先日、大きめの町にある大学の学祭に連れて行ってほしいという親族の子がいたので、休みが不規則な共働きのその子のご両親の代わりに付添で行ってきました。

 

その子は中学は2年生、3年生は不登校で修学旅行にも行けませんでしたが、高校は単位制の学校に通い、順調に通学日数を増やして卒業の目途が立っています。大学進学を希望しているので、今年は勝負年です。何回も、色んな大学に足を運んで「環境チェック」をしています。

 

学力が足りて受験を突破したところで、「やっていけない環境の大学」を選んでも続かない、と本人も家族もわかっているので、

 

「その学校の雰囲気が合うか」

「大学の授業の感じ」

「自分が希望する学部の感じ」

「先生や生徒の雰囲気」

 

を肌で感じて、体験して、「ここでやれそうだ」と思うところに全力を注いでいきたいという方針です。

 

今回の記事では「自閉の子がどのように成長するのか」の一つの例としてケースを出すのもいいのではないか、と思うことがあり、私が知る範囲での、親側の意見、他の親族から見た感想などを交えてこの子の成長について書いてみたいと思います。

 

この子の特性は、確かにあるようで不確かです。ぱっと見では判断しにくい部分を持っています。その主たる理由は

 

「見た目、言動と思考が一致していない」からだと、第三者から見て感じています。どういうことかというと、例えば

 

乳幼児期、あまり表情のない子でした。どちらかというと無言、無関心、自分の好きなことにだけ没頭、不思議な生物、という変わった乳幼児という印象です。あとは賢さが見て取れない、教えて学ばない、自分のパターンがあるようでない(固執する言動はあまりない)、他人との関係が希薄(親も含めて)、という、一般的な・大勢の乳幼児に見られるような、不満があると親に泣いたりすがりついたりして訴える、という子とは全く異なる性質の、一人の孤立した生き物、という感じでした。

 

ただし、ふとした時に道具的に必要な場合は「そのあたりにいる大人」の膝に座って、例えばペットボトルの蓋を開けさせたり、音のなる絵本のボタンを押すようにしむけ、大人に歌わせたり、ということをするようなこともありました。

 

大声で騒いだり大パニックを起こす子ではないため、保育園、幼稚園(田舎では1年しかないので乳児期の多くの年数は保育園で過ごします)に通園していましたが、「園社会、ルール」というものを理解しているようでしていない、ふとした拍子に「こんなことを理解しないのか!」とびっくりするような外し方をしたり、かと思えばきちんと座り、お絵かきの時間を問題なく過ごし課題を仕上げるなど、「その他大勢と同じ行動をする」部分もありました。

 

外す部分としては、お弁当の時間に皆がごはんを食べている最中に、他の子の水筒をなぜか地面に置く、という、先生もお友達も「?」と思う行動を突然取ったり、かけっこで、自分の走るラインを走らず、「ライン」というものをしらないかのように斜めに他人のコースを逸脱して走るというような「誰もしていない走り方」をしたり(他の子を見て学ばない・同じ行動をとらない)、かと思えば、一番幼稚園で暴れん坊と言われていた男の子と、ごく普通にもくもくと遊び、この子と一緒にいるとその暴れん坊と言われていた子がハイで騒がしくはあるけれど、他害が出ないので、いつもペアにされていて、それをこの親族の子も好んでいるようで、遠足や預かり保育時間、1泊2日のお泊り保育もこの子はそのお友達と二人の世界を展開し、無難に過ごしました。

 

大きな問題と言えば、表向きは「あまりない」ように見えましたが、困るのは「育てる側」の大人で、どのタイミングで「教えたことを学ぶ」のか「学ばない・学ぶ気がないのか」が判断がつかず、また親はこの子に「必要とされていると感じない」ことが多く、いわゆる「親子の絆」を感じられないのでたじろいでいた、という大人側の気持ちの持って生き方、育て方の悩みが増大していきました。

 

小学校は紆余曲折です。親が見てわかりにくい子というのは、子ども達にも「変わったやつ」と見えるのでしょう、まずは孤立から始まり、ただその孤立は本人が自覚していないのか・いるのかもわからず、「仲間に入れてもらえないことが嫌かどうか」すら、先生や親、同級生にもわからない状態でした。没個性というわけではなく、その子の「言動」から感じ取ることができない、という意味です。

 

親はどう対応したかというと、「人への関心や社会性は後で伸びるタイプかも」という親族の子達のパターンにならい、先に「知識や情報から提供していく」という割り切り方をしました。よって、その子が少しでも興味を示した知育玩具、本、DVD、習い事、道具などはどんどん、と言っても一度に1つを部屋に置く感じで、与えていきました。

 

