先に書いた「発達に凸凹のある子、学習時の「物の見方・理解の仕方」にも凸凹がある。その1」の記事の続きです。

 

「発達凸凹がある子は視点や理解の仕方も異なる」ので、定型の普通の学校での教え方では理解できないまま、ということはあり得るという説明を長々と書きました。主題としては、発達凸凹さんにも思考する頭がある以上、その思考力が弱い・優れているという違いはあるにしろ、その子が持つ視点や理解の仕方にピントが合った場合の説明や内容提示だと、「わかる」につながる結果がもたらされることもある、ということが言いたいわけです。

 

定型の、大勢の子達が簡単に理解できることが理解できない親族の子が、場所を変えてやり方を変えて学習が「わかる」ようになったのはなぜなのか。

 

そこから、つきつめていかなければわからなかった事が多々あった、ということでもあります。例えばどんな風に変えたかは、公立の普通級から支援級へ移動して「定型の学習指導、スピードから一度、離れてみた」子が、一見その子にそぐわないだろう進学塾の個別指導を体験したところ(入塾試験がボロボロなので集団クラスは無理と入塾拒否されています)、その個別指導の先生の説明は「わかる」と言うので続けてみて、驚くほど学習理解がすすんだ、しかも「学校の授業では混乱して終わるけど、塾の先生の説明はあっという間に、すっきりまとめてくれるから、早くたくさん覚えられる」と喜んだような例も、いくつも過去からポロポロ出ているわけです。

 

最近、この例に該当した、親族の家庭が帰省していました。いろんな問題点に親側は悩みました。まず、「普通に与えられて受けている学校教育」の場所では理解できないカテゴリーの子がいる、ということ、その子がまさに自分の子であったこと、「普通の学校のカテゴリー」にいると理解できない、「塾というイレギュラーな私的なカテゴリー」にいると理解できる、という困った現象、これをどう受け止めたらいいか、という葛藤もあります。

 

親族の親達は変わっている人間が多いので、「わかるなら、わかる方で学べばそれでいい」とあっさり、学校ではまず学習理解ができず点数が取れないので成績もオール1か2になるし、多大に学習の遅れがあるから支援級在籍でいい、と割り切って、学習は外で履修させ、中学までに学習知識と基礎力を備えたらいいんだし、とさっさと行動してしまっているケースも多いです。このケースが親族では大半なのですが、そこまで割り切れない親族ももちろんいるわけですので、「同級生みんながいる普通のコースが持つポテンシャル、普通であることの大事さ」に重きを置き、普通級での学習をなんとか、「子供側の視点や理解力をより定型に近づける」方向性でトライしたいケースも出てくるわけです。

 

その結果は、良くも悪くも、定型と非定型の子供や親が集う年末年始などで出てしまうわけで、「結果」というのは案外重く、悩み続ける子と、「え、あんなに1年生の時には勉強できなかった子が、学年相当の学力がついてきてるの?高学年の勉強ができてるの?」という結果となった悩み少ない子を、親も自分の目で見てしまうことになります。全部が全部、そういう結果にはもちろんなっていません。ですが「違うやり方で、悩みを突破した子達がいる」という事実はやはり大事なので、親も「これからどうしたらいいだろうか」と苦しみます。

 

経験者の大学生たちは、そうした親族の親たちにとっては自分の子供の先駆者であり、参考材料でもあります。なにしろ、「自分の子供たちの状態を解説してくれる」存在でもあるからです。今年の冬は、方向性に悩む親族の親に、自閉症スペクトラムの大学生親族が、実際に目の前で親族の子の「学習指導」をして、子供の持つ可能性をはっきりと実感させてくれた例もありました。

 

私は理数系の人間ではないので、算数でその大学生が「こういう解き方と考え方の方が、お前には合うと思う」と言ってサラサラと書いて示した内容が「どこがわかりやすいの?私にはよけいにわかりにくいんだけど・・・」と思うような内容だったりしたので記事内で書きあげられず、省略させてもらい申し訳ないのですが・・・。でも、学校の算数が全くわからないというその子は、反応しました。いろいろとその大学生に質問して、最後には「わかった」と言うわけです。

 

わからない、わからない!と親が説明すればするほど、泣いてわめいて勉強にならない子が、この大学生の特殊な説明は「わかる」と言って聞くのですから、親も脱力していました。「今までの私達の努力と忍耐とイライラはなんだったの。」という無力感といいましょうか。餅や餅屋といいますが、親と子の思考回路が違うのであれば、子の思考回路につながれるスキルの持ち主が先生であれば、この「親子の教え、教えられるバトル」は勃発しないのです。

 

