”もう一つ、一生忘れることが出来ない想い出は、東日本大震災の慰霊祭のことです。”

 

東日本大震災の慰霊祭やチャリティーのときには、いつも能「羽衣」を迷わずやりました。能「羽衣」の主人公は天女です。わたしが「依り代」になることで、「傷ついた東北の大地に天女が降り立ち、復興の寿福の宝を降らしてほしい」というメッセージを込めました。福島県相馬市、宮城県名取市、そして、震災の前から薪能などをさせて貰いご縁のあった、福島県いわき市でもやりました。

 

いわき市では岩間町岩間海岸という所で、「なこその希望鎮魂祭」というイベント名で、震災一年の慰霊祭という形でやりました。津波ごっそりと家屋がなくなった岩間海岸の土地に野外ステージを立てました。しかしながら、当日は生憎の雨で、直前まで舞台を決行するかどうか悩みました。ボランティアスタッフの方の中のある男性が「こういう素晴らしいことをしているのに雨が止まないじゃないか。どうせ俺たちは天に見放されたんだ。」と腐って怒っていました。それを身近に聴いて、心が痛みました。

 

通常、能は野外では能面や装束お囃子の楽器は水に濡れると駄目になってしまうので、雨天ではできません。中止にします。主催者から判断を任された私は、一緒に手弁当で来てくれた能楽師たちに相談すると、「鎮魂のために来ているのだから何としてもやろう」ということになり、風が横殴りで雨がザーザーと降る中、始めました。異例中の異例です。すると、能「羽衣」の中盤、天女が羽衣を取り戻し、お礼の舞を舞い始めようとした時です。わたしの能面の狭い視野からお客様達の後ろに瓦礫の山が見えていて、その奥に見えていた天が、何と二つに割れるのが見え、太陽の光がパーっと真っ直ぐに差し込んできたのです。その光景にあまりにも驚き、一瞬役を忘れて呆然となってしまいました。囃子も皆演奏しながらびっくりしていました。

 

お客様からは、舞っていたわたしに太陽の光が後光が差したように見えたそうです。

 

そして、羽衣を舞い終えると、雲ひとつない快晴となりました。わたしは終了後、面を取りマイクを手に取り、舞台に再び上がって「皆さん!この空を見て下さい!晴れない空はない。これこそ、『なこその希望』じゃないですか!!皆さん頑張って下さい!!!」と絶叫してしまいました。お客様として見てくださっている被災者の皆さんから、ウワーと拍手が沸き起こりました。先ほど、天に見放されたと言っていた男性スタッフも、笑顔で拍手していました。

 

能は『鎮魂の芸能』とも言われています。能楽師はそういう時こそ、魂を慰めるために、能は必要だと信じています。そして、それが本当なのだと実感した日。あの雨の日の舞台が急に晴れ上がり快晴となり、そこで能を勤めたことは一生忘れることができません。

 

去年いわき市の慰霊祭で、その時の羽衣の簡易バージョンを舞いましたが、その6年前の晴れた時のことを覚えていてくださっている方たちが多くいました。当時は雨天の中決行したため、主催者の方は相当なクレームなどもありご苦労されたとのことです。しかし、何よりも被災者の方々が「良かった、励まされた」と言ってくれたことが全てだ、と言っていました。「文句を言われようが問題無い、やって良かった」と今でも胸を張って仰っています。その通りだと私も思います。

 

 

第三編は、山井さんの一番感動した、「関寺小町」という演目の話と、いわき市での慰霊祭の話でした。山井さんの話されたこの話を、限られた紙面の中で表すことは、ほぼ不可能に近いものですが、少しでも、お伝えすることができたらと思います。第四編では、山井さんが考え実践されている、「能をどうやって、次の世代、世界に伝えていくかを、語ってもらいます。」これは、日本の古典芸能だけではなく、日本的なもの、書道、日本画、ひいては、和紙の製作などにも共通するテーマです。更に、わたしたち、日本人が、これからを、どう生きていくべきかも考えさせらるテーマだと思います。