昨日に記事をアップしたところ、親族の何人かから「塾の良さが語られていないよ!」と指摘されました。

 

親族の子供たちは、勉強ができなくてできなくて、学校の授業では理解できなくて、点数も取れなくて、困っていた子達が一定数います。そういう子供たちが「塾」という存在に助けられてきた恩といいますか、素晴らしいサポーターが日本にはたくさんいる、という点をもっときちんと説明して、今まさに困っている発達に凸凹がある子の保護者の皆さんが「助かった」という状態にまでなれることが、一番なんじゃないか・・・と言われております。まさにその通りです。

 

塾、というと一般的には近所の集団塾やテレビで宣伝されているような個別指導塾、中学受験を前提にした塾、昔から地元で活躍している老舗の塾などになると思います。ですが、私達の子供はそのレベルの塾には対応できず、つまり「学校の延長上」のような塾は効果がないどころか、心理的負担になったり、一緒に通う同級生との違いが顕著に出てより「できない自分」が浮き彫りになったりして、あまりうまくいきません。

 

では、どういう塾に行っているかというと、簡単にカテゴリーでくくりますが、「特殊な塾」へ通うことが多いです。でもこの特殊な塾、ほとんど情報がないこともあって、インターネットで調べて調べて、やっと見つけたり、塾の情報誌のすみっこにポツンと乗っていたり、電話帳の広告のところでやっと見つけたり、と探し方も「今風にスマホで探しているだけでは見つからない」ような特殊な所が多いです。

 

算数ができない、算数が大嫌い!という子が救われているのが、算数専門塾です。「算数の専門」というとおおよそ2つに分かれます。算数および数学が飛びぬけてできる子対象の、究極のトップ集団が集う算数専門塾か、算数を全く理解できていない、成績が全く取れない子のための算数専門塾か、になります。

 

親族の子はトップレベルの算数専門塾へ通っている子もいますが、算数嫌いで学校の授業では成績が取れない子は、後者の算数専門塾へ通っています。どんな塾かというと

 

・まず算数は授業を受けているだけでは成績につながらないので、ノウハウを伝授してくれる

・算数ができない子は勉強の仕方自体が間違っているので、「勉強の仕方」を丁寧に指導してくれる

・「いつ、何を、どのように使うか」の明確な知識がつくので「どの公式を使えばいいの」「どう解けばいいか全くわからない」から「これを利用して解ける」という点と点のつながりを、きちんと整理して定着させる

 

などが、主旨になります。

 

上に書いてある内容を読むと、「あれ?特性と被る部分が・・・」とお気づきになりませんか?

 

「授業を受けているだけでは成績にならない」=「自分から情報を整理して学んでいく力が弱い」

 

「勉強の仕方自体が間違っている」=「定型一般のやり方をまねしても成果がでない、非定型のオリジナルのやり方なら工夫して成果が出せる」

 

「いつ、何を(公式などを)どのように使うか」が判断できない=「得た情報や点と点の経験が散在していて、自分で結び付けることができない・自然に経験から学ぶ、はできるがかなりの時間がかかるので、ここ(結びつける、パターンを理解する)を支援した方が伸びが速い」

 

左に書いたのが算数で困っている点、右に書いたのが発達に凸凹がある子の特性で困っている点です。見事にシンクロします。ですので、本当に算数がわからなくて困っている子というのは、算数専門の先生から、より丁寧な「一般の定型のお子さんなら自然に当たり前に理解できること」を、当たり前に理解できないのだという前提で教えてもらえるならば、「わからなかった算数」が「面白いようにわかってきた!」に代わるわけです。

 

これは、定型の子の真似をして生活してみたけど、ズレまくってヒンシュクを買って、全然集団に溶け込めない、というのと同じで、自分の特性を理解して、特性に合わせた工夫やオリジナルのやり方をすると「集団でもズレが目立たず、むしろオリジナルな良い点も見せるなどして良好に過ごせる」に変わるのと同じです。

 

ですので、算数は定型の子が使うワークブックを使っても、定型の子がよくやる通信教育を使っても、定型の子が学校の後によく行くタイプの塾に通わせても、さっぱり算数を理解しない・成績は底辺で全く点数が取れない、という場合は、上記のアプローチが必要な子、ということになります。

 

学校では大嫌いな算数が、算数専門塾で習うと楽しくてたまらない!なぜなら、「わかるから!」と子供が塾から出てきてイキイキした顔で喜んでいるのを見ると、「ああ、ここが見つかってよかったなぁ」と、親はしみじみ思うのです。その塾がものすごくマイナーだとしても、近所の誰もが「そんな塾あった?ふ~ん」という反応を見せても、「我が家にとっては先生は救世主、その塾は子供にとって本当の学習の楽しさを経験できる所」と感じています。

 

