ツンデレ女子は自分が必要としている人には、少なくとも言葉の上では忖度しません。忖度しないことに逆説的に想いがある証明なのです。
一方で、母親には忖度しまくり。それでもって母娘は大の仲良しって、なんだか奇妙でないですか?
ところで「"忖度するメディア"への懸念。」という表現は正しい?
「忖度」「忖度」と流行語のように耳にしましたが、「忖度」という言葉の意味も使い方も正しくなかったのが、混乱を引き起こしたようです。
皮肉にも、「共謀」という言葉が飛び交っていますが、「忖度」は「共謀がない」という意味を内包しているらしい。
子どもは母親のサインを読み取って、親が喜ぶようなことを言ったり、行動することがあります。娘にとって親は忖度する相手のナンバーワンかもしれません。
けれども、それは子どもにとって幸福な状態ではありません。
忖度は悪いことではありませんが、度が過ぎると自分を見失います。
忖度の動機も影響しています。
誰にでもある5つの心のひとつに「順応する従順な子どもの心」があります。
周囲に気遣いするという点で、素敵だけど、打算的な面があるからです。
これが強いと本来の自分である「無邪気で自由な子どもの心」を抑えてしまいます。
子どもの頃に親と間に「愛着の絆」を感じて育った人は、「順応する従順な子どもの心」は低い傾向にあり、逆に「無邪気で自由な子どもの心」と「保護的な優しい母の心」を強くするようです。
子どもの頃に、心の通った楽しいコミュニケーションをした経験の少なかった人は、大人になっても、母親とは楽しいコミュニケーションを知らないまま、友だちともできないままになっていることがあります。
他者に受けいられるように、他者の反応を見ることは悪いことではなく、世渡りに欠かせないスキルといってもいいでしょう。しかし度がすぎると自分を抑圧することでしかなく、自分で自分が何者かわからなくなってしまいます。
一方で、メリットもあります。
自分なんか」と思っていた人が、他者に受け入れられることで、自信ができて「自分も楽しんでいい」と思えるようになると、抑圧から解放するきっかけになるからです。
つまり「禁止令」の束縛から、自分を解き放つことが大事なのです。
禁止令から解放されだすと、皮肉にも「私が生きにくいのは、親のせいだ」というような言葉が出るようになります。
つまり自分の感情を整理できるようになったから出せるようになったのです。
そういう関係しか持てなかったのは、お互いにつらいことだけど、次に進むステップに来たという点で、とても喜ばしいことなのです。
自分が自由な心から、心底、忖度したくてしてあげるのは、桜咲く春の陽気のように素敵ですよね。