今日は、発達凸凹がある人間の「一つの物の見方」を伝達してみたいと思います。

 

定型発達の大勢の人が、考えたこともないような「考え方」「発想」をするのが発達に凸凹がある人間の特徴でもあると思います。だからこそ、話し合っても分かり合えないケースも日常ではちらほらと出てきたりします。ただ、私達の場合は「分かり合えないまま」何年も費やすことはしない、というだけです。その理由は、私達親族の場合、1つの家族の中に「定型」、「非定型」、「どちらかわかりにくい境界線をウロウロしている人間」、そういう3タイプが共存しているからです。

 

お互いの思考や生まれ持った価値観、好き嫌いが全く違うからと言って「分かり合えない」と一刀両断するには近すぎる生活環境に住んでいます。またこの「家族」という小さい社会が「初めての社会との出会い」であるので、親としてはこの家庭で子ども達、時には親の側も、多くのことを学び、そして外の世界でその「知識とノウハウという武器を持ってサバイバルしていく」ことが必要だ、と心底感じているから、家族というものをある意味、有効利用しようとしています。

 

家族というのは、何であるかを理解するのは、小さい世代、若い世代の発達凸凹の子達には難しいのではないかと思います。自他の区別がつきにくい性質があり、知識とノウハウで「自他の区別をつけるよう努める」まで、成長する過程では紆余曲折があり、乳幼児・児童期は混乱期でもあるからです。

 

自分の考えている、生まれたときから信じている価値観、自分の感覚、思考回路は当然、家族全員が同じであるという前提で生きるスタートを切っていますから、相手の手足、時には思考回路さえ「自分だ」と思って用い、クレーンしようとしたりします。相手が自分と違う言動をすると「なぜわかっているのに、やらないの!私が嫌いだからなの?」と、同じ思考、同じ価値観なのに、嫌いだからやってくれない、という風に認知が歪んだ状態で物事をとらえ、怒りを貯め始めるのもこの時期です。

 

親ですら、発達凸凹がある人間の場合、どんなに用心していても、ふとした拍子に「自分の発達特性が支配する自我」の方に振り切って、目の前の子供を「自分と同じ」と思い込んで、指導したり、アドバイスという名の「自分の価値観や信じることへの同化を強いる」発言や言動をしてしまいそうになることがあります。

 

私達の場合はこれは最も自戒していることで、スマホや携帯、メモ、スケジュール帳やカレンダーに「自分は独特である」とわかる一言を書いている人間が多いです。自分は独特な人間である、だから、子どもや家族は自分とは、性格、価値観、好き嫌い、あらゆる面で違う、ということを見て常にわかるようにしています。

 

ここまで大人たちが用心深い理由はただ一つ、

 

発達凸凹の特性を持つ自分達は、子供時代に一度は、大人に『自分は相手の希望を叶える道具扱いされている、相手が自分をクレーンしようとしている』という気分を味わったことがあるから、またはそう思い込む経験があるから

 

です。

 

親だろうと、教師であろうと、高名な偉人であろうと、誰だろうと大人は完ぺきではありません。親は、子どもを初めて育てる時には子育て初心者で、当然あらゆる失敗を繰り返してある程度、育児ができる大人に育っていきます。その過程で、失敗したあれこれの一つに、この「発達凸凹の子が感じる理不尽」が含まれていることがあり、大人となった発達凸凹のある人間が、自分の子供にはそうした誤解を与えないように、と用心している・・・ということです。

 

信念を持った大人というのは、時に強く一方通行に出たりします。いわゆる「説得に始終する」状態になりやすいのです。私達はこれを気にします。このブログで過去に、何度か書いていると思いますが、私達は小さい赤ちゃんや乳幼児であっても、普通に語りますし、話をします。要は、子どもだと決めてかかって、勝手に説明や相談のないまま「こうしなさい」「こうすべき」という決断ありきで子どもを動かすことを嫌います。なぜなら、自分達が子供時代に大人側からやられる、最も嫌うやり方だったからです。

 

大人は「大勢の定型の人が平和に過ごすための社会ルールの大切さ」を知っています。多くの人が妥協し、自分の意思と社会のルールを50%、50%の妥協の中でやり過ごしています。自分を捨てず、しかし相手も受け入れる、それが対等であるような社会になっています。一方で、発達凸凹のある私達は極端に言うと、生まれたとき自分100%、相手は自分と同じ価値観・思考回路を持っていると前提して生まれてきたとして、相手の意思や希望は、正直0%となっています。自閉している自分の100%の世界の中では、現実社会は0%です。ですから、育てる親が何もしなければ、社会不適合を起こすのは当然です。よって、子が初めて出会う親は、発達凸凹の特性ある子供を「刺激し、導く人間」の一人とならざるを得ません。

 

