先日、法事で集まった際に高校生と大学生の親族たちが興味深い話をしていたので、その話の内容を書いてみようと思います。

 

話の内容は、先生から言われた言葉やお付き合いしている彼女・彼氏から言われた言葉の「意味、意図」を掘り下げて理解するために、同じ年齢の親族たちに聞いてみた、というきっかけから超ロングトークに発展しました。その途中から親世代が参加して、なかなか深い話ができたと思います。

 

話の発端は高校の先生が自分に伝えてくる話の最中のはしばしに「あなたのため」という言葉が入っていたのだけれど、それが「こちら側からは先生のために言っているように、どうも聞こえるけど、自分は理解の仕方がおかしいのかな。」と疑問に思ったので、親族達に聞いてみた、という流れでした。

 

その流れで「ああ、自分の彼氏もたまにそう言う」とか「小学校のころ、先生達によくそう言われてた」という風に話題の幅が広がった感じです。それで何が興味深いかというと、彼らは過去の経験から、「あなたのために」と言う人の言動や存在を、それぞれに独特の考え方・とらえ方で受け止めていた、ということです。

 

「僕のことがわかってないのに、あなたのためだと言い切れることが、そもそも信頼できるのか、この人?という感覚でいっぱいになる。」

 

「あなたのため、と言ってくる場面って、『こうしてほしい』ってごり押しされて、こちらが黙って相手の言い分をやるように強迫されている時の言葉だと思ってる。だって、『あなたのためなのよ』なんて、わざわざ押しの強さで言ってくる人は少ないし、よっぽど支配的な人なんじゃないかと思う。」

 

「そもそも、『あなたのため』と前置きする人ほど、子供の気持ちはどうでもいい、すぐこうしなさい、ああしなさい、それが正しいんだから、って行動をせかすことが目的で、その場で悩んでたり泣いて困ってる相手の、しかも子供の気持ちはバッサリぶったぎってるよね。」

 

「『あなたのため』って言葉は『私の正義はこれだから、従いなさい』みたいな印籠的な使い方をされることもある。年上の権利というか、権威で有無を言わせないように抑え込む、みたいな。」

 

「『あなたを思っている、大事に思っているからこそ』って言われたときは寒気がした。『言いなりになれ、大事に思ってやってるんだからお前のことを思っている分、ありがたがって、その人の気持ちのために自分の気持ちを消して我慢して耐えるのが当然だ。』って、その人の「自分の気持ちをかなえたい」」ってエゴ丸出しで、いい人ぶってるけど、言ってることは自分の優しさの気持ちのお返しをしろって見返りの要求が強くて、偽善者、いい人ぶってるけど本当は自分の欲望の妖怪、みたいに思えた。」

 

というような、癖のある、いかにも思春期に考えそうな話だなあ、反抗期の感覚も入っている・いたのかな、という感じがしました。法事には大勢の親族が来てましたので、もちろん定型の親族もたくさんいました。定型の人が「そのまま」彼らが発した言葉を受け取ると、摩擦が起きそうな感じがするな、というのも親族たちは互いになんとなくわかっていましたので、他の大人の親族とともに、子供たちからいくつか解釈をしてもらいつつ話す、ということもしました。話は定型・非定型両方の親族が同じぐらい話していましたが、膨大な量になるので、世間の大多数が理解しているような定型の側の説明を今回は省きます。非定型の思考回路の方をなるべく丁寧に描きだそうと思います。

 

定型の親族で子育て中の親が気にしてその場にいた子達に聞いた内容から、抜粋していきます。

 

「親の気持ちを伝えると、それはごり押しとか強迫とかに感じることもあったのかな。それが例えば、やさしい気持ちとか、子供を大事にしたいとか、かばいたいとか、困らないようにとか、傷つけるものじゃない、自然発生的な愛情から来るものでも、気持ち悪かったり恐ろしかったりする?」

 

というものでした。あまり弁の立つ子がその場にはいなかったので、「ん~」と考えながら、でも丁寧に、ぼつぼつと、お互いに補いながら返事をしていた内容では

 