国語でも、この大学生は親に辛辣な指摘をしていました。この子が帰省に持参した教科書ワークをしてみて、わずか2ページをしたところで「この子はこのワークの質問そのものや、求めている解答が『どういうものか』ということは全くわかっていません。そもそも、文章自体を読んで解答できるところまで到達していないので、このワークでの勉強はやるだけ無駄です。」とバッサリでした。

 

この子がそう言われて落ち込むかと言うと、「そう!このワークはさっぱりわからないから、いくらカラーテストのためにやって覚えておきなさいって言われても、わからないから覚えられないし、結局、学校でもテストで全然書けなくて、いい点数とれたことない!」とイキイキと説明していました。親もなんとなくわかってはいたものの、はっきりと言い切られると、もうショックだし、さらに脱力です。

 

この大学生は、保護者に「うちの親が、言葉遊びをしよう、といつも言葉ゲームをしてくれてました。これが実際には読解力につながった。だからおすすめします。」と、説明していました。大学生が言うには「よくしゃべるからといって、言葉を学問的に理解しているわけじゃないので。勉強に必要なのはスキルとしての語彙やパズルのような意味・文字と自分の頭の理解回路の組み合わせなので、一つ一つ教えていったほうがいい」というものでした。すでに2年生も終わるので、かなりやらないと3年生の国語にはまだついていけないだろう、とも発言していて、親はがっくり来ていました。

 

この大学生はアルバイトで講師の仕事をしていますので、アドバイスも具体的でした。まず、この子の場合は言葉自体が「学習の、特に教科書やワークブックの中では」使えていないので、「あいまいな言葉」から、先に具体化していくように、とのことでした。どういうことか聞いてみると、

 

例えば、「この子は、虫や生き物なら、この生き物は節足動物、この生き物は両生類、そういう風に具体的に把握ができる。でも国語となると、「季節外れの光景だね。」と教科書に書かれていると、具体例が出ない。具体的には「夏にムートンのブーツを履いている子がいる、とか、冬に綿の薄い素材の半袖、半ズボンを着ている人が大勢いた」とかなんですが、文章が「季節外れの光景にびっくりしました。例えば、真夏だというのにムートンの毛皮のブーツをはいていたり・・・」とすぐそばに書かれていてもさっぱりその部分の描写が「季節外れ」の具体例だと気が付かない。

 

「季節外れ」という言葉を、具体的に理解するには、親が「季節外れ」の例をいくつ出せるか、の言葉ゲームでもして、なるべくたくさんの生活と密着した、この子がいつもの生活の中で「そうそう!そういうことある!」と実感できるような親しか知らない例を出したりして説明することで、やっと定着する。その積み重ねが国語の文章を読むときにやっと「読める」につながっていく。経験がないと読んでも読んでもわからない。頭の中で経験したやりとりが浮かばないから、今のこの子は、教科書を理解するための活用データが頭の中にはない、という状態です。

 

他にも、「デパートに行くと、必ず親が『エスカレーターとエレベーター、どちらを使うべきか』という、その時の状況にあった選択のあてっこクイズを出してました。親が決めている選択肢を当てる、という遊びです。その時によって荷物がすごくあったり、弟のベビーカーを押してたり、状況が違う。それを『なぜなら』を使って説明してね、とか言ってきた。自分は『俺はエスカレーターを使いたい。なぜならさっさと上まで行けるからだ。エレベーターは選びたくない。なぜなら待っても人がたくさん乗っていると、弟のベビーカーが邪魔で乗れないし、自分まで先に行ったらダメ、一緒に上がるように、って待たされることがあるから腹が立つからだ。』とか、一生懸命考えて言うわけ。親は『腹が立つんだ!さすが気の短い〇〇ちゃんだね!』『お母さんは、エレベーターを使いたいです。なぜなら、エスカレーターだと〇〇ちゃんがぴゅーっと先に行っちゃって、どこに行ったのー!!ってあとでびっくりするから、絶対エレベーターがいいです!エレベーターに押し込めたいです!というのは冗談で、ベビーカーだとエスカレーターにのせるのは危険なので、必ずエレベーターを使わないといけません。』とか説明しつつ、笑い転げてた。自分が発する言葉に親がものすごく反応してすごい発想!って笑ってくれるから楽しかったですよ。記憶にも残るし、なにより作文で慣れた言葉だから『なぜなら』とか書くようになる。比較するようにもなる。一番いいのは、親の変わった考え方も知れること。でも、一般的には自分の考え方の方が変わってるんだ、って時々自覚したことかな。国語の文章は、親よりの、一般的な考え方のことが多いでしょう?俺の考え方だと教科書は理解できない。」

 

というものでした。「机に座らせて、いくらワークブックを毎日やらせても、全くできるようになりませんよ。思考回路が違うから教科書が理解できないのもありますが、生活の中で言葉を覚える体験数が絶対的に足りてませんから。僕が読書は好きでしたけど、言葉を『使う』部分で理解していないので、低学年の国語のテストはボロボロでしたから。」と、自分の経験談も話していました。1年生のカラーテストがボロボロと言うことは、相当、国語の理解力が低かった、と自分でも思うそうです。親が危機感を抱いて、生活の中で言葉ゲームを繰り返して、

