発達障害は外から見て「わかならい」難点がある、そこが大部分であるのに、見落とされがちでもある、という部分について書いてみようと思います。

 

幼少期に発達に凸凹があるかもしれない、と指摘されて療育をすすめられたり、専門医につなぐかどうかを打診されたり、保育園や幼稚園でそれとなく他の子と違う様子を見せていることをほのめかされたりすることがあります。その時に「みえやすい」凹みの特性があれば、親も「確かにちょっと難点があるような・・・」という風に理解できますが、一見、ちょっとぎこちなくても、引っ込み思案でも、あるいは多少元気すぎても「楽しくやれてそう」だったり大問題になっていないと「大げさじゃないかな」と思いがちです。

 

これは「見えている部分」で自分の子供を判断しやすい大人の習性があると思います。確かに相手は2歳児、3歳児、もしくは話せるとはいってもこの世に生まれてまだ4年、5年しかたっていない幼児だと、表現力も限られますので「こんなものだ」と思うかもしれません。

 

実際に、私達の親族の中では乳幼児期の健診では指摘なくスルーしている子達もいますし、保育園や幼稚園でそれとなくついていける子達は先生から取り立てて問題があると判断されることもなく、見落とされている子も一定数います。ですが一族でも発達に凸凹があり、小学校時代にかなり苦労するだろう、という「何か」を内面に持っている子を見慣れている年長者やそういう部分を見つけることが上手な親族は、「今のうちにできることをしておこう」という発想になります。その後のこと、を考えて「のちのち楽に過ごせるように」と、どうしても後で親子で苦労するのは避けたい、という思いが先走るからかもしれません。

 

実際、親族のそれぞれが都心部や田舎でお世話になっている主治医に予約を取って、「少し気になる」子を連れて行くと、主治医が見ると「これは特性ばりばりだね。」と言われることも多いです。一般人には「普通だよ?」と言われ、専門医からは「特性ばりばりだ。」と言われる子、というのはいったい、どういうことなのか、そこがそもそも、今の集団生活で苦労している子供たちの「困難の原因」である気もします。

 

発達障害というのは「見えない部分」の問題がおそらく、70%、80%、人によっては90%を占めるだろう、と思います。だからこそ、見落とされもするし、周囲からはごくごく「普通」に見えていたのに、いきなり鬱病になって学校生活や社会生活が困難になる、不登校になりなかなか精神状態が回復しない、という極端なギブアップケースだけが突出して「結果」として出てくるのかもしれない、と思います。

 

追加でいうと、「当事者」といわれる本人は、自分が他人と違う、違和感があるなど感じ取っていても、生まれながらに特性を備えていることで「何が違うのか」という部分に気づくことが難しいです。海外で金髪の外国人の方々の中で自分だけアジア人、というわかりやすい違いなら発達凸凹がある人でも「自分は異なる」と理解できますが、日本にいる日本人の群衆の中にいては、内面が違うという部分がよほど行動や言動で顕著に出ていなければわからないものです。

 

受動型の人が二次障害になりやすいのでは、と思うのもこの点からです。自分から行動する、言葉をつくして説明する、という部分がひかえめであるということは、内面が外に出にくいので、より他人には「その人の内側」は見えてこないです。判断できるだけの材料もありません。よって、表現力のまだまだひくい乳幼児は、このケースと同じように「内面が外に出にくい」表現できない時期なため、親であってもよく観察しないと「特性」という定型と異なる部分の発見には至りません。

 

では、発達障害の当事者側から見た「内面」というのはどういうものかというと、生まれた直後の約10年ほどが、その人の素の本質に近いのではと思います。どういうことかというと、「現実世界を確認せず、または見えず、の状態で脳内の自分独自の想像世界の中で生きて、判断して、感じている」状態なわけです。つまり、人によっては親といても、幼稚園で同級生にまみれていても、四六時中自分がいる世界は「脳内」であり目に映っている「現実」ではない可能性が高い、ということです。これは自分自身を例にとってもそう感じる部分があります。

 

