我々は科学的根拠という言葉の呪縛に陥り、根拠なきものは存在しないというような自己他己洗脳に陥っています。特に健康面、医療面に関しては医学絶対の風潮から医学洗脳に染まり、どっぷりと鼻の下まで浸かっています。更に、CMや番組を見れば見るほどに誘導されていきます。

お金が無くては生きていけない。多くの方はそう思っています。まあ、わたしもそうです。愛情や根性で腹は膨れない。そう思う判断基準の問題が大きいでしょうねえ。強いて解釈をし直すと、お金が無くては贅沢ができない、今現在のいわゆる人並みの生活ができない、そういう感じかなあと思うのであります。だから成功者は豪邸や億ションに住んで高級車に乗り、羨ましい、みたいなことになります。それをメディアが肯定したりもします。お金を奪い合い、ワーキングプアなどを生み負け組と判定される社会。この「成功」の判断基準は「お金」です。その基準は誰かが作ったもの。

文字通り「食うに困らない」為には、自分で農作物を作れる能力を持てば良いのです。知識を詰め込む教育とは別に、生きる為の教育が必要だと思うのです。そうしないと、食うためには「お金」だけになってしまいます。家庭菜園で自給自足してフードリサイクルしている人の税金は下げるくらいして欲しいものですね。

そして、医者の言うことは絶対だという思い込みも、「医療」の判断基準が「病気を治してくれる」という幻想が真実だと思い込まされていることから来ています。何らかの原因で自己治癒力を充分に発揮することができず病を発症してしまった状況から、医療が役に立つ局面もございます。その時にはお役立ちツールとして活用し、その後は自己治癒力を発揮する生活に徹すれば自動的に治ります。身体は治ろうという努力を1秒たりとも怠ることがありません。

要は、何をもって引っかかっている病の固定を外すことができるのか。仕組みとしてはそれだけです。原因は目に見えるものから見えないものまであります。解決策も同様ですが、その中の1つに医学があるなら利用すれば良い。視野を広げて判断の基準点を変えれば、医療は「自分が治るきっかけに過ぎない」という位置付けが適当であると分かるでしょう。医療だけでは病を治すことはできないという基本概念を心の底から感じられれば、先の感覚を得ることは容易です。

このように、我々は「専門科」の言うことを鵜呑みにし、この世的な経験を踏まえて「自分にできる事はこの程度だ」と決めつけてしまう習性があります。知らず知らず、自分の能力は低いと断定してしまうネガティブ思考が基本となっているのです。単なる情報として受け止め、取捨選択を各自で行い、情報をたくさん集めて統合した専門科に対しては敬うだけで充分です。専門科も、その逆の認識を持つだけで充分です。患者自身の人生がかかっている医療に関しては特にですが、情報を自分のものにできるまで、安易に決定してはいけませんね。真の納得なき医療は受けるべからず。


恩師から頂いた言葉に響くものがあったので紹介しますが、「ポジティブ思考」が良いと多くの皆さんがおっしゃいますが、恐らく「なんとなく」しか分かっていないかもしれないと思いました。それは、この例えを読んで、自分がそう思ったからであります。

『私たちは誰もが赤ちゃんでした。実は赤ちゃんは、超ポジティブ思考なのです。ハイハイをした赤ちゃんは、何度ひっくり返っても、転んでも、頭をぶつけても、「立とう」とする行為をやめません。もし仮に、否定的な赤ちゃんがいたとしたら、「100回も転んだのだから、きっと立つという目標は無理なんだろう。やめよう」と諦めるはずです。ですが、そんな赤ちゃん見たことがない。何度転んでも立ち上がり、いつの間にか当たり前のように目標を達成し、歩けるようになります。私たちは、大人になるにつれ、世間の常識にとらわれ、さまざまな情報に操作されるうちに、否定的な思考を取り入れるようになってしまったのです。小さな常識の枠のなかで物事を考え、判断をし、結論を出そうとするから、「どうせ無理」と自己防衛本能が出てくる。そして、いつの間にか、否定的な脳、否定的なスーパーコンピュータがつくられてしまうのです。』


やめなかった人だけが前に進むのです。諦めたらそこでお終い。たまに休んでも良いけれど、1mmでも前に進む諦めの悪さは大切かなと。もし、一人でできなければ皆で知恵を出し合いましょう。皆で支え合いましょう。それも1つの調和の世界ですね。