「羽衣」の話をします。この話は、日本と日本人の在り方について教えてくれます。

 

羽衣というのは能の中で一番有名な演目で、三保の松原の天女が降りてくる話です。この羽衣には、日本人のこころに繋がる、すごく重要な裏テーマがあると言われています。


 

 (羽衣替の型)

 

漁師が浜辺の松に置いてあった天女の衣をひろい、家の宝物にしようと思ったら、天女が戻ってきてそれを返してください、と言うのですが、「自分の宝物だから」とそれを漁師が拒みます。そこで天女が泣いてしまい、かわいそうだから返してあげるけれど、さぞ美しいと聞いている天女の舞をってくれたら返そう、と漁師は交換条件を出します。天女はそれがないと神通力も使えないから、とにかく返してください、と懇願します。しかし、漁師はそんなの嘘だろう、どうせ返したら約束を果たさずにすぐ帰ってしまうのだろう、と疑います。

 

その返す刀で発する天女の言葉が、大変に有名な一節です。

「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」

素晴らしい、深い一節です。偽りというものは人間にこそあって、天上界には嘘偽りというものは存在しません、という意味です。その後、漁師は手渡しで羽衣を返します。そして天女は舞を舞って天に帰っていきます。天に帰って行く前に、日本の国土に宝を降らせる場面があり、そういう動作(型)をします。七宝充満の宝降らすのです。天女が、日本の国に、幸せを降らせるために来たのだ、ということが最後の最後にわかります。そして、最後は、富士山の高嶺に飛んで帰っていく、というお話です。

 

実は日本全国に伝わる羽衣伝説というのは、この能「羽衣」と違い、ひどいお話です。ほとんど拉致のような話・・・結婚して子供を産ませ、その子供が蔵の奥のほうに羽衣を隠していることを見つけ、それを天女が知り羽衣を取り返し逃げていく、という誠に眉をひそめたくなる話になっています。では、なぜ能だけがこういう良い話になっているかというと、羽衣伝説が三保の松原を舞台にしている事がひとつのキーポイントかと思います

 

能「羽衣」の作者は不明で、これは一つの仮説・おとぎ話としてお聞き下さい。この「羽衣」の舞台となっている三保の松原がある静岡市清水一帯は、むかしは駿河(するが)」という国でした。実は、インドネシア語に、スルガ発音する、「天国」という意味を指す言葉があります。黒潮で海流に乗ってインドネシアから辿りついた人がいたのではないか、と考えられているのです。つまり天女は、外国人という説です。通常、アメリカなどでもそうですが、外国人が来ると原住民との間で戦争が起こります。しかし、この能のお話では一切戦いがなく、和解しています。実はそういう流れ着いた人たちが天女として描かれ、この三保の松原にて共存共栄して仲良くしたのではないか?そういう事実があったのではないか、と一説には言われています。

 

能の中で天女が漁師に対して羽衣を返してと頼むとき、「もとのごとくに置き給へ」という言葉あります。つまり、元の場所に(松の木にかかっていたように)戻してくさい、という意味です。天人は月の世界に住んでいる人で、天人にとって人間は汚らわしい存在のため、触りたくないので元の場所に置いてください、と言っているのです。

 

先ほどの「いや疑いは人間にあり。天に偽なきものを。」「あら恥かしやさらばとて、羽衣を返しあたふれば。」の後、漁師から天女へ衣を返す場面になるのですが、金春流の天女の台詞で「さらばこなたへ給はり候へ」と言います。つまり直接わたしに手渡してください、という意味で、漁師は天女に直接手渡しで羽衣を返します。本来、天人にとって人間は交わることさえもない汚らわしい存在にも関わらずそうしたのは、まさに共存共栄で仲良く暮らしていくというメッセージが込められて描かれているのだろうと思うのです。そして、天女は約束の舞を踊り、宝を降らして帰っていきます。日本人の本来もっている心が、漁師と天女の和睦に集約されているのだろうと思います。これが日本人の心だと思います。

(山井さんの羽衣の舞)