「親が『自分の気持ちはこうだ。こう感じる。こう思う。』という分には、何もごり押しとか感じない。ああ、そういう風に感じるんだ、とか考えるんだ、って思う。伝え合う、って感じはわかるし、こっちも自分はこうだ、って言いやすくなる。行き過ぎて大ゲンカになる事はある。でも自分たちの言いたいことはお互いに言い合えるし、だから問題ないと思う。親とはそういう伝え合うっていうか、情報交換みたいなことしてると、学校の友達の気持ちとかもわかってくるし、参考になる。」

 

「私は何か言われた後に、すぐにその通りにやる、ってことが苦手だから、言われたことを『こういうことかな』って考えてから、どうやろうか、こうしたらいいかな、って考えてから行動にうつすんだけど、家だと親は慣れてるし時間をくれるからいいんだけど、学校とかだと困る。友達にも先生にも「これはこうするのよ」とか「~しなきゃだめだよ」ってアドバイスされたときに、すぐにできないと、『何が嫌なの?』って私がアドバイス通りにするのを嫌がっていると誤解されて、決めつけられて、どんどん勝手に怒りだしたりする。『急いで』とか言われてもモタモタしてると、怒られる。助けてはくれるんだけど、そのあとに『あなたのためにわざわざ時間取って教えてあげているのに!』とか『すごい時間がかかった!』とか怒ったり迷惑そうに言われることが多かった。特に小学校の時。そういう時は『あなたのために』って聞くと、すごく自分のために時間かけて気を配ってくれる人に迷惑かけた、時間いっぱい無駄にしてごめんなさい。できなくて自分が悪いんだ、申し訳ないって気持ちでいっぱいになるつらい声かけだった。」

 

「『あなたのために言ってるんだから』ってめったに聞かない言葉だけど、それを昔、自分に堂々と言ってきた人って、偉そうな年取った教頭先生とか、小学校で一番、俺の話を聞かないで説教するようなタイプの人だったから、『俺のため』ってことじゃないな、って違う意味にとってた。嫌味っていうか、いじめっていうか、『他のやつ、同級生の言い分が全部正しくて、お前が悪い』ってわからせたいための説教を、お前のためにしてやってる、感謝しろ、みたいな上から目線で汚いものを見るようなクズ扱いしている場面で言われた感じがするし。偽物の言葉って感じがする。全然『お前のため』じゃない。」

 

「昔、超荒れてた時に、なんかよく混乱しててイライラしてたから、すごい絶叫しながら泣いてたような時期があって、その時にたぶん、よく覚えてないけどお母さんがあれこれ話しかけたり、いろいろ気にかけてやってくれてたんだと思う。ある日突然、お母さんが自分の前で大声で泣き始めたことがあって、『これだけ頑張ってるのに、なんでもあなたのためにって思ってやってるのに、何にもならない。もうどうしていいかわからない。』って言いだしたことがあって、すごいとまどった。私のためになにをしてくれてたんだろう?ってその時の私は単純にわかってなかったし、何か突然、お母さんが泣いてるって感じで。後から、お母さんなりにいろいろしてくれてて、それが私に全く通じてなくて心がおれちゃったんだな、ってお父さんとかお母さん本人から聞いてわかってるけど、『あたなのために』ってその人が思ってやってることって、こちら側にはわかってないし知らないことも私みたいにあると思うから、それを責められても突然すぎて全くわからないことがあった。今はさすがに、ああ、お母さん気を使ってくれてるな、とかわかるけど。小学生でそれをわかってと言われても、私のために何してるのか親のことなんて考えてないし自分も大変だったから、やっぱり『あなたのため』って親の感覚を小学生ぐらいの子どもが理解するのは無理じゃないかな。」

 