 

「抽象的なことを生活の中の具体的な使える言葉とつながるように、親がおもしろおかしく言葉を使いまわしていると、子供はすごく聞いて覚える。」

 

「作文を書く時や、読解しないといけない文章を読むときに、『なぜなら』とか『~であるが』という言葉で親と遊んだ経験上、ぱっと目が行くようになってるんで、スコーンとスルーするとか、目に入らない、という現象が減ってくる。見慣れた言葉は経験をつれてくるから、読んで理解できる言葉になっているんで」

 

あと、漢字が覚えられないタイプもこの「言葉を使う部分で理解していない」子に多い、自分もそうだった、と指摘しています。この子が漢字を「本当の意味で漢字ってこういうもの、とわかったのは『共』って文字で親が遊んだ時」とのことでした。

 

「公共(こうきょう)」という漢字を、「校今日」だとか、「高教」だとか書いてたそうです。「公共の場」と書かれていても「校教の場」と平然と書く子だったらしく、自分的には「学校の教える場所じゃん。みんなが学ぶのが校教だよ」と勝手に自分語を創造して、自分的には合ってる、という納得感があったので、思考回路がそちらへ行ってしまってますから「公共」と書けないわけです。

 

親御さんは、外を歩くときに「公共の~」といちいち、「公園」を指さして「公園は公共の場所!いろんな人が共に遊ぶ場所!だから公園の公と共に遊ぶの共を取って、公共!」とか、わざわざメモ用紙に書いてぶんぶん振り回しながら主張したそうです。家では「公共、共有、共同、共演、共通」とホワイトボードに書き出して、「共に」という意味を強調したりして、最終的に「『共』はみんなでやる、みんあがいっぱり集まる、いろんな場所で使える」とアピールされて、「なるほどな『教』だと学校でしか使えないからか不便だな。」(←こう考えて納得する思考回路が独特)と理解して「公共」と書けるようになり、「共」を使う漢字は間違わないようになった、など・・・

 

発達に凸凹を持つ子で、学校の通知票で1や2を取る子の抱える理由は、あんがいしっかりとあり、かつ、それなりに子供のつたない頭で思考して出している結果だったりするので、根深かったりします。定型の大多数の集団生活である普通の学校のクラス内で、さすがにこんな「公共」程度の漢字を、時間をかけて指導はされません。ですので「漢字」はいつまでたっても、学校では「作業上、書いて終わるだけの学習」どまりです。新しい漢字は、だいたいの意味をさらりと説明し、教科書を読んだ時にフリガナをうち、ノートに書いて書き順指導をし、留め、ハネをきちんと書けるようにする、最後にテストで正確に覚えたか、書けるかを確認する、そんな程度ではないでしょうか。これでは「使える漢字」として習得できないのが、発達障害の子達だ、ということになります。定型の子は、この習い方で、さらりと読解時に使いこなせるわけです。発達障害の子と定型の子では、学校で教えられたことの習熟度にかなりの差があります。

 

こういう、親族である大学生のお兄ちゃんが言うところの、「日常生活の中で学ぶ」ことをしたうえで、使うといいよ、と言っていたのが

 

・スマホなどのアプリ(学年ごとに漢字ゲーム、九九のゲームなど無料ゲームがあります。『仕上げ』として使うとよいということです)

 

・NHKの子供向け、学習っぽい番組を見る

 

・動画を利用する(学研のゲーム的な動画学習(【学研ゼミ】 )、解き方を一つ一つ教えてくれる説明的動画(スタディサプリ、過去記事

 

などです。学校の勉強が「まあまあ、平均ぐらいはできてるけど苦手がある」子は、いきなり上の3つで勉強しても伸びる可能性は大きいけど、学校での勉強が全くできていない、理解できていない子は、上の3つをする前に、この記事に書いたような「独特の視点や思考回路に応じた学びの場、学び方」に先にシフトする必要がある、ということです。

 

この親族の大学生のように、小学校はダメダメ、親子で方向転換してからようやく小学校高学年ぐらいに理解しはじめ、中学でようやく同級生と同じクラスで学んでも「少しは理解できる」状態に、でも個別塾の指導は必須で「効率的な学校とは違う塾のスキル」を教えてもらい、少しずつ、受験に対応できるまでの学習能力に変化した、という例のような子もいるということです。

 

学習はずっと義務教育中はついてまわりますし、どの親にとっても子供自身にとっても悩みの種ですから、これらの記事が少し発達に凸凹がある学業不振な子達の突破口のヒントになればいいなと思い、書いてみました。

 

 


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