そのやり方は、このブログに書いてきたように、子どもに「親の自分と、子のあなたは違う人間である」ということを常々、生活の中で理解させるように、お皿を分ける、持ち物を分別する、兄弟姉妹でシェアする物を最小限にし、必ず自他の区別がつけられるように生活環境を整えるところからスタートしています。

 

例えばおもちゃは兄弟でそれぞれ、自分の物を持つ、というところからスタートすれば、成長して「貸し借り」ができるようになるのが早いと感じます。逆に、「兄弟姉妹で一つのおもちゃ」をシェアすると、いつまでも喧嘩して「自分が100%」の自閉の世界で自他の境界線なく、理解されない!自分の邪魔ばかりする!自分が嫌いだからだ!と認知をゆがめていきます。そこには「自分と他人の世界」がありません。それを理解するチャンスが失われたまま、「自他の違い」を理解しない段階で「物をシェアする」という難しい社会性を求められるからです。おもちゃ一つを与える方法を間違っただけで、こんな違いが起きる、子どもが怒りに取り付かれひねてしまう、という大惨事が起きるのが私達、親族のリアルケースです。

 

私達は過去、発達凸凹という特性や障害に無知な時代に生きてきた親族も多く、そうした失敗から抜け出そうとしてきました。その際に大事だと思うのが、「自分というものを大事にし、相手というものも大事にし、そして大事にされる」というフィフティーフィフティーの経験と、その努力があるからこそ得られる、他人からの尊重や敬意、好意です。自分の自閉の世界だけを100%、受け入れてもらっただけでは、社会で生きていくのが苦しく、また軽視されたり、理想に反して失敗したと感じることが多くなり、辛い将来を送ります。自分から学ぶことが難しい特性の子として、家族が「自分とは違う」と知る小さな出来事、それが外で生きやすくしてくれます。多くの人のタイプを「パターン」として知っていく、知識がたまるほど、外に出たとき、学校で、社会でサバイバルしやすくなります。相手を尊重することが、自分が尊重されることにつながると、そこで初めて自分50%・他人50%の比重を保つ努力をする良さも体験もします。

 

そのためには、自分が「こうなってほしい」「こう育ってほしい」「こんな風に言動してほしい」という親の希望をストレートに伝えただけでは、子供側には逆効果になることを戒めとして、知っています。自分が子供であった時、「自分が100%、全員がそのはずだと信じていた自閉世界」で、なぜ自分だけが人と同じことができないのか「自分だけが、なぜかわからないけれど、人と違う結果を引き起こし、たくさんのことが失敗に終わる」というある意味正解で、ある意味間違っている、けれど直面する現実を受け止められず大混乱する乳幼児・児童期の時期、はっきりと見えるのは、命令してくる親のこと、親の言葉だけ、だからです。それはとても認知をゆがめやすい大きな誤解の原因です。

 

だからこそ、「なぜ親はそうしたことを言うのか」の理由や根拠を、非定型の子に視覚的に、絵で、または声で、言葉でつくして説明したならば、いつの日か、その理由の説明の絵や言葉の断片が、パズルのように一致するときがやってきて、「ああ!」と突然、理解できる瞬間がやってきます。この理由や根拠、というものが説明されないとわからない。それが「暗黙の了解」で理解しあえる定型の人々との違いであり、逆に言うと、その定型の人間が無意識に情報を処理し、無意識に社会性のある価値観を会得していく過程こそが高度であり、非定型の人間はその機能を起動させずに生まれてきたけれど、手動に切り替えて、経験から学んでいくことはできるわけです。

 

子供がもし、言葉や態度のはしばしに、自分は尊重されていない、自分は理解されていない、自分はただただ、親がやりたいこと・親が信じること・親の希望を叶えることを、子どもに願っているだけで、親は子を自分のコピーにしたいだけなのだ、自分は親の思う通りにふるまえと指示され「道具にされている」と感じているとしたら、それは、私達の親側の発達凸凹の自閉特性が全開になり、目の前の子供を他人であると認識できず、自分を100%、子どもを0%にしているのかもしれない、と思うようにしています。これは大人同士でも指摘します。夫婦でも指摘します。それが最も、私達が子育てする中で、重要な気づきだからです。

 

そうして自戒し、日々、自分と子どもは全く異なる生き物だ、価値観も好き嫌いも違う、感覚も違う、と自らに言い聞かせて生活すると、服を選ぶ時でも、食事をする方法やタイミングでも、学校というものに取り組むときでも、子供時代の自分と今育てている子供が違う道を歩んでいることに気が付くことができます。

 

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自分はいつも、肌触りの良い服を優先的に来ていた。けれど子供は、色やおしゃれなデザインの服を好んでいる。友人が来ている服にも敏感で、センスのない親の私が服を独断で買うと失敗も多く、子もハッピーじゃない。予算の中で、ネットで最終候補の中から子どもに選ばせてやると、喜んで服を大事に着てくれる。