定型の人々との世界とは違う世界で生きている、と感じるのはこういう時です。少人数のマイナーな人間の生き方なので、大多数の人が知らない、大多数の人の中では全く目立たないような場所にいるからこそ、私達向けの、特別な宝が埋まっていて出会っている感じです。

 

算数専門塾に通っている子は、都心にも田舎にもいますが、算数専門とはいえ国語力も伸びています。算数を理解すると国語力も伸びる、という「発達凸凹の子達特有の、情報の整理や経験や理解という点と点のつながり、自然発想できなかった分を知識で知る」という学びの結果、国語の基礎も理解できた、という感じでしょうか。

 

つまり、学習不振の根底には、特性部分の原因があって、この原因に対処した学習法にすれば学習は「ダメダメ」だった子でも伸びる、ということが親族の子達の経験上の結果がある程度出ています。ですので、学習ができないというのは「何が原因でできないのか」という部分に丁寧に向き合わないと、ずっと同じ理由で5年も10年もつまづき続ける、とも言えます。それほど「特性を良く知り特性に合った方法で学ぶ」というのは大事なことであり、社会に出る時の大きなヒントともなります。

 

仕事をするときに自分が持つ能力を上手く発揮させるのは「自分」であり、上司ではありません。自分が自分の体や頭を上手く使えなければ仕事では成果が出せない。その練習は、上のようにできない勉強を「自分の特性に合った方法で」やることで、こうすればわかる、できる、果てしない砂漠のように感じていた算数の世界が、整理された一冊の本のように利用できる!という所まで成長し、それがすなわち「自分の特性を上手く利用してわからないことをわかるように変化させた」という最大の成果なわけです。これが仕事でそのまま応用できます。

 

定型の人々、同級生と同じにする、という方針でいると、この「自分独自の方法」は身に付きません。塾の例でわかるように、定型のお子さんは「そこまで詳しく説明しなくても」自分で情報を受けて、公式を学べば「この問題にはこの公式が使える」という風に、自力で発想できる自然な力を備えています。ですが発達凸凹の私達の子供は、そうした自然の力が弱いかまたは凹んでいて、定型の子と同じ教育を受けても同じ力がつかない、という事が多々出てきます。

 

そのまま、定型の子達と同じように学校にいれば自然にできるようになる、という前提でいれば、非定型の子は自力で「いろんなノウハウ」を得られないことがポロポロと案外多く出てきて、自分は何も武器がないまま社会人になれば、学校という枠がなくなって「自分個人の力で生きていく」時に困るのは子供です。ですので、学校という枠で上手くやることに焦点を当てすぎると、この「人とは違う自分独自のやり方で上手く切り抜けるスキル」はなかなか、得られないこともあります。「人と同じだけの標準的な能力を身に着ける」という目標の学校教育が、発達凸凹の子達にはハードルが高い、説明不足でノウハウの伝授などはない、「一定の自然な能力を身に着けている人対象の教育」と感じています。

 

よって、苦手科目であればあるほど、それを好きになれるような「自力では発見できないノウハウや理解の仕方を丁寧に教えてくれる所」であれば、子供たちは「わかる!」なら、楽しく勉強できます。わからないのに無理にやらされる、書いても覚えられないのに書かされる、覚えてもその覚えた知識をどう使ったらいいかわからないのに覚えさせられる、という勉強の仕方では芽がでないけれど、発達凸凹の子の芽が出る方法というのは確かにある、ということです。

 

私の友人で色盲の友人が「私が信号の色がわからなくても、3つの〇のどこに光が移動したのかという場所で、渡っていいか、止まるのかを判断しているのと、発達障害の子が信号そのものは定型の子のように理解してなくても、親から教えられた習慣で青で歩く、赤で止まる、という習慣づけができている状態と、似たようなものだよね。」と言っていました。彼女は海外に出た時は、周囲の人が歩く時・止まる時の信号の状態を覚えておいて、渡る・止まるということを理解するそうです。国によって信号は違いますので、「色で判断できなければ、周囲の人の動きと機械の状態を観察して、パターンを覚えてそれをルールと理解して行動する」のだそうです。

 

まさに、私達発達凸凹がある人間がやっている「社会のルール」の理解の仕方と同じです。特性のある3歳や4歳の子が大人の言葉や説明では理解できなくてそのルールを使いこなせないけれども、親が「場所やパターンと紐づけして」教えたり、この状態の時はこう、とパターン化して、「特性のある子が使えるように」ルールを教える、そのノウハウと同じです。ルールや常識は、その子が使いこなせるやり方(ノウハウ)で教える、覚える、という部分がオリジナルのやり方なのですね。 色盲を持つ友人のご両親は、その点で独自のノウハウを上手に伝授されたと思います。

 

