猿楽から能楽へ⑥神事能の“観音院” | 市民が見つける金沢再発見

猿楽から能楽へ⑥神事能の“観音院”

【金沢・大野】

藩政期、金沢で催された能と囃子の御能は、大別すると3種類がありました。1つ目は、社寺で行われる奉納のための年中行事2つ目は、藩主公的な儀礼や行事・藩主家族の慰めなどのためのもの。3つ目は、藩士など武士や能役者の自宅に於いて行われるものでした。その1つ目の社寺で行われる御能としては、観音院と大野湊神社(寺中町)の神事能久保市乙剣宮、小橋天神の奉納囃子4つがありました。

 

 

観音院の神事能≫

神事能は、元和3年(1617)11月に、前田利常公次男千勝丸(初代富山藩主)の宮参りの際、それを祝して11月3日・4日の両日に神事能が行なわれたと云われています。その翌年から4月朔日・2日に定めて毎年行なわれるようになります。の当日は町奉行等が警備のため出座するが、実際の運営は本町の町人たちによって行なわれ、興行の諸費用装束の管理などは本町の町人が負担しました。金沢では惣町の祭りがなかったので、この神事能が最大の年中行事で、最初の演目の「翁」は、夜明け近くの午前3時過ぎから始まり、町人たちは前日の夕方から詰めかけ、そこかしこに寄り集まり、日頃、稽古した得意の謡曲を謡ながら夜を明かしたという。

本町:金沢では、古い由緒ある町で、地子銀(土地に対する税)を免除されていましたが、夫役(ぶやく)と役銀(やくぎん)を課せられていました。町の格付けでは、最上位に位置づけられていていました。町数は藩政初期とはかなり違いますが、元禄期も幕末も大体37町前後だったそうです。以下、町格では、七ヶ所、地子町、門前町、相対請地がありました。)

 

金沢に惣祭りなかったのは:加賀は元一向一揆の国であったことから加賀藩では、定期的に多く人が集まる町ぐるみの惣祭りは認められなかったと伝えられています。)

 

(観音院)

 

真言宗長谷山観音院:卯辰山入口にある観音院は1200年の歴史をほこり御本尊木造十一面観菩薩を祀り、金沢の発詳にちなむ「芋掘り籐五郎」伝説として有名な歴史的由緒をもっています。慶長18年(1613)、加賀藩三代藩主前田利常公の正室珠姫様が観音様を篤く信仰され、社殿を寄進したとされています。さらに元和2年(1615)球姫は場所を移し観音堂を起こし、さらに翌年には利常公は山王社(秀吉を祀る)・客殿などを寄進し寺格を整え、御本尊の祀られている厨子には珠姫様が徳川家よりお輿入れされた証の葵の紋と前田家の梅鉢の紋の二つの紋を残されています。その後、観音院は加賀藩前田家の安産祈願・お宮参りなどの祈祷所となったものです。それからは、大和、鎌倉と並び、加賀の長谷観音とうたわれ今日まで多くの信仰を集めています。

 

観音院の”現世利益“:観音院さんの四万六千日の日にお参りをすると、46,000日分お参りしたのと同じ“御利益”があるといわれていますが、その46,000日は約126年分ということになります。また“とうもろこし祭”とも呼ばれていて、魔除け・家内安全・商売繁盛に御利益のある縁起物の“とうもろこし”を販売するのも特徴です。また技芸や書道の上達も祈願されました。旧暦の7月10日、卯辰山の観音院では毎年、縁日が行われます。

 

幕末の「亀の尾の記」には、この日のことを「所狭しと茶屋が軒を連ね、見世物、のぞきの類までここに建ち、繁盛に驚けり…」とか「定茶店あり、酒肴をひさぎ、また、楊弓場もあり、また、土器を投じて…、浅野川にのぞむ断崖上に筵をもうけ、酒飯を喫し遊ぶものこの土器を投げ…」等と当時の観音院での行楽が記されているそうです。

 

(病占い籤引き)

 

諸病治癒伝承:筮竹のような百本の籤で病を占い、籤には番号が100まで付けられていて、別に備えてある処方箋の台帳のようなものと符合すると処方箋を発行するようになっていました。信者はその処方箋を持って街の薬舗で薬を処方してもらうシステムです。金沢には、八坂の永福寺でも良く似たシステムがあったと聞いたことがあります。

 

拙ブログ

”心の道“癒しのスポット➁観音院

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観音院神事能には、金沢に百数十人いたと云う町役者が出演し、シテ方は国元の御手役者歴代の諸橋権之進・波吉宮内やその弟子たちが勤めています。観音院の神事能の歴史を辿ってみると、宝暦9年(1759)3月23日に加賀藩10代藩主前田重教公の異腹兄勢之佐(利和・参照加賀騒動)の死去したことから、4月朔日・2日の能が延期になり、4月9日の宝暦の大火(金沢城始め金沢の8・9割方焼失)観音院も類焼し、そのため、この年の神事能は中止されたが、再建工事が進む中、同年11月6・7日に祭礼が行われ、仮小屋の仏前で囃子が催されています。また、天保14年(1843)4月朔日「翁」から始まり4番目「松風」が演じられる最中、隣の法(宝)泉坊から出火し同寺は全焼する火事になり、観音院は風下にあたり、火の粉が舞い散る中、見物人が一人も居なくなったのに、能が続けられたという。いずれも、金沢の町役者の舞台に掛けた執念というか意気込みが窺えますが、幕末の御能の空白時代に遭遇し、明治の始めに終幕を迎えています。

 

 

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このエリアには、観音院、山王社のほかに、医王院、愛染院、市姫宮、そして三重の塔、能舞台、定茶屋の丸山茶屋、広場があり、地下には洞窟が掘られていたそうで、観音院の胎内めぐりだったのか、はたまた軍事用か、よく分からないそうですが、工事方法は辰巳用水と同じらしい、また、昭和15年(1940)頃、浮浪者の通称初太郎が、この洞窟をねぐらにしていて、東の廓に手伝い等をしたという伝説が残っています。

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・「大鼓役者の家と芸―金沢・飯島家十代の歴史-」編者長山直治、西村聡 発行飯島調寿会 2005年10月8日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか