私達、親族は色んな地域に散らばって住んでいます。そして子供に発達面の凸凹がある、という場合は、何らかの形で勉強会やサークル、保護者会などに参加したり運営のお手伝いをしたり、たまに成長した子供の経験を伝えたり、という活動をすることもあります。

 

私もこの田舎の地域に長くいて、親族の不登校の子達の勉強会を持ち回りで担当していたりもするので、学校の先生にその状態の報告を書くこともありますし、お会いして話すこともあったり(田舎では先生がひょい、っと顔を出しに来てくださったりすることが結構あります)、ご近所の方の依頼で相談先に出かけて行ったり、お世話になった主治医や専門家のつながりで、発達検査を受けた子供の保護者の方とお話しをすることもあります。

 

この「発達に凸凹がある」という状態は、見えにくいちょっと変わった部分、性質というか特性というか、独特の思考回路などがあるという部分で扱いが難しいです。なので、集団に入ると、目立つことも出てきます。

 

制服を着て集団でいると、自分の子供だけがなぜか「ちょっと違う」動きや視線のくせがあり、なんとなく浮いてしまっている。集団で音楽や劇をやると、何かちょっと自分の子供だけが異色で、その他大勢の子と同じような感じにならない。

 

そうなると、見ている親の方が不安になったりストレスで気にしてしまったり、色々と「受け入れにくい」感情と戦っていくことになります。とても、とてもこの「人の集団の中で自分の子だけが目立ち始めている・浮いてきている」という現実を理解し、受け入れるのは本当に時に苦しく、衝撃的でもあり、また「なんとかならないか」と親主導でしつけや指導で「子どもを変えよう」と考えたりもしますが、上手くいかなくて悩みが深まったりもします。

 

今日は親の側の話は横に置いて、子供の側の話をしていきます。(親側で取れる対策については、過去記事を参考にしてもらえればと思います)

 

この「集団から浮き始めた」時期の、初動がかなり、子供の今後の精神的な流れに影響を及ぼしてしまうことがあります。子供が感じるその時の不安や、なんとかしようとする焦り、なぜなんだという疑問、いろんな困惑が生じたときに「その状態になっていることを理解して話せる相手、大人、友人がいるかどうか」で、

 

・不安や焦燥感を本人が一人で抱え込むか

・今後、少しずつ小出しに他人に自分を出していき、工夫などを考えながら、動いて行ける方向にすすむか

 

と道が分かれやすいように思うからです。子供たちの「親にも言えない不安」の発生は、こんな感じが多いです。

 

・ クラスのみんなを見ていると、楽しく過ごしている。自分はその輪の中に入れない、入ろうとするけど常に自分だけ浮く、なぜ?

 

・ 楽しく話しているつもり、普通に会話しているつもりなのに、相手の友人たちはいつも黙ってしまう。その場がしらける。居心地が悪い雰囲気にいたたまれなくなる。でも、なぜ?

 

・ 班を決めたり、グループを決める時に、同級生達は自分と目を合わせないよう、会話の輪の中にうっかり入れてしまって同じ班に入れて、と言われないよう、みんなよそよそしい感じになる。歓迎されていない、一緒にやろう、と誘われないことだけはわかる。でも、なぜ?

 

・ 休み時間、みんなは普通に楽しく過ごしているのに、自分は「どうしよう、どうしたらいい」といつもグルグル、焦って困って悩んでいる。すごい緊張して手に汗をかいたり、腹痛がしたりする。でもいい状況になることは全くなくて、毎日どうしたらいいかわからない。

 

・ 朝、クラスの中に入る時が一番怖い。誰も「自分と同じような」雰囲気とかきやすい感じの人がいなくて、「何か違う」って感じる同級生ばかりで、自分がどうしてこんなに皆と違っているのか、をひしひしと感じる時間帯。だからすごく緊張する、お腹も痛いし、変な汗もかくし、怖い。誰とも話せないし、話しかけてもくれないし、話したところでしらけるし、どうにもできない。

 

以上が、親族の子達の経験や、親族の子以外の、相談先で子供たちと話して聴いた内容で多かったものをリストしました。

 

共通しているのは「集団の中であるからこそ、深く感じる疎外感、自分が違っている、異質だ、という違和感」です。

 