色盲を持つ友人は、幼稚園の時に描く絵の色付けについては全く「わからない世界」なのでどうしたらいいか困り、親に相談したところ「クレヨンや絵具のチューブにあか、と書いてあれば花や人の唇なんかに使えるよ。きいろ、とオレンジ、と書いてあるクレヨンや絵具は花を描くときに使うと綺麗よ。緑は葉っぱの部分。」など、絵のどの部位にどの「配色が記載された」クレヨンやチューブを使うか、という色を理解しないけれど、物と配色を結び付ける、というノウハウで対処したところ「黄色い花に黄色やオレンジの絵具が重ね塗りされていて素晴らしい!」と褒められたそうです。黄色とオレンジと書いてある絵具を、感覚で気持ちよく、濃淡はわかるので花の外側を「オレンジ」と書いてある絵具で、花のさきっちょを「黄色」と書いてある絵具で塗ったら、陰影ができて幼稚園児とは思えない写実的な絵になった、ということでした。作品の本当の色合いは、この友人は一生わかりません。ですが独自のノウハウで対処したら、「定型の集団社会で」評価されたわけです。

 

生まれながらにして「知らないこと」は理解できないかもしれませんが、工夫や自分なりのルールでこの社会を生きていくことはできます。特性があるから、障害があるからと考えなくても、「自分は人と違う部分があるけれど、自分オリジナルの方法でやれる」というのが、その人本来の自然な姿で、社会で過ごせるならその工夫やオリジナルの対処方法はどんなやり方でもかまわないわけです。色盲の友人の絵画も、お友達も保護者の人も、みんな他人は「仕上がった絵しか見ない」です。その人がどんなハンディを持っていて、どんな工夫をして、どうやって仕上げたかまで知らないし知ろうともしません。その部分は「一人一人の人生」で、その人だけの個人の歴史であり、その人だけの生き方であるだけです。

 

発達障害の子の生活や学習も、こうした「わからないながらに独自の感覚で」ノウハウを得て、ちょっと定型の人とは違うけれど、それなりにオリジナルのやり方で対処して社会生活をしている、というのは、この友人と同じです。ですので「その子独自のやり方を見つけていく」という部分をスルーして定型社会で同級生と同じ目標で同じやり方をマスターすることだけを考えてしまうと、こうした上手くしのげる対処、というのには出会えません。定型の人がするように「いろんな色を使って花を描きましょう」という先生の指示で描くだけでは、黒や茶色も使ってしまいます。お母さまが提案なさったような、「チューブの色の記載をヒントに、花なら赤、黄色、オレンジを使う」「茎や葉っぱは緑」「土は茶色、黒など」と、定型の子は見ればすぐ花は何色が多いか、などわかるので「見るだけでわかる・教えられなくてもわかる」のですから、このような教育はいりません。友人のお母さまのように丁寧にノウハウとして「色の分類、その色を主に使う対象物」という知識を提供して、その知識を武器に子供は絵画に挑戦し、乗り越えてきた、という結果が出るわけです。

 

私達が生活の中でしている「工夫」も、これと全く同じです。定型の人には必要のないことが、私達には必要なノウハウなので、そうした細かい知恵や対処法は「定型の子は当たり前に知っていてできるので」学校では教える内容として取り上げられません。「知らないし・できない非定型の子には」与えられない・教えてもらえない学校教育の内容では、発達障害の子にとっては説明もノウハウも足りない不足状態です。そこを補うために、習い事やちょと変わった塾、ちょっと変わったものの見方やとらえ方ができる大人の人の指導があるだけで、子供たちはより楽に、より集団社会に上手く適応することができます。

 

ある意味、支援級に在籍したり不登校で家庭で学習する親族の子が、進路を着々とマイペースに進んでいるのも、「定型の普通級の定番の学習に関わらない」子の方が「わからない!」と自信喪失したり、普通級の「非定型の子にとっては」説明不足な学習内容に混乱してしまう、混乱しながらも普通級のスピードに沿ってその子が処理できない情報をドバドバと入れて混乱を加速させる、ということがないからかなとも思います。ちょっと変わった塾などで学んだオリジナルの学習方法に集中できたりして、中学に上がる前に学力が定着している、という例もどんどん出るわけです。勉強がわからない、はその子の能力が低い、というより「学習方法がそもそも合っていない」という事の方が多い気がします。学校で学ぶ情報の処理がしきれず混乱している子の多くは、このパターンが多いと思います。

 

以上、取り留めなく書いてしまいましたが、「非定型の子はオリジナルの工夫と対処法があればやっていける、つまり具体的なノウハウが必要」という部分が伝わればいいなと思います。友人の例を出しましたので、これで発達障害に限らず、「人と違う部分を持った人間が自然に生きる姿」というものがなんとなくわかっていただければいいかなと思います。

 

 

 

 


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