前回(第3回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2017年12月号に掲載されたエッセイの4回目です。


第4回


告知

2017年7月14日、妻の診断が確定した。

「乳がんです」

 札幌市にある麻生乳腺甲状腺クリニックの診察室で、亀田博院長はパソコンのディスプレイに目をやりながら淡々と話した。それはまるでコンビニの店員が、

「420円です」と会計を言うのと同じような口調だった。人生を左右するような大事なことをそんな事務的に話すのはいかがなものだろうと思う人もいるかもしれないが、僕は院長のそんな口調に救われた。テレビドラマのよくある台詞のように、

「実は…残念ながら…がんです…」などと、じっくりと熱く語られてしまっていたらかえって混乱の度を強くしていただろうと思う。

 亀田院長は告知の後、丁寧に妻のがんがどういったものであるかを説明した。しかし、このときの僕らは院長が何を説明しているのかまったく頭に入っていなかったように思う。がんの告知とは、される側にとってそれほどのインパクトがあるものだった。

「五分五分とは聞いていたけど、やはり悪いほうだったか…。どうするんだこれから。4人の子供らになんて言えばいいんだ。そうだ、一番大変なのは妻だ。こんなときこそ男であり夫である僕がしっかりしなければ。…しっかりしなければ」

 そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡るだけで、院長の話はさっぱり耳に入っていなかった。

「…ということなんですが、わからないことありますか?」

 院長がそう尋ねてきてハッと我に帰る。院長の表情を見ると、まるで自分の話が届いてないことを悟っているようだった。

「あの、えーっと…、部分切除じゃなくて乳房を全部取ってしまったほうがいいんじゃないでしょうか…」

 僕はかろうじて部分切除で手術をするということだけは聞こえていたので、全摘術のほうが予後がいいのではないかと訊いた。妻は押し黙ったままで僕はその顔を見ることはできなかった。

「すべてを取ってしまうというのは、みなさんが思っている以上に見た目が変わります。見られることが恥ずかしいというより、見る人がびっくりするだろうからと温泉に行くことを控える患者さんもいるくらいなんです。今は乳房の再建術も進歩していますが…」

 案の定、見た目の心配をされたので僕もすかさず切り返す。

「いや、この際、見た目はどうだっていいんです。万が一乳がんだったときは、見た目は気にせずに生き残るのに一番いい方法を取ろうと妻とも話してきました」

 まくしたてる僕に、院長はまあ落ち着いてという表情をしながらゆっくり話し始めた。

「奥さんのがんの進行や転移の状況はこれからもっと詳しい検査をしますけど、現段階では部分切除でも全摘術でも予後は変わりません。それなら部分切除がいいでしょう、ということなんです」

 それからは今後のスケジュールが説明された。手術日は翌8月16日、その前に3度の検査が予定されたが、そのうちの1つである乳房造影MRIは妻が喘息持ちのために中止にした。術後はホルモン剤による治療がかなり長い期間行なわれるという。

「生理はまだありますか?」との院長の質問に、

「あります!」と妻ではなくなぜか僕が素っ頓狂な声で答えてしまい恥ずかしかったのだけれど、こんなときにいつも笑ってくれる妻は俯いたままだった。

死を意識して発する言葉

 14歳の長女はいわゆる“難しいお年頃”だ。小さな頃から聞き分けのいい子で、はたして反抗期がくるのだろうかと心配していたのだが、中学生になってみるとそれなりの反抗はあるようで妻とよく小競り合いをしていた。ある日、何か物を置きっ放しにしていたとかだったと思うが、生活の中での些細なことで妻が長女に注意していた。いつものごとく、長女は返事だけをしてスタスタと2階へ行こうとしていた。

「都合が悪くなったらすぐいなくなろうとする。あなたにちゃんとした大人になってほしいから伝えているのに。いつまでも一緒にいられるとは限らないんだよ」

 妻のそんなぼやきを聞いて僕はハッとした。妻が乳がんでなかったらなんてことない愚痴だったはずだ。

「いつまでも一緒にいられるとは限らない」

 そんな当たり前のことが現実味を持って彼女の口から発せられたかのように感じた。

 僕は以前、仕事で医療系の記事を書きながらこんなことを言っていたことをふと思い出した。

「がんという病気は悪い病気じゃない。だって、人生を終える準備ができるんだもの。突然死に比べたら良い病気なんじゃないか」

 この頃の僕は家族のために仕事をし、どこか一人前になったような気がしていた。しかし、まるでわかっていなかった。なにかわかっているような気がしているだけだった。なにが「人生を終える準備ができる」だ。お前になにがわかるというのだ。死ぬかもしれないという現実を受け止め、次の世代になにか伝えようとする妻の姿を見て、僕は若かった自分を殴ってやりたかった。

 僕は部屋に引きこもろうとする長女を追いかけ、

「母さんが注意しているのに、なんだその態度は! 母さんがどんな気持ちでお前に注意しているのかわかっているのか!」と大声で怒鳴り、きつく叱った。ひとしきり説教した後、妻を探すと寝室で彼女は伏せていた。付き添っていた次男が言うには、胸の痛みを訴えて動けなくなったらしい。長女が自分のせいだと思ったようで妻に「ごめんなさい」と繰り返し謝まっている。

「いや、僕のせいだ…」

 僕は自分の未熟さへの怒りを娘にぶつけてしまった。大声で怒鳴り散らして八つ当たりしただけではないか。それが妻のストレスとなったのではないか。妻を支えなければならない僕がなにをやっているのか。先般、両親の離婚で僕は父と絶縁した。父が僕にしてくれたように、僕は自分の子供を育てようとしてきた。しかし、今になって父の存在を否定することはこれまでの僕の子育てを否定することにもつながった。僕は模倣すべき父親像を失っていたのだ。妻も子供も支えられぬ自分が小さく、とても小さくなっていくような感覚に僕は囚われていた。


(『北方ジャーナル2017年12月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2017年


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