今日は少し、これは非定型の子、独特の性質なのかな?と思うことを書いてみます。

 

(*注意:火葬等の表現が出てきますので、そうした場面の記憶の揺り起こしなどがあり苦痛になる方や、悲しい思い出はストレスになる、という方は記事を読まないなど自衛してください。)

 

私達自身は非定型の多い身内たちの中で成長し、老いるまでその環境で生活していたり、また田舎の独特のしきたりなども混ざり合った文化の中で生活しているので「これがおかしい」という感覚が薄れていることも多いです。ですので、私達は「自分たちの何が一般的な大多数の人にとって異質なのか」は、直接、その大多数の人にアドバイスや意見を聞いて、情報として仕入れる事を絶えずやるようにはしています。そして親族間で「世間一般的には~らしい」「最近は~の傾向が普通らしい」という風に、情報交換もしますので、都心の方の情報と田舎の情報も大きく異なることもありますから、それなりに冠婚葬祭や盆暮れ正月などにはまとめて情報交換したり、たまに互いのメールやSNSで情報流しをしたりしています。

 

今日の題に書いた「物への執着、さようならの儀式、亡くなった人の見送り」ですが、どうやら私達の親族の子供たちはファンタジーがすぎるというか、物への愛着を見出した時には、物自体に魂を感じてシンクロしてしまうような子もいて、なかなか処分できない、という人の数が一般よりも多いようです。

 

というのも、過去にもいくつか「物」についての記事は書いたと思いますが、それから今に至っても、年齢が幼稚園から現在は小学校高学年になっていたとしても、その当時に持っていた「ぬいぐるみ」やかわいいアップリケ、または飾りのついたトレーナーや、ちょっとした手作りの折り紙の動物など、そうしたものを何年も「捨てきれず」親の方が増える物にあふれた部屋に困って、さあどうしよう、今度は中学生になるのに、さすがに幼稚園児が持つ程度のものを中学生になっても持つのはどうかな・・・中学生の物品も増えるし、収納には限りがあるし(ここが切実な問題です)、ということで、いいアイデアはないか、とメールが飛ばされてきたりします。

 

親族の子育て経験者からの回答の多くが、こんな感じです。

 

そりゃ、儀式をしないとダメだ、古い子の魂が疲れ果てているから、「今まで本当にありがとう、楽しかったよ」とねぎらって感謝して、大事にあの世に送り出して、また生まれ変わって戻ってきてくれるように促したほうがいい、みたいな、これまた大人のファンタジー丸出しの回答が真面目に回ってきたりして、「やっぱりうちの一族だなぁ・・・」とあきれ半分、関心半分で読んでいたりします。

 

もともと、日本の神社や寺の概念は曖昧ながら、「敬う」という気持ちだけは維持している親族なので、老いたものを見送るという気持ちも大事にしています。以前火葬について記事を書きましたが、これもよく「やりすぎでは」と一般の人から言われることがあるのです。お葬式のあと、人数が多いのでバス何台も出して親族は火葬場に向かい、それこそ小さい子から100歳近いよぼよぼのじいさん、ばあさんまで、骨拾い、納骨まで付き合います。

 

以下の内容には、10月ごろの記事で詳しく葬儀の時の事について書きましたので重複がありると思いますが、「物とのお別れ」に必要な概念だと思ったので書いておきます。

 

結婚して一族の中で暮らすようになった人が一律驚くのは、幼稚園児や小学生の年齢の子に「火葬に骨拾いまで見せるの!?」という点でした。私達は小さい頃から、それこそ自分の祖父母も自宅で息を引き取る瞬間まで立ち会って見送っており、その体は朽ちていくので、お別れを惜しむ私達がその別れがたい気持ちを振り切って、仏様の元に魂が旅に出られるように(四十九日の考えで)、残されたものが旅のための足袋を履かせ(主に小・中・高校生の親族も大人と一緒に旅の支度を担当します)、身支度をして、死に水を取り、お棺に入れて運び、火葬して、お骨をお寺、それから墓に入れる、というところまで付き合うのが一連の流れだと思って生活していました。

 

逆に、その途中の火葬に立ち会わない場合は、「火葬で今まで傍にいた祖父や祖母が消えてなくなる瞬間を見ずに、どうやってあの世に送り出したことを理解するのだろう」と心配になります。想像力がない私達が、はたして「ご遺体がどこへいったのか」という疑問に現実的に見ず、ただ情報として知っているだけでは、その後「おじいちゃんは仏さまのところへ行ったので、四十九日の旅を終えて、今は平和に仏様の元でお勤めしながら過ごしているよ。」と言われてもピンとこないのでは、と思うわけです。

 

おそらく、火葬した後の高熱の台の上に、お骨と体の部分に使用した人工関節など治療した器具などが残った、生々しい状態に変化した身内のリアルな姿に子が耐えきれるのか、残酷な映像ではないか、ということが問題になるのだと思いますが、悪い意図を持った結果でそうなったわけでなく、逆に神聖な、お葬式からの流れにそった手順の中の一つとしての「ステップ」であり、その手順をこなすことで、亡くなってしまった人への喪失感や、突然の変化についていけない・亡くなったのだという現実をとらえきれていない子や大人には、待ったなしで次々とステップが作られているベルトコンベヤーのような対処過程や「映像としてのありのままの変化」は、私達のあらゆる状況理解を一発でさせる手段であり、だからこそ平常ではない心身を落ち着かせ、そして麻痺して感覚が無くなっている自分に少し余裕を与えてくれますので、逆に

 

「大事なおじいちゃん、おばあちゃんがちゃんと仏様のところへ行けますように」

 

