いろいろございまして、なかなかこちらに書き下ろせなくなってきました。疲れが取れないという感じになっており、しかしやりたいことはたくさんあり、どうしたものかとボケッと夕暮れの空を眺めております。
最近、この「あやしい」という表現を耳にすることが多いので、ちょっと考えてみました。実によく使われる言葉です。
「怪しい」とは何か?
不気味なことですかね。
なぜ不気味なのか?
得体が知れないから、ですかね。
得体が知れないと、
漠然とした不安が湧きやすいものです。
漠然とした不安は、
身の危険を感じさせてしまうでしょう。
身の危険を感じたら、
避けようとするものでございます。
生き物は得体の知れないものに恐怖感を抱きます。暗がりが恐いのもそうでしょう。古典的な「中が見えない箱の中に手を入れて何かを当てさせるゲーム」の不安さは、正にそれですよね。実際に分かってしまえば、なんてことはありません。儲け話が来た→怪しい。Appleのアカウントが停止になりますメール→もろ怪しい。それはいいでしょう。それが拡大していくと、
得体が知れない = 科学で証明できない
こんな構図になってはいませんか? エネルギー療法のように、いわゆる科学で証明出来ないものは怪しくなってしまっています。この世は科学で証明出来ないことだらけなのに、です。それにかこつけて変なことをする人がいるから怪しさが増してしまったりもします。
例えば自然治癒力は、何の仕組みも解明されておりませんが、無事に生きています。当たり前のように軽い傷は治っていきます。治る仕組みは分かっても、なぜ治ろうとするのかは未知の領域です。この延長線上には、自分が生きていること自体が実に怪しいことになるのです。
現代医学は正しくて、代替医療は怪しい。
なぜそう思うひとが多いのでしょうか? 自分の知らないことを「それ、なんの宗教?」という発言する人がいますが、ただ単に得体が知れない不安から湧き起こる短絡思考でしょう。医学信者の方は特に自然療法を宗教扱いするような気がしますけど、どうなんでしょう。。。口癖、かな。
自然療法を否定する傾向として、医療の方に支持者が多いから、効果が不安定だから、納得できないから、医者が否定するから、などなど。しかし、本当の怪しい理由は、
知らないからです。
人は学ぶことができます。学んでからものを言いましょう。学びもせずに「怪しい!」などと言ってはいけません。それは、とても恥ずかしいことなのです。
知らないことはよりも、知ろうとしないことの方が問題だと思うのです。
ただ、ネットサーフィンで得た噂や知識に大きな意味がないことはご存じの通りです。その意味からすると、このブログも同様の範疇になります。本質的に、多元的に情報を眺めましょう。
目に見えない電磁波のお陰で携帯電話が使えると怪しくないのは、当たり前に使えるからです。何かの施術を受け、一瞬でよくなって驚くこともあるでしょう。すると、怪しいけれど通うようになります。遠隔気功で目の前の犬が元気になる姿を目の当たりにすれば信じるでしょう。それは経験で知ったからです。
怪しいと思ったら、
真剣に学んでみる
実際に体験してみる
それをお勧め致します。実際にお話を聴いて、本を読んだりして、体験してみると、どれも奥が深いと分かるでしょう。しかし、信じるがゆえに盲進、固執する方も非常に多いですから、ご注意あれ。
ゆるゆると、参りましょう。