ここをどうしても、周囲の同級生も子供本人も「なぜか」の部分はわけがわからず、ただ扱いづらくて、「普通に会話ができない」とか「みんなと同じレベルで、同じような楽しみ方ができない」とか「みんなが普通に仲間になったり、グループになるのに、自分はそのやり方がさっぱりわからない。いつも見てるだけで中に入れないし、入り方もわからない。やってみても失敗して、なんとなく嫌煙されはじめる。」

 

というような、本人たちなりに悩み、焦り、対策して、失敗して、意気消沈して、どうして?どうして?なんで?と理由もわからず、日々が苦痛のまま孤独に過ぎていく・・・という日数だけが重なっていく集団生活を送っている、というのがわかります。

 

親は、その現場にいませんので、子供が家を出て「行ってきます」と言えば、学校で集団の中にいるのだから、学校生活をしていればもまれて学ぶし、一人ぐらい友達もできるし、なんとかなるだろう・・・と思いがちですが、そう簡単ではない、というのが子供の話を聞くとわかっていただけると思います。

 

親の自分が、町内会や学校のPTAで、上に書いたのと同じ状況になったら、毎回その町内会やPTAで大勢の和気あいあいとした保護者や町内の人たちの中で「一人ポツン」の状態で、話しかけたり溶け込もうと努力しても、なんとなく嫌煙されて、いつも疎外感を感じて話す人もいないまま、話しかけても会話がすぐ終わり、その相手は他の人と楽しそうに話している・・・どんなに努力しても自分はなぜか「浮いてしまう」というのを目の当たりにする状況で、大人の自分でも平気でいられるか、を考えると、それが毎日、朝8時過ぎから夕方3時や4時までずっと!と考えていただけると、ストレスやいかに、という現状がおわかりいただけるかと思います。

 

ご主人に町内会やPTAがつらい、と相談するかもしれません。でも「そんなの、行けば集団なんだから、なんとかなる!やらないといけないんだから、やるしかないだろう!」と言われて頑張っても、孤独で嫌煙されてるのか、親しくなりたくないという風に目も合わしてくれないような集団で、頑張れるのか、と泣きたくなると思います。ほしいのは、「わかった。自分も一緒に行くよ。」と、ただ孤独な中でよりそってもらえたり、一人にしたまま「頑張ってこい!」と突き放されたりしない、何らかの助っ人になる行動かもしれません。

 

話を戻して、子供が学校内でずっと「浮いた感じ」や「疎外感」を感じて針の筵の状態で緊張しながら生活すると、それは主に精神的な面で深い記憶、つまり傷になることがあります。人と同じではない、集団で上手くやれない、「自分だけが」浮いてる、輪に入れない、という体験は大人が思うよりずっと、その体験から得た絶望感や無力感、自分への自信喪失、自分の資質への低評価となって子供の心に深く刺さります。

 

発達系の本に書いてある「自己肯定感を下げる」という言葉は、これを一言で言い表しているだけにすぎず、具体的に書けば上のような内容を含むのだと思います。

 

子供は、自分自身も「なぜなの?」と、浮いてしまう、集団の中に普通に入れていない状況を分析も判断もできないので、学校へ行きたくない、と言う子に「なんで?何が原因なの?いじめられたの?」と聞いたところで、具体的に返事ができません。一人で孤独だ、とでもいえればいいですが、その一言すら言えない、恥ずかしい、自分が「人と違う子」だったら親からがっかりされたらどうしよう、もっと頑張れって言われるだろうけどできないし、言えない、と、ぐるぐる一人で考え抱え込んで「うずくまる・動けなくなる・閉じこもる」に至る子もいるぐらいです。

 

私達が相談先で口をつぐんで親に説明ができない状態のお子さんから「なぜ」の部分の話が引き出せるケースがあり、その場合の理由はほとんどが「その状況が痛いほどわかるから・経験したことがあるから・今現在、そういう同じ状態の親族の子がいるから」という、同じだ、という点で話をすることができたから、それだけだと思います。同じ傷持ちだから、それだけです。

 