物静かで、幼稚園でも周囲に合わせてごく普通にすごしている、そんな子であった私の頭の中は「自分の価値観、自分の物の見方」であふれかえった特性の強い子でした。幼稚園で提供される教育、指導者、そういったものに「なんでこんなことにこんなに時間をかけてるの」など、辛辣に否定的で、幼稚園の価値というものを一切認めず、また楽しまず、ただ「限られた空間で必死に長い時間かけてつまらないことを追求する大人と、その通りにするように求められる子供集団」という独特の妄想的な否定感情であふれていました。

 

それが私の場合は「場面緘黙症」という、言葉での交流一切を拒否する、という形で現実世界を否定し、遮断していたようです。ですが「話さないだけで、やらせたいことはする子」としてクラスでは適当にあしらえる、集団からは外れないので他の子達に混ぜておけば放置していても問題ない子、でした。完全に園側からは見落とされている子、というわけです。親だけが、私の抱える困難を早期から理解しており、園での様子を観察したり他人と混ぜた時の私の反応を参考にしたりして、家庭では私が抱える難点を解きほぐし、私を現実世界に足がつけられる、現実を生きていける人間にするための関わりをしてくれていました。その結果、今のように「自分の内面以外の、外が見える、他人が見える」現実で生きていけているわけです。

 

こういう特性を備えている自分などからすると、頭の想像の世界で一生涯、生きていける可能性についても信じることはできます。私の親が私を現実世界に導いてくれたから、今こうして現実世界に即した生き方をしているわけで、「頭の中で生きて」物を見ている状態のままであれば、幼稚園の時のままの状態で大人になっても目に映る現実を否定し、「なんでこんな・・・」と自分が生まれ持った価値観や意識せずとも内面に備えている好き嫌いを主軸にして判断を下し、つまり外の世界の価値観や「なぜか」「それをすることで何を子供たちが学んでいて大人が何をねらっているのか」すら理解せずにいたように、この現実世界のシステム、あらゆる理由や概念、そうしたものを理解せずに生きていたはずです。それこそが自閉の特徴と言われる、最も見えることのない、最も人と異なる部分です。

 

頭の中の世界だけで生きていくことは、現実世界と「ズレ」を生じながら生きていくことです。よって

 

・他人とのコミュニケーションにズレが生じる

・自分が絶対こうだ、と思うことが他人から理解されない、または否定される

・社会で重きを置く価値観や社会的重要性を感じ取ることができず、ルールを逸脱したりグループや集団の枠から浮いたりはみ出る

・真面目に真剣に、時には誠実に懸命に話す・行動することをしても、他人から疎まれる・怒られる・責められる経験をする

・自分の何が他人を怒らせるのか、失望させるのか表面的にはわかるが根本的には理解しない(ゆえに同じことを繰り返す)

 

などの、よく発達障害について困っているケース、「表に出てきた」トラブルの例のようなことになります。

 

発達障害の子の内面での自閉的な「脳内世界」を甘く見ると、「説明して解説すれば理解するだろう」とおざなりな、学校でよくありがちな、世間でしつけでありがちな「言って聞かせる」で終始してしまい、脳内世界の壮大な世界のほんの一部だけにふれて終わり、なので大部分は手付かずなのでその子は変わらずそのまま、ということがあるのだと思います。

 

大事なのは「その子の脳内世界はどんな世界が繰り広げられているか」という部分を、誰かひとりでもその世界に入り込んで知っていく、知ったうえで「比較対象」することができるような具体例を与えてくれる人がいるかどうか、な気がします。現実世界の理を「こうなのよ、こうするのよ」と説明されてやれ、と言われても脳内で子供は「何で?」と疑問に思ったままだったり「くだらない」と自分独自の脳内価値観で一刀両断で否定している可能性があります。

 

けれど、子どもの脳内世界があることを知っている親は、「あなた(の脳内世界で)は〇〇するのが当たり前だけど、こちらの現実世界の大勢は違う。〇〇するのが当たり前と考えるので、〇〇な行動をとる」など、頭の中でこう考えているだろうな、そのままだと絶対こちら側の現実なんて理解しないだろうから、そこから説明がいるな、など切り込んで行くわけです。