 

自分はいつも、家族全員で朝食や夕食を食べてきた。だから自分の子供とも、家族一緒に食べるのが当然だと思っていた。一緒に食べたかったけど、子どもは小食で、早い時間から少しずつ食べ始めないと、家族全員と一緒に食べ終われない。子供は「自分一人が食べるのが遅い」のはストレスに感じていて、一緒にいただきますをすると、どんどん元気がなくなり、食欲がなくなる。自分が劣っていることを自覚する場=食事の場となるからだ。それは避けたい。楽しくご飯を食べて、食事はいいものだと知ってほしい。だから、自分の子供には、食事を先に取らせ、あと少しで食べ終わるという頃に、残りの家族は全員でいただきますをして追いつこう。一緒に食事を終え、ご馳走様をすることができた子の笑顔はとてもいい。時には食後のデザートを、家族全員で楽しむこともできている。食事の前と後にはごちそうさまができる。自分はこうして、社会のルールの半分は教えられていることで満足しよう。子供が食事は楽しい、食べることはつらくない、と感じてくれていることで、子の世界50%、社会50%の妥協ができていると思おう。

 

自分は、無理に学校へ登校し、精神を病んだ。だけど、自分の子供は、飛び飛びに登校しているけど、学校のカウンセラーとも、発達相談所のカウンセラーとも子供はつながり、心身が健康なまま、なんとか社会生活ができている。子供と自分は違う道を歩めている。そういう風に、子育ての成果の実感を感じることもできる。

 

自分は運動が得意で、学校でも野球を小学校から高校まで楽しんだし、いい友人もたくさん得た。地域の野球クラブでも友達がたくさんできた。子供には、同じようなスポーツで楽しんでほしかったけど、外のまぶしい太陽の光が辛いようでいつもまぶしい、目が痛いと言う子に、外での活動は苦痛でしかない。インドアで、たった一人で取り組むボルダリングが好きで、いつもいつも、学校から帰ると親がボルダリングジムに送迎し、子は親の存在も忘れ、ただ一人で黙々と取り組む。それでも、顔なじみの子供から話しかけられると、話ができるようになってきている。ボルダリングの設備が整っている中高校の受験をしたいと言い出したから、我が子はこれでいい。きっと、同じ興味のある活動で、この子は少しずつ、一人でも友人を作っていくに違いない。それまで、じっと見守るのは大変な忍耐がいる。孤独な子の様子が気になるのは親の自分であり、子はまた、感じ方が違うのかもしれないし、彼には彼のペースがあるのだ。

 

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上の4つは、親族の親達から得たエピソードで、実体験です。最後の野球をしていた親は、実は定型です。定型の人であっても、子どもには「期待」し、別人だとわかっていても「自分が良いと思った経験は、良かったからこそさせたいという強い思いもある」のだそうです。ただ、それをダダ洩れ状態で「絶対いいから!」「やるべきだ!」と思い込んで、野球チームに体験させてみるような強引さはありません(親族のこの一つの例としては、です)。特性素のままの発達凸凹の親だったら、最悪なケースでは、クレーンするかのように子を無意識に自分の狭い自閉体験と同じことをするように誘導してしまう、または自分が嫌いだとかやめとけ、と思うものは優先順位を下げる(させない、避ける)、そういった自分と同化するような危うさはないように思います。私達は、継続的に、忘れることなく自戒しないと、同じようにはふるまえません。

 

私や発達凸凹のある親族の場合は、自分で自戒し、正直でいるようにします。こういう風にです。「確かに、私の自閉の世界に自分の子を巻き込んで、自分と同化させてしまうようなリスクは内在している。」と、自分達の特性に正直でいます。自分と子どもの自他の境界線をはっきりと大人側から線引きすることが、子の人生を自由にする、そして自分が経験した以上に幸せに、自分が経験した以上に幅広く、自分が経験しなかったことも・自分が嫌いだった・失敗したようなことも、子どもはどんどんしていく、そういう「自分とは異なる子どもになっていく」結果の喜びを見られるということも、親族達の様々なケースから知って、そちらに期待するのです。

 

まとめきらず、長くなりましたが、この11月に子育てをスタートし不安になっている親族の一人へエールを送るとともに、私達と同じ特性を持つ発達特性のある子育て中の親御さんの発想の転換の一つ、参考の一つとしてお役に立てればと思い、書いてみました。

 

 

<参考資料>

親族間で使い込んでボロボロになっていますが、上の育児を始めた親族に新しいものをプレゼントしたものの一つです。内容が海外風でずれたところは日本人向けに親族が手書きで書き直した過去の付箋、増やした絵・写真説明もコピーしたりしました。

 

 

 

 

 


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