「お骨は私達がちゃんと、お寺に収めておくからね、安心して行ってね。話したいときはお墓に行くから聞いてね。」

 

と、親子で言い合って、最後の「残された人間の心のよりどころ=納骨が済んだ墓」ができ、落ち着きに到達します。いつも、親族を失うたびに、この一連の流れが無ければ、とうやって心の中に渦巻く

 

「まだ(いなくなったことが)信じられない。」

「こんなこと(いなくなったこと、変化)は耐えられない」

「自分のこの気持ちはどうしたらいいのか」

「わけがわからなくなってる(混乱)」

 

という変化に耐えていけるのだろう、と思います。

 

子供たちの、葬儀から火葬までの動きとしては、

 

子供たちは、特に幼稚園や小学校の子達は、大人達は葬儀の段取りや身支度でばたばたしますので、中高生や大学生の子達がちびたちと、「故人のお棺に飾るものを、お手紙を作ろう」と折り紙を折ってくれたり、さようならの手紙を書いたりしてくれます。葬儀場では「ただ、参列してくれたご近所や遠くの親族・故人の友人や関係者」がひっきりなしに来るので、なんだかわからないうちに通夜、葬儀が行われる、という感じです。

 

その後、親族だけでバスにのり、山深くの火葬場へ行ってからが子供たちの「現実のお別れ」です。小さい子達には、大人が必ず、故人の伴侶や家族はその「故人の姿と会えるのは、これが最後」という場面で名残惜しいのだ、あなたたちも、故人のあのお顔が見れるのは、これで終わりだよ、身体は燃やして天国へ先に行くからね、お骨としか会えないよ、と説明し「会えないのだ」「あの顔が見れなくなる」という切羽詰まった場面で、初めて「別れ」を感じて、次の火葬が終わった後のお骨と対面して「本当だ、消えた、もう天国に行ってしまった。」と半ばぼうぜんとするような感じで「変化」を受け入れます。

 

ここまで書いて、その意図がわかっていただけると思うのですが、非定型の子達は、自分が身の回りに持っていて「ひとたび愛着を持ち、ずっと手放さないもの」に関しては、この上に書いたのと同等の「お別れの儀式」が必要になる、ということです。理由は上に書いたように

 

・別れる、という意味合いが「捨てる」では感情的に耐えられない・かわいそうで捨てられない

・別れた後、その別れた子がどうなるかわからないのに、手放すことはできない(一種の責任感)

・別れ、という変化そのものに対応できないからしない(儀式というものがないので別れ方を知らない)

 

というのが大きな理由だろうと思います。着ることができなくなったお気に入りの服や、幼すぎる小さな持ち物、紙くずやごみのようなものまで、愛着を覚えると「手放せない、なぜなら~」と上記のような理由でダラダラと保持し続けます。

 

子供のうちはそれでいいかもしれませんが、これが「こだわり特性の一つ」になり、別れ方を知らないまま大人になり、何でも取り置きして置いておく大人・親になった時、困るのはこの子自身です。汚部屋になるものごみ屋敷になるのも、同じような理由かもしれません。また、同じように心を預けた物はすべて捨てられない、という自分自身の子供もまた、指導できない親になってしまいます。親子で思い入れのある物をどんどん残してしまっては、家の状態は「すっきり・シンプルで構造化された部屋」という非定型の子が最も必要とする、集中できる・状態の良い部屋には物理的にできなくなってしまいます。

 

そこで、親族は子供と共有のファンタジーでこれを解決しています。人形は供養できるお寺が世の中にあります。この概念と同様に、どの持ち物も供養のようにオリジナルの儀式をして、丁寧に捨てるかリサイクルに出し、自分の元へ生まれ変わるか、自分が楽しい嬉しい思いをしたように、新しいオーナーのところへその「物」はお仕事に出て、また小さな子供と楽しく暮らすのだ、そのあと押しをする手助けを自分がお礼として担うのだ、という考え方で「お見送り」をします。

 

最初に書いた物が捨てられなかった中学生の子は、幼稚園時代からずっと取っておいた着れない服に「さよなら」の儀式をし、擦り切れるほど着まくった服なのでリサイクルはほぼ無理なので、一つ一つ、包装紙でくるんで「ありがとう」のカードをつけて、大きなごみ袋へ入れ、お別れの儀式をして執着は終了したそうです。魂があの世にいけば、残るのは「抜け殻」ですから、きちんとゴミとして処理してもらって、生まれ変わってくれたら、新しい自分のサイズにあった服で、同じようにピンときたお気に入りになる服として出会える、と感覚として納得したわけです。

 

スーパーやデパートで、

 

「あ!この服!ぜったいあの子だ!大事にしてたあの服と同じ感じがする!絶対生まれ変わりだよね!これがいい!これにする!」と変なセリフを言いながら洋服売り場ではしゃいで服を購入している子がいたら、おそらくその子は私達の親族の一人です。

 

まあ、幼いけど、変わってるけど、それだけ服に思い入れてたら大事に着るんだろうからいいんじゃない、とでも思ってぬるく見守っていただけますと嬉しいです。

 

同じように、大事なものは捨てられない、捨てるなんてかわいそう、と「物を擬人化」してシンクロするあまりに何でも保管して捨てずにいる子には、こうした「儀式」をして、気持ちの存続は大事にしてあげ、使われて疲れ果てた物は労って感謝しつつ、幸せにしてくれたお礼としてあの世に送り出して上げてはいかがでしょうか。それがすなわち、物の供養となりその子の「変化の受け入れ」の形となると思います。

 

親族の子と同じように古くなりくたびれた物とまだまだお別れできず、困っている子(親)に儀式がききますように。

 

 


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