 

説明だけで足りないのは「経験」です。脳内世界で生きている子は経験をしないまま、生まれたままの概念や価値観だけで生きて行こうとしています。だからこそ、「楽しい、夢中になれる経験」ができる環境や場所を探してその場所に連れて行き、「え!?こんなことできるんだ!」という驚きの発見を体験させたり、自然の中で1時間座り込んでいようと、脳内以外の「現実にあるものを観察したり触ったりする」時間を作ろうとします。

 

「川は面白い」

「脳内以外の外の世界はめずらしいものがたくさんある」

「知らないことがたくさんある。知識を得るのが楽しい」

 

など、脳内世界以外のすごさ、楽しさ、面白さ、脳内にはない知識や素材が「現実世界にはある」と繰り返し体験すればするほど、その子は現実世界に自分から向かって行きます。そうして成長していくと、10年後、20年後には社会の中で生活している、という結果がついてきます。

 

脳内で主に生きている発達障害の人を、部屋で衣食住に不自由のない状態で転がせておくと、そのまま何年も何十年も「脳内の世界」で生きていけると思います。環境を自分から変えたり、外にあるものを探そうという装置を持って生まれていない人が多いので、つまりは夢中になれるものが「自分一人の力では見つけにくい」ため、趣味もみつからず、社会に・現実世界にどんなキラキラした楽しみ、体験、知識や素材があるのかも知るチャンスもなく、ただ、現実に触れることのない「脳内生活者」として身の回りにある物をちょこちょこいじって生きる、という状態になれます。

 

療育とは役に立つのか、療育って何?と地域の、特性があると指摘されたお子さんをもつ親御さんから相談されたりもしますが、それって定型の専門家が考えだした「現実社会に触れさせる」一歩なのかな、と思います。家庭や親が提供している世界では現状、その子は「脳内の世界」で生きている感じなので、全く違う「療育先」の環境で「先生や知らない他人の子」と接触させて、現実をドン!とぶつけてみる、感じさせてみる、という手段なのかな、と思うわけです。

 

目の前に先生や子供がいて、違う環境にいると「そこに目が行く」しかありません。発達障害の子はそれでも脳内でいろいろ考えていますが、療育先は保育園や幼稚園とは違い特性を扱う専門家がいます。幼稚園では例えば「折り紙を先生が一斉指示をした通りにおる、教育目標に到達する」という幼稚園の目的に沿うように行動を促されますが、療育先ではそれは二の次です。むしろ目の前の「人間」を見てみよう、自分以外の世界を知ろう、どういう他人の関わりが不快で、どの関わりならOKかな、あなた以外の子もいる場ではルールがあると、混乱しなくて居やすくないかな?などをよりわかりやすく体験させ、指導者・指導される子両方が互いを知る場、という感じがします。

 

話が散漫になりすみません。結論として、私達親族が目指す「成人し、社会に出て働く、独り立ちをする」というシンプルなゴールは、結局のところ「自分だけの脳内世界で生きていくことは生活を営む現実社会では難しい。であれば、現実世界で生きていくノウハウを身に着けよう」という方向性なのかなと思います。現実の場に出てこけつまろびつしながら、無様でも、ぎこちなくても、体験し試行錯誤して得た経験、楽しみや面白さや知識は、自分を現実の世界に足をつけさせます。周囲の人たちを、現実に起こる物事を、自分の脳内だけで判断し、多くを遮断し、よって否定したり嫌ったり責めたりしてい生きていくよりも、それはずっと感覚的にも「何かまとまって得られた感じがする、実感をともなうもの」となっていきます。それが安定であったり、心の安寧であったり、幸せな感じだったりするのかなと、そしてそれが定型の人の言う「成長」ではないか、とも思います。

 

かなり感覚的なものの説明になってしまい伝わるかどうかも心配なのですが、文才がないのでご容赦いただければと思います。

 

 


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