに能は異空間なのです。

 

 

能は「間」の芸術です

 

その異空間というのがお茶室にもつながります。お茶、能、禅、この3つは中世の時代に、密接に関わっており、その根本精神は一緒です。その根底の概念には、そういった「目にみえない何か」というものに、日本人のこころが存在しています。「目に見えない何か」というものに対して畏敬の念を持ち、「目に見えない何か」が大切だ、と考える感覚です。それが、「間」と言われています。まさに能は「間」の芸術です。「間」が抜けると“間抜け”なのです。「間」は何も無いのだけれど、決して無いわけではなく、そこに大きな意味があります。能の音楽では、音を出していない無声、無音の瞬間、空間である「間」を大切にしています。

 

日本の古典文化にも言えることですが、能の舞台では余白を大事にします。シテ(主役)、ワキ(脇役)、囃子方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)がいてあとは何もありません。例えば雪が降ってきた、という設定でも雪は降らせませんし、赤々と山が夕日に染まるシーンでも、赤い照明を使うこともありません。シテが、舞台にポツンといて、周りに余白がたくさんあります。そこから先は見ている人の「想像力」が大切なのです。

 

このことを私は、よく絵画に例えます。西洋画は写真のように写実的でカラフルであるのに対し、水墨画は墨で書かれていて何もない空間があります。それは書も同じで、墨の濃淡と余白があります。その余白を大事にしています。そこは見ている人の想像力で埋めることによって、いかようにも見ることも描くこともできます。つまり、いかようにも解釈して良い余地を残しています。能もそうなのです。何もない部分は、見ている人の想像力で埋めてもらい、どう解釈していただいても構いません、という余白をわざと残しているのです。

 

例えば、能の「羽衣」という演目を鑑賞いただき、「三保の松原の景色はどんなでしたか?その絵を描いてください」と言うと、当然人によって違う絵が出来上がります。能はそれで構わないと思うのです。全てが正解なのです。また同じ羽衣を見るにしても、5年後、10年後、30年後・・・と見る方の年代、年齢、人生経験でも捉え方が違ってきます。それで良いのです。しかし、歌舞伎や現代劇ですと海岸、空、山、それらの色、形、全てが舞台装置や照明などで指定されています。