「学校に朝行くと、教室の中を見ただけで、『あ、だめだ、ここの中にどうやって入っていけばいいんだろう・・・みんな自分のことなんて見てないし、座って、自分はじっと授業が始まるのを待って、休み時間にまたぽつんとして、給食の時間はどうしよう、体育で移動するとき、一人でどうしよう、準備運動で組める相手がいないのに、どうしよう…』って、一気に不安になる?」

 

等々と話しかけると、だいたい、無言でその子達は、こちらの顔を見て一気に涙をあふれさせることが多いです。言葉が出ない。喉のところで、固まりがつかえます。今まで耐えてきた分の、言えなかった、学校で毎日こらえてきた分の塊が、息を止めそうに大きな瘤となってつかえます。

 

話さない、のではなく、話せない。息を止めるぐらいの塊が喉につかえているから、言おうとしても言えない。

 

それが現状ではないかと思います。だから、相談先が必要なのであり、代わりに無言でいても、こうじゃないか、こんな風につらいのではないか、と代弁してくれて「うなづくだけて伝わる」という状況を与えてあげることで、先に「喉のつかえ」を取り除いてあげることが大事になってきます。

 

だいたい、言葉で言い表せるようになるのは、こうした我慢してきた「喉の所で固まりになってつかえている何か」が、少しずつなくなってきてからです。

 

ぽつり、ぽつりと話すのは、こちらが「みんなが楽しそうに会話しているのを見ていて、なんで自分はこういう風に普通に会話に参加して、普通にすんなりみんなと付き合えないんだろう、って思いながら見ている自分が、なんだか同級生の中で自分一人だけ違うみたいで、異質な感じがして居心地が悪い、みたいな感じはしてる?」という感じで聞くと、自分が感じている

 

「どういう会話したらいいか、話しだすきっかけもわからない」とか

 

「時々、性格のいい子が話を振ってくれるけど、とっさに反応できなくて、周りの子達があ~あ、って感じで話の流れが悪くなるって言うか、中断したのをしょーがない、ってあきらめた感じでバラバラってどっかに行っちゃったりするのが、余計につらかった。」

 

とか、その場面、場面を思い出しながら、泣きながら話すのを見ていると、「ちょっとだけ異質、人と違う性質や社会性の部分の苦手を持っている子達にとって、集団生活は厳しいものがあるなあ・・・」と、つくづく思います。

 

それを何とかやっていけるように、というのが普通の指導なのでしょうが、その傷がもとで家から出れなくなった、不登校が長引いて5年も10年も復活できない、社会人になるめどがたたない、という風になってしまえば、その指導は成功しているのか?と一度、考えてみる必要があると思います。なぜ、不登校のままなのか、社会ではつらつと活動できる若者のはずが、引き込もるのか、などの視点で1割でも、2割でも、違うアプローチがあれば回復するのかもしれない、と考えてみるのは大事だと思います。

 

頑張ればなんとかなる、から一歩離れて、「今は」できない、なら「将来できればいい」という視点で、「今できるように」を強いらず、「今できることで頑張る」にハードルを下げる、より気持ちを健康的に明るい思考で過ごせるように環境を変える、家族で支援する、外部でサポートする、というのは多くの子に必要とされているのでは、と思います。

 

親族の子達は「一回、既定路線から離れる」ことはしますが、社会人となり仕事をして身を立てていく、という目標はほぼ達成しています。そのためだけに、プロセスをいろいろと試し、環境を変え、方向性を変え、常に選択肢を増やし、色んな方向性でやっていけるのが社会だ、と社会の柔軟性を利用していくことを家族や専門家や周囲の大人、先輩たちから知っていくからです。

 

学校がすべて、になると子供はつぶれやすくなるので、学校外で「喉が詰まるような息苦しさに苦しまず、少し楽に呼吸ができる所」を探してそこで力を蓄える、というのも一つの手段です。今は公的な支援がどんどん増えていて、児童相談所に行けばそこで無料で相談にのってもらえたり、教育相談をしている公的機関もあちらこちらにあったり、青少年なんとかセンターのチラシを見ると、不登校の子と親むけの相談会をしていたり、学習の場を提供していたりします。あちこちに出かけて相談したりカウンセリングを受けていると、そこに置いてあった保護者やNPO団体の相談先が見つかったり、寺子屋学習所のような場所が見つかったり、お寺の不登校の子対象の通い先があったり、本当に昔に比べて、小規模なところはちょこちょこ見つかります。