「大学で気が合う子がいて、その子から付き合って、って言われてまあ好きだから付き合いだしたことがあったけど、好きだったら相手の言い分とかわがままとか、相手の趣味とか食べたいものとか行きたい所とか、その子のタイミングとかに合わせるのが『普通』みたいに言われて、『好きだったら相手の気持ちにこたえようと思うもの』って言われたけど、お前は俺を好きでも、俺のその時の気持ちは希望は我慢しろ、っていうか、ないものとして扱うんだ、女の希望優先にしろ、それが好きって気持ちでやることだって言われても、それエゴ全開じゃないの、っていつも感じてて、そういうの無理って思ったから別れた。好きだったら俺より彼女を優遇しろ、って気持ちが強く出されれば出されるほど、こいつ俺のことは考えてないな、と思って冷めた。俺からやってやりたいと思うのはいいけど、相手が『好きならこうしてほしい』って要求してくるのって、自己中心的すぎない?好きならある程度相手に求めることはかなえてもらえるって思考回路がわからない。相手の犠牲の度合いが愛情ってことか?求めすぎじゃない?」

 

「ちょっと彼女さんにとってはきついかな、甘えたいんじゃないかな、って思うけど。でも自分も、初めて付き合った相手から甘えられたり要求してくることを『愛情』とか『好きな気持ちがあるから』って気持ちで言われると、上手いことごまかすなあ、って思ってた。やってほしい、こうしてほしい、こんなこと希望したい、って要望を、うまいこと「好きなら」とか「愛情で」って言葉でまかなって覆い隠してる感じがしたから。都合よく言ってるように最初は思ってた。自分のことは自分でできるように、って育てられたせいでもあるけど、荷物も持ってくれていいでしょ、お金も出してくれていいでしょ、って相手は依存的すぎて受け付けられなかった。

 

だけど、今の彼女は求めることよりやってくれることが多いから、俺が自分でできることも何となくしてくれたりすると、「え、してもらっていいの?」って思うことがたびたびあった。それが『好きならやる、できる』ってことなのかな、とはわかってきた。だから見よう見まねで、自分から別にやりたいわけでもないし、でもしたくないわけでもないから、とりあえず彼女に対して『親切かな』と思うようなことをしたら、すごく喜んでくれて、喜んでくれると可愛いいなあと思うし、そうこうしてるとお互いにもっと仲良くなれてるんで、そういう「自分からやる」ことは好きとか愛情って言われてもそうなんだ、それならできるしやりたいって思うかな、今は。自分の経験だけからいうと、相手から『あなたのために』って要求されるのはその人のエゴの強さだと思う。愛情だ、とは今の彼女を見てたら納得がいくけど、元カノには全く当てはまらない気がする。都合よく愛だの好きだのを自分の欲のために相手を動かしたくて利用してるだけな気がする。」

 

という感じで、もっといろいろたくさん、奇抜でぎょっとするような意見も出たのですが、この「自発的にやってくれることが多い彼女さん」の話が出てからは、話の内容が発展しました。好意、愛情、エゴ、というものの「区別がつきにくい」ので、発達障害の人は「愛がわからない」とか「愛がない」という風に一般的に言われているのかな、という話になったのです。

 

私も「愛がわかるか」というとわからない方の人です。子供たちの話を聞いていて、お互いを幸せにする自発的な行為や信頼できる相手との関係のようなものを「愛」と言われると、いいものだ、そうありたいと思いますし、それが愛のある関係だと断言してもらえれば「これが愛だ」と言えるようになると思いますが、現実社会ではそうした「愛」というものに実際に触れて経験することはめったにないのでは、と自分は感じます。特に、多感な時期の幼稚園や小学校の時期に、そうした「愛」と呼ばれるものに触れた記憶はさっぱりないというか、親だけが親身になってくれていましたので、親は「愛」があったのだろう、と後付けでやっと思うぐらい、人は悪意や無関心やエゴが世間の中ではあふれていて多いと思いますし、愛といわれる感情を受け取れる経験が集団社会の中でできるのは、稀で希少なものだと感じます。

 