小学校時代は学習に重きを置く生活になりますので、自然と「知識」に触れる機会が増えます。この子はそれが刺激になったのか、興味あることは電子辞書に入っている学習辞書で調べたり、がくげいのゲーム的な学習で遊んだり(がくげいについての過去記事:不登校、自宅から出られない、という子供に使えるオンライン塾や学習教材などについて。(追伸あり))、囲碁に熱中したりと、家での「暇時間」はほとんど、こうした「作業」に没頭していました。

 

不適切言動は、というと、「世間一般の常識」に合っているようでやはりずれている部分がある、というちぐはぐさが健在です。興味ある分野については「賢い」と感じさせる部分がありつつも、恐ろしく「知らなさすぎる、発達が遅れている、年齢相応ではない」と感じる部分もあり、はたして小学校高学年の学習、中学の学習についていけるのかどうか?と大人を不安に思わせる要素もありました。

 

ただ、一つ一つ、学びの経験を積んでいると感じたのは長く興味が続いていた囲碁とパソコン学習を通じて交流していた先生や小グループの顔なじみの「知り合い」との年数分の人間関係でした。赤の他人というより、興味のないその辺に座っている「何か」という存在から、言葉を交わすようになり、知っていることの情報を交わす相手として認識し、たまにお菓子を共に食べ、習い事前や後にお茶をしながら囲碁を「交流として楽しむ」「年賀状を作成して約束した子に送る」など、社会活動が増えていきました。

 

パソコンは「使う」ことに興味があり、習い事先で教えてもらったExcel、Wordの他、年賀状を作成したり絵をかいたり、音を編集したりと使える機能を色々と身に着けていくような状態でした。

 

幼稚園や小学校の時代には、これらは全く役に立たないように見えるかもしれません。が、この子にはずいぶんとこの時期が「大事な、この子の情緒面、いわゆる寝ている、刺激されても育ちにくい人間性」の部分に影響を多々及ぼしたと感じています。囲碁は「争う事」に重きを置かず、「技を身に着けること」に重きを置くおじいちゃん先生が個人でしている教室だったため、「詰碁」という技を中心に謎解きをする、その同志としての隣にいる「何か(人)」が「相談する人」になり「多くの時間を共に過ごして話せる友人」に代わり、「同じ興味を追求して楽しむ」段階にまで発展しました。

 

参加年齢層がまちまちのパソコン教室では、少し大人な知り合いや小中学生と「パソコンの中の、他人の個性」を覗き見て「他の人が創作するアイデア」に興味を持った瞬間から、「どうやってそのデザインをしたか」「どうやって綺麗に作成したか」を聞いたり、教えてもらう、という「生きていくための基本的なノウハウ」の一つをやっと体得しました。

 

その時々では「よくわからない、不思議な子」で、世間一般的に言う常識もなかったり・あったり、同級生や友達との関わり・交流もごく一人の限定(特例)以外はほぼなし、関心もなし、と言う風に見えた子ですが、中学以降にずいぶんと「理解できる」ように成長してきました。何が変わってきたかと言うと「話すようになった」「笑うようになった」のが大きいです。

 

中学では不登校をしましたが、この理由が体の不調でした。朝の学校通学中に強烈な腹痛で、学校で冷や汗をかいてしゃがんでいると先生も焦って親に連絡が来ましたし、片頭痛を起して吐いたり、食事が喉を通らないなど、色々ありました。精神的にはどうかというと、本人は「特にいじめとかじゃない。別に特別なにかあるわけじゃない。」という、自分でもよくわからない、ただ体が学校生活についていかない、という状態でした。ですので家や、通いやすい場所の塾、続けている習い事、夏休みや冬休みに学校で通える時に出かけていき、自習プリントをして帰宅する、というような中学時代を過ごしました。

 

高校は「通えるかわからない」という、体調の改善が見られるかどうか不透明だったので、単位制の学校で通学日数が最低限でよい学校を選び、慣れて、体調も改善し、片頭痛も常備薬となる薬が見つかったのでそれで対応し、高校は後半はほぼ順調に過ごしています。

 

大学の学祭に行く道中でも感じたのですが、この子は「幼少期、小学校の時期が思い出せないくらいに変わった」というのが正直な感想です。見た目の、かっこいい系の服装を自分で選んで着るようになり、身だしなみがクールな感じになって大人っぽく見えるからというのもありますが、会話が面白いです。「話さない子」だったはずが、「次から次に面白い話題で笑わせてくれる、アイデアが独特で話題も豊富なほがらかな子」に変貌しています。

 

その会話の内容も、高校の同級生がこう言った、こういうことをして盛り上がった、先輩が部活でこんなことをしたんだ、というような「今の人間関係の話」がメインです。これには正直仰天しました。つまりは、「今の学生生活を大いに楽しんでいる青少年」という感じで、会話の中にも認知の歪み、言動のとらえ方に偏りを感じる部分があまりない、という点が驚愕なわけです。