 

子供は、「自分だけ異質」という部分が学校で際立ってしまうため、思い詰めるのであり、外部であろうと「自分と似た子がいる」「自分と同じ苦しみを感じて学校がつらい子がいる」ということを知ると、少し楽になり、精神的にちょっとだけ、成長します。

 

そのためだけに、「同士がいそうな環境を探し回る」のが私達がよくやる手です。今は不登校の子はめずらしくなく、いろんな所で不登校の子の集まりや相談会がされているので、仲間を見つけることが難しくありません。フリースクールへ見学に行くと、自分と似た子が一人、二人は見つかり、少しホッとするのが子供の反応です。

 

「今の疎外感がずっと続く」と思いがちになるのが、子どもであり、またその子を心配しながら見ている親側でもあります。ですが「ずっと」変わらないのは部屋に何年も何もせず居続ける場合であり、外で「同士、自分と似た子」を発見し、「学校以外の道」を知り、気が楽になってその「違う集団先」に所属するようになると、年数を重ねるとその子の中に育つもの、強さや余裕、というのが自ずとついてきます。

 

人と違う道で頑張っている自分、というのがある意味自信に変わったり、少し道をずれても自分はやれている、自分は自分、先輩も中学に戻った、高校へ進学した、大学へ入学した、などお手本を見れば心理的な安心も得られ、どんどん、親が何をしなくても子供の中で化学反応が起こって変わっていきます。

 

「目の前で見たこと」や「自分が体験したこと」から少しずつ学んでいくのが発達凸凹の子のよく見られる特徴なので、先に書いたように

 

・「学校のクラスの中で孤独感と疎外感を一人で抱えて過ごす」と、その見たこと、経験したことから自己肯定感を下げるのは当然ですし、

 

・「少し脱線をしても、自分なりに強くなって、違う道から先に進む手段を取る体験をする」と、少しずつ小出しに他人に自分を出していき、工夫などを考えながら、動いて行ける方向にすすむ

 

わけです。この二つの道の分かれ目が、最初に子供が「学校へ行きたくない」と言い始めたか、無言で部屋から出なくなり、誰とも接触をしようとしなくなった、という初動で少しずつ、歩む方向性が違ってくると感じています。

 

途中で方向性は何度でも変えられます。親が、それを自信を持って「この世の中、あらゆるやり方がある、抜け道もある」と子どもに安心感を与えるだけでも、子供の「自分はもうだめだ、学校のみんなみたいにできない、学校のみんなとは自分は違うんだ」と絶望している子を引き上げるきっかけにもなれます。

 

学校で孤独、疎外を感じて傷が深くなった子ほど、動けるようになるまでには時間がかかります。それだけ絶望が深かった、ということであり、それはまだ生まれて10年、15年しかたっていない不完全で未熟な子に押し寄せた難題である、ということです。

 

ですので、このブログに何度も書いていますが、「学校という集団が人生のすべてではなく、そこはただの一つの通過点で、違う環境も違う方法もこの世の中にはたくさんあり、大事なのは健康で学び、楽しめる人生を少しでも送り、その経験を積み、自分に力をつけて自分のオリジナリティーや得意・不得意を上手く利用したりして、大人になっていくこと」です。そうすれば、社会に出て自ずと自分に向く、自分なりの進路が開けて行きます。学校の同級生など大勢の他人に向く、他人の普通の、または立派に見える道が自分に合うということではない、という根本的な部分を理解して「自分の道」を追求することです。

 

長くなりましたが、この時期、意気消沈していたり進学を前に「自分はもう無理だ、ダメだ」と絶望している子がいるはずなので、その子達に「あなたがそこまで絶望した体験をした場所は、広い世界の、ほんの小さな一か所だけでした体験。他に山ほど、違う環境があるよ。そこを試せばいいのだよ。」と励ましてくれる人が増えることを祈って、こちらの記事を書きあげました。

 

いつか、誰にとっても春が来ます。親族の子達、大人になった私達が、それを経験しています。今が苦しくても、「今」です。今は未来ではないですから、安心して、今がどん底でも、その先は違うということを信じてやってみてください。

 

 


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