子供たちが言ったように、「相手が要求してくる、人に何かやらせたいとき」や「相手が何か要望を持っていて、どうしてもそれをかなえたいとき」に押せ押せで理論武装をしてくる時に、定型の人はそこに積極的に自分の気持ちをまぜて伝てくる気がします。「気持ち」が印籠となるのが定型の関係で、非定型には通じにくい、むしろ何かを伝えている最中に「感情」を混ぜて話すと、上のようにエゴだ個人的欲求の押しつけだ、と誤解されるリスクの方が高いように思います。

 

彼らの話を参考に大人達も考えました。人は、いろんな気持ちを伝えてくる気がしますが、そういう人と関係が薄かったり、信頼関係がなかったり、こちら側の気持ちをあまり丁寧に聞こうとか理解しようとしているそぶりがない自己主張がはっきりした人が、むしろこちらが泣いていたり、抵抗していても「自分の気持ち、考えていること」で押してくる感じで、それこそ対人関係上の「互いの気持ちの伝え合い、その均衡」というものが取れないシチュエーションに陥っている、というような集団社会上の過去の経験が発達障害の子達には多かったのではないか、と思いました。

 

親族の子達に聞いていると、小学校の先生や担任というのは、みんなの前で教壇で話している人、そして突然自分の前に現れて「あれこれこうしないさい、だめでしょう」という指示やダメだしだけしに来る「突然の人」、という認識が強いのだな、と感じました。心の交流とかは、そこにはあまりないように思います。その、先生と関わった時間も経験もない中で「あなたのため」とか、たまに話すと、諭されたり、突然先生の気持ちを伝えられて何かを訴えられたり求められたりすると、要求優先に見えて、「先生の気持ちがなんであるか」は理解不能になるのだと思います。仕事、義務、そのために話している、という感じが一番しっくりくる、という発言もありました。

 

先に書いた、定型の親族の親が心配して子供たちに質問した内容ですが、先生との間では「交流する時間が絶対的に少ない」上に、「互いはどう思うかを意見交換する」ような関係でもない、まさに上下関係なので「ごり押し」とか「無理やりに感じる」こともあるかもしれませんが、親に関しては「子供の側」のことを知ろうとしてくれている限り、一方的なごり押しとか親のエゴで振り回されている、一方的に叱責されている、というのではないので、大丈夫じゃないかという子供たちからの返事がありました。

 

大学生が一言いった言葉が、特に印象的です。

 

自分たちのキャパは狭いし、かなり不器用だ。

世間一般の人が「愛情」から求めるハードルはかなり高い。

できないことを「愛情」という気持ちから求められると

「愛があるから期待してる、尽くすんだ」という論法で高い目標を掲げられると

「自分の限界を超えてでも」「無理してでも」やれ、と言われているように聞こえるから

だから「愛」じゃなく「その人のワガママ、エゴ」と感じることが多いんじゃないか。

 

ということです。

発達障害の凸凹を持っている人間、特に子供はキャパシティーが狭く能力が年齢以下の低さのことも多いので、周囲から求められる「当たり前」がハードルが高すぎる=要求が高すぎる、と感じるため、仮に相手が親切心から、または本当の愛情から言ったことでも、子供側は親切や思いやりと感じるのではなく「高いハードル、高い要求をつきつけてくる=受け入れるのが無理、エゴ」だと感じる感覚はあるので、愛情を理解しにくいのでは、ということなのかなと思います。

 

とすると、「世間一般的に言われている愛情」を理解するのは発達障害の人間には難しい、というのはこうした「キャパシティー」の課題が根元にあるのかな、と大人同士で話をしました。居心地のいい親族同士との間には、安心感や好感があるので、そういうのは事実なのか情なのかあやふやではありますが、「愛」という言葉が頻繁に登場する「世間」「集団社会(学校)」いう舞台では、実はどの親族もあまり実体験したことがない、というのがこの「愛」というものへの混乱の元である気もします。

 

迷走した内容ですみません。記述したり記憶した内容から定型と非定型の感覚の違いなど、何かのヒントになれば、と思い書き出してみました。(ただし、とても数人の限られた経験という偏ったものであり、取り上げた内容もごくごく一部の人間の発言や経験なので、参考にならないことも多々あると思います。その点はご了承ください。)

 

 


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