 

なら、特性ははじめからなかったのか、というと、違います。本人いわく、

 

「自分は興味がないことには、頑張っても頭が動かない。結果が出ない。だから無駄なことはしないことにしている。」

 

「親や兄貴のように、まず好きなこと、楽しいことで生活を埋め尽くすようにしている。そうすれば気分よく過ごせる。」

 

「物が見つからないとき、自分でも止められないほどの癇癪と怒りを爆発させてしまいそうになる。そういうのはほぼ毎日、悩む。でも毎回、自分をあきらめる。自分は物を見つける能力がない、ダメなやつだとあきらめる。腹が立つけどしょうがない。どんなに努力しても、他人はすぐ探し物を見つけられるのに、自分はどんなに頑張ったところで泣いたところで、探し出せない。」

 

「勉強は学校で頑張ってやってもどうせわからないし、努力してもできないならどうでもよかった。けど小学校6年の時に教わった塾のある先生の説明だけが、自分には理解できた。その先生のやり方と考え方がぴったりで、その科目の点数が伸びたとき、自分はやれると思った。それからはプライドをかけてできるところまでやってみるようにしている。結果も出ている。」

 

「自分には過敏な感覚がある。その日その日の感覚にムラがあって、ひどい時は嗅覚が良すぎてその場所にいることが耐えられない場合もある。例えばデパートの化粧品売り場。嘔吐しそうで通り過ぎることもできないぐらい。教室で電子音のような、なにか人が聞こえない音まで聞こえて辛くなる時がある。ただそういう時は何をしてもダメな時が多い。その時は学校を早退したり、家でしずかに詰碁をして過ごす。それでまた『過敏すぎない、普通に過ごせる程度の』感覚がもどる。」

 

「自分は変な奴とは思う。一番違う点は人と気持ちが違うところかなと思う。ちょっとしたことでイラっとしてる自分はキレやすいし、でも言わない・外に出さないなら、だれにも悟られない。そういう意味では嘘つきだけど、友達とうまくやれて平和で好かれるならそれでいい。でも他の子らも自分にとって変と言えば変。自分勝手な子も、嘘つきな子も、だらしない子も、いろんな子がいる。だから自分が変でも、他人もたいがいだし、気にしないようにしている。」

 

など、やはり、私達、発達に凸凹の特性を持つ人間独特の困難というのは抱え続けています。その中で、自分なりの「対処法」を見出して、特性を使いこなしているか、特性に飲まれないように用心している、という印象を受けました。

 

その中でも、「楽しい」という感覚を大事にしているんだな、と気が付きます。友達と動物園へ出かけたときの話、一緒に撮ったプリクラを見せてくれた時、ダメだったと思っていた模試で得意な科目で好成績が取れたという嬉しい顔、つまり表情が豊かになっていて、表現力もずいぶんとついていて、私よりはるかに社交性、社会性は高そうな子に育っています。

 

今は、見た目と中身が逆転しています。内心では、自分の失せ物が多く見つけられないジレンマ、癇癪や怒りの爆発、努力しても無理なことがあるという諦めと諦めきれない悔しさ、本当の自分は他人とかなり違う変人だけれど、周囲に悟られなければそれでいいという割り切り、などを強く持っていながら、外にそれが見えてきません。幼い頃とは逆に、外見は笑顔がかわいい、よく話す落ち着いた・柔和な印象の子、という風貌です。本人が意図的に隠して表に出さないでいる部分もありますが、意図せず自然に出るほがらかさが、一番の変化だと思います。

 

ただの、私やこの子の親や親族の私見ですが、おそらく、この子は「閉じて自閉していた自分から、ある時期から意識が外にもひろがってきたか、外から自分を見る視点の変化が出てきて、自閉と外部とのくっきり閉じた線がぼんやりと溶け出して、自分の閉じた部分を外から眺められるようになった」のだろうと思います。スペクトラム、と言われている範囲での意識や発達面などの移動が起こったのか、専門的にはわかりませんが。

 

その転換期は、本人の色んな要素で成長を促された中で出てきた変化であり、「これといってない」けれど、「たぶん、勉強とか習い事とか、いろんなことに慣れて余裕が出た時期からかもしれない、小さい頃のことはあまり思い出せない」そうなので、脳内や体の成長も大いに影響しての結果かなと思います。発達凸凹の子達は、やはり発達面で凹みがあっても伸びたり、伸びなくても補えたりするような成長はするんだなと感じます。

 

とりあえず、分析的なことはあまりできていませんが、第三者から見て「変貌を遂げたように見える」特性ある子、ただしその時々の見た目と中身が合致していないタイプの子、という例を書き出してみました。子育て中の親御さんの、子供に対する理解か何かの参考になれば幸いです。

 

 

 

 


人気ブログランキング

 


にほんブログ村